「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その2)
※この記事は、およそ9分で読めます※
――さて、続きです。
匿名アカウント氏の『BEASTARS』評の感想であり、まずは本note前回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
・エモン、『BEASTARS』を予言してたってよ
さらに、そもそもの『BEASTARS』も読むのがベストなのですが、ぼく自身、先日ようやっと二巻を読了したばかりで、本稿もあくまで匿名氏の批評を根底に置いたものなので……。
前回、『BEASTARS』を予め「風刺」し、「論破」した作品がある、と述べました。それは一体何か、というところから始めましょう。
『ミノタウロスの皿』という藤子・F・不二雄のSF短編です。
簡単にあらすじをご説明しましょう。
主人公の青年は21エモンみたいな顔をした宇宙パイロット。事故でとある星に不時着したが、幸運なことにそこは地球型の惑星であるばかりか、高度な文明と温和な性格を持つ住人たちがいた。
彼らに歓待され、主人公は無事、助けが来るまでの時間をその星で過ごすことができる。
ただ……その星には一つだけ地球との違いがあった。
その星は「牛の惑星」であり、文明を築いているのは牛――否、自らを「ズン類」と称するその星の人間たちは地球の牛とそっくりの外見をしていた。
人間は彼らの家畜であった――否、彼らの家畜である「ウス」という動物は、地球人とそっくりであった――。
ウスはズン類の食肉用として、飼育されている存在だったのだ……。
いえ、まあ、「価値観の転換」がSFの醍醐味であり、そこにそこまで堅苦しい風刺性を求めるべきではありません。何よりこの「ウス」は高度な知能を持ち、主人公とも普通に会話を交わします。そんな存在を食っているズン類はやはり野蛮とも思え、「両者の立場を変えたことによる風刺」と呼ぶには少々厳しいし、別に藤子Fも食肉は野蛮だと訴えたかったわけではないはず。
ただ、主人公はこの「ウス」の美少女ミノアと心通わせ、何とかズン類に食肉を止めさせようとするのです。
何しろミノアは「ミノタウロスの皿」に選ばれて、大祭の際に食べられてしまう運命なのですから。
しかしウスは「食べられること」を栄誉と考え、ズン類はウスを愛護し、食べられるまでの生活の保障をすることでそれに報いている。
つまりここには両者の合意が形成されており、それは正当とも言えるし、またぼくたちの食肉文化の「戯画」と取るにはやや現実離れしているとも言える。
つまり「風刺として見るにはやや無理がある」という意味では本作に近いのですが、この両者を対置させてみると、思わぬ化学変化を起こすのです。
従来、この『ミノタウロス――』については「価値観の違いを描いた作品云々」といった評価ばかりが与えられてきました。いえ、それは決して間違いではありません。
しかし上のミノアは美少女として描かれ、祭典では神輿の上に全裸で鎮座しています。
また、ウスにとっての価値観は「ズン類に美味しく食べられること」に集約され、ハムやソーセージ、さらには肥料として扱われることを不名誉と感じています。
作中、男の「ウス」も(むしろ女よりも)多く描かれてはいるものの、実際に食べられようとする描写があるのはミノアのみであり、ここからは両者の関係に男女の性の暗喩が見て取れるのです。
いえ、作品としては恋仲になるのは主人公とミノアであり、ズン類とウスの間にそうした感情があるとは思えない。ただ、「価値が認められ、選ばれる栄誉」を本作では「女性の性的魅力」のアナロジーで描き出しているとは言えるわけです。
『BEASTARS』は食われる者にとっては「加害」でしかない「肉食」という行為を「セックス」のアナロジーとして描くことで、「セックスは女にとっては一方的な加害でしかないのだ」といった「嘘」を捏造することを目的とした漫画である、と言えます。
ひるがえって『ミノタウロスの皿』は「食われること」を敢えて「栄誉」とし、そのシーンに女性の裸体を描くことで、本作に五十年前に「おいおい」とのツッコミを入れた作品であった、ということができるのです。
・兵頭、二巻読んだってよ
さて、『BEASTARS』に戻りましょう。
上に二巻までを読了したと述べましたが、この巻では主に二人の男性がレゴシと対比するように描かれます。
一人はルイ。彼は当初よりレゴシに「強い者としての責任を引き受けろ」と説いています。彼は演劇の主役を怪我を押して務めているのに、レゴシが自分の強さを押し隠そうとしているのが不快なようです。力のない草食獣と力のある肉食獣の対比というわけなのですが、しかし、怪我で困ってるのと牙(攻撃用の武器)があるというのとは話が違うし、対比になってない。文句を言われたレゴシも困るしかないなあと。
そして劇の二日目、倒れたルイに代わり、トラのキャラクターが代役に。このトラは肉食獣である自分(たち)が草食獣に遠慮していることを不満に感じ、肉食獣らしく生きようとしているキャラなのですが、それでも舞台のプレッシャーはハンパなく、それに耐えるために「ウサギの血」を密かに飲んで、レゴシの怒りを買ってしまいます。
レゴシは芝居を越えてトラをボコり、しかしトラは「お前も敏感に反応した以上、ウサギの血を知っているのだ、ウサギを殺したことがあるのか」とささやきかけ、レゴシの心を乱し、「ともに業を背負おう」とBL的演出と共に誘惑します。
すんでのところでルイが現れ、トラをやっつけてレゴシに「お前は正しい」と告げるというオチですが……これ芝居、台なしなんじゃないでしょうか。
要するに「悪しき男性性の持ち主」をやっつけるのが「力を持って生まれた男の務め」というのが作者の道徳律なのでしょう。
それはまあ、わかるのですが、こんなにレゴシを負い込んで強要するような話ではないし(本作では「ゾウなどの巨大獣はネズミのような小動物に道を譲るのがマナー。ただし、小動物も感謝の心を持つことが大事」と語られます。しかしこと肉食獣に対してはこの後者が完全に忘れ去られているのです)、この「ウサギの血」というのは瓶詰で登場し、そもそも合法非合法、その血の主の同意の有無が(現時点では)描かれません。
そもそも少量なら採血しても死なないんだから、実は本作は「吸血」をこそ、テーマにすればよかった(女性って吸血鬼物が大好きですよね、あれ、レイプの暗喩ですから)。しかし、そうするとまさに『ミノタウロスの皿』同様、女性側に「利」があることがバレてしまうので、あくまで「食殺」という欺瞞のある設定に逃げたのでしょう。
(その意味で、上の「血の主の同意の有無」などについても、恐らくこれ以降、描かれないんじゃないかなあと、ぼくは推察します)
・レゴシ、去勢するってよ
さて、以降はまた匿名氏のnoteを元にした考察に戻ります。
話の後半、いよいよ本作は「フェミ沼」の深みに入っていくのです。
そもそもがこの「ビースター」というのは動物たちの中でも英雄的なエリートを指す言葉なのですが、壮年の草食獣であり、ビースターでもあるという、ヤフヤというキャラが登場するのです。そのエラい人にレゴシは
「肉食獣に生まれたことの謝罪」
をしろと言われ、
「もう俺には牙はいりまふぇん」
と、自らの牙を捨て去ってしまうのです。
匿名氏はこれを「去勢」のメタファであると喝破し、
だが、去勢こそ、フェミニスト達が何年かかっても、何度失敗してもやり遂げたいと思っている夢なのだ。
と、例の「ジェイムズ事件」のぼくの動画にリンクを張ってくれています。
レゴシは「負のポルノスター」です。
女を求め、それが叶わず煩悶に苦しむという描写を女性様に献上し、ご満足いただく「汁を出せないことが仕事の汁男優」です。
以前もぼくは何故腐女子たちは、よりにもよってギャグ顔でニート、童貞などという『おそ松さん』のキャラクターたちにハマるのか、それはダメ男たちがトト子ちゃんという女の子に恋い焦がれてそれが敵わぬ様を見て、トト子ちゃんに感情移入して楽しんでいるからなのだ、と分析しました。
『CLANNAD』の春原、『スーパーダンガンロンパ2』の左右田が主人公の悪友として常に道化を演じ、女性に手非道く扱われて嘆くといったシーンを、女性たちが楽しんでいる、ということもご報告しました。
彼らに連なる、レゴシは「ヴァーチャル汁男優」なのです。
ハルは後半、悪役の草食獣に「私を食べていい」という約束をするといいます。
レゴシはハルと結ばれるために何もかもを犠牲にしているのに、ハルはあっさりとその関係を破綻させる。その理由は……「レゴシが自分を湛え、丁寧に扱うことの窮屈さに耐えかねた」から。
何だかよくわかりませんが、要するに「夫は誠実に私に尽くしてくれる、でも私はまだ母になりたくない、いつまでも女でいたい」ということでジゴロと浮気をするという、これは凡百のレディースコミックですよね。
そう、彼女は当初、「誰よりも弱いがため、性行為を通してしか、相手と対等になれない」と言っていたはずですが、その状態に戻りたいと言うのです。
婚活女性が自分よりも稼ぎが上の男性にしか反応しないことは、よく知られています。ハルは「私を対等に扱え」と言っておきながら、いざレゴシが自分を対等に扱うとそれを不満に感じ、「対等に扱わない者」のところへと走ってしまったのです。
そうして見ると作者にとっての理想は当初のハルということになりそうです。匿名氏が指摘するように、何せ「ハル」は作者の名前から取られているのですから。
仕事にかまけるあまり婚期を逃し、婚活にハマる今の女性たちは、「誰よりも(女子力が)弱いがため、性行為を通さなくても、相手と対等になれる」存在です。そんな今の女性たちはハルのような生き方にこそ理想を見て、羨望するのではないでしょうか。
(ハルが自ら「食べられたい」と願ったのは、先の『ミノタウロスの皿』で指摘したような「食べられることの利」に、作者が自覚的になった……といった仮定も成り立ちましょうが、前後から見るに「どうかなあ」の念を拭えません。いえ、そこまで言うなら実際読んでみろという話ですが)
しかし、このハルに対し、ルイ(先に書いたように、彼もまたハルと性関係がありました)が放った言葉は――。
「いくらでも愚痴を言っていい。泣いてもいい。落ち込んでもいい! でも絶対に生きろ! 小さいウサギが心置きなく落ち込める社会に……俺たちが必ずしてやるから!」
あ、何かハルちゃんは作者の中では絶対的な聖性を持ったお姫様、ということらしいです、何でかはよくわかりませんが。
――と、まあ、またかなりの字数を費やしてしまいました。
すんません、予告していた「最終回」は消化できませんでした。
次週、またちょっと巻数を読み進めると共に、「最終回」を展開してみたいと思います。
ここから先は
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