ブーケ・ドウ・ミュゲ、うたすと2
夜風は微かに湿っていて、小さな花屋がぽつんと明かりを灯していた。看板には小さく、「ブーケ・ドウ・ミュゲ」と書かれている。
「スズランの花言葉は、再び幸せが訪れる、だったか」
翔太は、その店で初めて彩香と出会った。
彩香が小さなスズランの花束を胸に抱き、かすかな微笑みを浮かべたとき、翔太は胸の高鳴りを感じた。二人は、週末のたびに閉店間際の店内で会い、花を選び、店を閉めるのを待って、夜道を一緒に歩くことが習慣になった。
彩香と歩いた夜道の景色が、一枚一枚の写真のように頭の中に浮かんでくる。雨上がりの舗道、月影に照らされたベンチ、彩香の足元を包む影。すべてが、翔太にとってはどこか現実離れしていて、夢のようだった。
「もう、会えないの。私、結婚するの」
彩香がそう言ったのは、いつもの夜道だった。周囲には誰もおらず、風がそよぎ、二人だけの時間が止まったようだった。
「どうして?」
翔太は訊いた。だが彩香は答えなかった。ただ、さようなら、とだけ囁き、街路を振り返ることなく去っていった。
それから彩香を見かけることはなかった。電話も繋がらず、共通の知り合いもいない翔太には、彩香の行方を追う術は何もなかった。翔太はただ、思い出を反芻しながら、花束を抱える彩香の面影を探し続けた。
そうして一年が過ぎた今夜、翔太は再びこの花屋の前に立っていた。ここに来れば、何かがわかるのではないか。そんな漠然とした思いだけを頼りに、翔太はこの場所に引き寄せられていたのかもしれない。
花屋の扉を開けると、小さなベルが音を立てた。中には優しい顔立ちの女性が一人、カウンターに座っていた。彩香は翔太の姿を認めると、すぐに微笑みを浮かべた。彩香だった。翔太は、彼女が彩香だと確信した。
「いらっしゃいませ。お花をお探しですか?」
翔太は一瞬、言葉を失った。彼女の言葉は、翔太のことを初めて来た客のように扱っていた。その意味がわからず、翔太は、ゆっくりとスズランの束を指差した。
「その花をください」
女性は「はい」と短く答え、スズランを手に取ると丁寧に包装し始めた。その手つきは、やはり、見覚えのあるもので、翔太はつい目を細めた。
「ここで働いてどのくらいになるんですか?」
翔太が尋ねると、彩香はふっと笑みを浮かべた。
「まだ日が浅いんです。でも、この店を知っているお客様はよく訪れてくださるんですよ。以前働いていた彩香のことを懐かしがって」
翔太は心臓が締め付けられるような思いで、その言葉を聞いた。小さな女の子は自分のことを名前で呼ぶが、彩香はそんなことをする女性ではなかった。
「彩香って?」
翔太の質問に、彩香は目を伏せた。
「前にここで働いていた女性のことです。一年くらい前に辞めてしまったんです。お花を包むのがとても上手で、特にスズランを扱うのが好きでした。だから、今でもこの花を見るたびに彩香のことを思い出してしまいます」
なおも、自分が彩香ではないように振る舞っていた。翔太はしばらくの間、言葉を失ったまま、彼女が手渡してくれたスズランの花束を見つめた。
翔太は花束を握りしめて、心の中で浮かび上がる疑問を抑えきれずに問いかけた。
「なんで、彩香じゃないフリをするんですか?」
彩香は、ふっと短い息を吐き、冷めた笑みを浮かべた。ゆっくりと顔を上げ、何か遠いものを見つめるように彼を見やった。
「彩香なら、結婚して、今も幸せに暮らしているはずですから」
彼女の表情は硬く、少しだけ唇を引き締めると、わざと何事もなかったように笑みを作った。翔太は彼女の顔をじっと見つめ、目を逸らさずにその言葉の意味を噛み締めた。
「そうですか」
わずかに湿り気を帯びた声が、二人の間にぽつりと落ちた。翔太はそれ以上何も言わず、彼女もまた何も返さなかった。沈黙の中、開いたままの花屋の扉から夜の風が入り、彼女の髪をふわりと撫でていった。彩香は視線を逸らし、小さく首を振った。
「お気をつけて、お帰りください」
彼女の声は機械のように冷たく響いた。翔太はもう一度口を開こうとしたが、結局何も言えなかった。ただ、胸の中でひとつの小さな音が、淡く砕け散ったような感覚が残っただけだった。
彩香はここにいたのだ。でも、もういない。
「ありがとう」
翔太はそう言って微笑み、店を出た。夜の風が翔太の頬を撫で、スズランのかすかな香りが鼻をかすめた。彩香は、確かにこの場所で過ごしていた。翔太とともに笑い、歩き、そして去っていった。今、翔太の中に残っているのは、その温かさと花の記憶だけ。
翔太は花束を胸に抱きしめ、再び夜の街を歩き出した。その背中はどこか軽く、けれども、足取りには未だに迷いの色が滲んでいた。
(1892字)
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作曲 PJ / 作詞 青豆ノノ/ 歌 ヒガシアオイ