『チェンソーマン』を英語で読む
日本の漫画を英訳で読む。中学生の頃“NEW HORIZON”でKenとYumiが二人の時も英語で会話しているのを見て、そんなわけないだろと突っ込んでいた自分からすると随分と矛盾した行動だ。
なのだけれど、作品を味わう方法としても、英語に親しむ方法としても想像以上に得られるものがあった。
作品を味わう方法としていい一番の理由は、英語を読むために集中力を使うからだ。
実証的に確かめられている結果として、読書の際は真っ白な紙に綺麗な文字が印刷されているよりも、質の悪い紙や擦れた文字で読むほうが記憶に残りやすい、というものがある。ざっくりとした理由は「読みにくい」ことにより集中力がより多く動員され、結果として内容の理解に割り当てられる脳のリソースや関連する情報網に当てられるシナプスの絡まりあいが増えるため。
“Chainsaw Man”を読んで『チェンソーマン』よりも絵の細かい情報やストーリーの反復に気づきやすかったのは、同じ理由だと思う。もちろん、読んだ回数がどんどん増えているからということもあるだろうけど。
チェンソーマンは週刊ジャンプで読んで、Kindleで読んで、単行本で読んで、アニメで見た。スライド40枚くらいにまとめて友人たちと考察をするために読み込みもした。“Chainsaw Man”はいったい何週目に当たるだろうか。
英語に親しむ方法としての英訳漫画のメリットは“漫画 英語”で検索すればたくさん出てくる。個人的には単語力はある方なので単語帳として使えるなんてことはなかったけれど、絵と言葉がセットなので言葉の理解が深まる気がした。
ただし、スラングや擬音語は知らないこともたくさんあって単純に新しい学びはある。
「アニメや漫画を見て日本語を勉強しました!」とインタビューに答える海外勢の日本語が軒並み流暢なのもわかる気がする。
また、元の日本語を知っているので、英語と日本語の苦肉の変換を目の当たりにして言葉と文化の違いを楽しむことができた。
以下、画像を引用しながら思いついたままに書き残して行く。
ここから先、ネタバレ注意。
①フォントが読みにくい
1ページ目から「大文字読みにくい!」と出鼻を挫かれかける。全部大文字の文章を読むのに慣れていないので単純に疲れる。もともとは手書きの際のレイアウトを合わせるためだったようで、文化の歴史はこういったところにも現れるのだなと改めて考えさせられる。
1ページ目から、「ワン」は“Woof”なんだとか、Woofは大文字じゃないんだとか、Yenで金額の大きさは伝わるのだろうかなど色々と余計な心配をしてしまう。
また、すべて大文字なことで、本来大文字と小文字の区別で表現されていた事象のありがたさに気づく。たまに知らない単語があるなと思って調べたら固有名詞だったり。
②擬音語の違い
英語を学習するにあたって小説が一番難しいとよく言われる。それは伝えるニュアンスが細かくなる結果、日本語にあまりない概念の単語が多用されるから。
押さえておくべきは、英語は動詞文化だということ。歩くという表現を例にとると、日本語は歩くという動詞があってそれに形容詞をつけて表現の幅を広げるのに対し、英語だと動作がそのまま単語になっている。
誰かが部屋に歩いて入るシチュエーションを表現すると、
“He walks into the room.” のwalk部分は擬音を中心に次のように膨らまされる。
stride → 大股で/勢いよく/ドスドスと
tramp → ドカドカと
stagger → よろめきながら/ふらふらと
stumble → つまづきながら
totter → よたよたと
trudge → のろのろと
sneak → こそこそと
limp → 足を引きずりながら
などなど、もっとたくさんある。
「彼はドカドカと歩いて部屋に入ってきた」とか「彼はよろよろと部屋に入ってきた」は“He strides into the room.”とか“He totters into the room.”になる。(ちなみに“He walks into the room with long strides.”でも間違ってはおらず、日本語から訳せと言われるとこうなってしまいがち)
これらはなかなか授業では習わない。なぜなら、最低限伝わるだけでいいならwalkだけでいいから。もっと細かく伝えるのは後でいい。たぶん、海外で行われている日本語の授業でも、擬音語の優先順位は低いのではないだろうか。
ただし、言う分にはwalkで伝えられるが伝える側は容赦なくstrideやtrampを使ってくるので、少なくとも見て・聞いて分かっておく必要はある。
“Chainsaw Man”を読んでいて、この日本語の概念と一致しない単語たちを覚えるのに漫画は最適だと思った。イメージを膨らませにくい単語の正解が絵でその場に提示されていることが好都合なのだ。
thud, crash, splat, slam, stub, rattle, thump, lick, gulp, snap, screech, scrub… 一つでも馴染みのないものがあれば、漫画を読んで損はしないはず。授業と現実の間を埋める単語の宝庫となっている。
単に英単語を辞書で調べるよりも、実際の状況と結び合わさることで記憶されやすい。脳の仕組みに照らしてかなり合理的な記憶術だ。
ついでに、スラングも覚えられる。
③日本語は言葉で表す文化、英語はトーンで伝える文化
日本語でわかりやすく違うのは、敬語のあるなしと人称の違いだろうか。特に、一人称は英語だと“I”一択となる。
例えばパワーの一人称は原作だと「ワシ」とされ特徴づけられているが、英語はすべて“I / my / me”だ。
日本語だとこのコマだけ見ても変な人感がすごいが、英語だと少し変なセリフだなくらいの印象になるのではないだろうか。
一人称の他、語尾の変化も日本語は多い。パワーの「じゃ」とか、コベニの気弱さを示す「ですぅ」、姫野の呆れ気味な「だよねぇ」なども英語だとない。
では英語だとそんな表現ができないのかと言えばそんなことはなく、それは声のトーンやリズム、目の動きや表情に託されることが多い。漫画ではやりにくいので、映画が日本よりもてはやされる理由はここら辺にもありそう。
英語のスピーキングは例に漏れず僕も苦手だが、それは「一言一句はっきりちゃんと言う」ことにこだわりすぎることが大きな要因だと感じる。日本語だと言葉そのものが大事だが、英語だとどのようなトーンや表情で言うかに情報が重く置かれていると理解すれば少しは話しやすくなるのだろう。
リスニングにおいても、トーンやリズムを含めたまとまりに慣れ親しむことにより正確に情報をとらえることができるはず。
よくよく考えてみると、これは象形文字でありひらがなやカタカナも併用して「文字の形」の情報量が多い日本語独特の文化で、日本の漫画と英語のコミックにおける根源的な違いの一つなのかもしれない。
④修正がされていない - 英訳のタイミングはいつなのか
ちょっと小ネタ。週刊で間違っていたセリフが単行本で修正された箇所が、週刊のままになっているコマがあった。
30話で「家に迎えに行く」と言っていた教官岸辺が、二人の家に行くシーンで31話が明けるところ、週刊だと「あいつらサボりやがった」と矛盾していたため単行本では「あいつらの家はたしか」に修正されたというもの(余談だが、岸辺がアル中なので矛盾している方がよかったという声も)。
英語の訳は明らかに週刊の修正前を元にしている。単行本の刊行は日本語よりも英語が後なので単純なミスだと思われるが、なぜこうなったかに興味が湧いた。
調べてみると、2019年から少年ジャンプはリアルタイムで英訳されて全世界では無償公開されているらしい。日本、中国、韓国ではMANGA plusというアプリ自体がリリースされていないので気づかなかった。
無料で読めるのは良いなぁと素朴に羨ましい。普及のためなのだろう。アクティブユーザーは日本のジャンプ+アプリが約1,000万に対し全世界では600万程度らしく、かなり広まっているのだなと実感する。
話は戻って、このコマが旧バージョンのままとなっていることからして、週刊で訳したセリフをそのまま単行本の原稿に移しているのだろう。
全部は確認していないが、セリフ以外の原稿自体は英語版も単行本版になっている。例えば、レゼの手が逆になっていて書き足し+反転があった49話など。
⑤あらためて気づく“反復”の力
藤本タツキ作品の特徴として、繰り返しが挙げられる。例えばデンジとアキの喧嘩が金玉ではじまり(②の画像)姫野先輩の復讐がサムライソードの金玉蹴り大会で終わったり、ゾンビを倒して借金をチャラにしたあとに永遠の悪魔を倒してアキとの貸し借りをチャラにしたり。
第1話で「俺たちの邪魔ァすんなら死ね」とゾンビを蹴散らしたポチタを心臓にいれたデンジが、最後の戦いで「私たちの邪魔をするなら死んで」と言われながらポチタを奪われる(と見える)シーンの対称性は感動的ですらあった。
英語だと、ものによっては日本語よりも繰り返しに目が行きやすい場面があった。ゾンビと永遠では、日本語では「借金」と「貸し借り」のところ、英語だとどちらもDebtだったり。
レゼとの戦いでは「教えてもらおうか」が“Oh, you're gonna teach me everything”となっていることで、レゼが“I'll teach you everything”「知らないことを全部教えてあげる」とデンジを誘惑していたプールのシーンとより直接的に繋がっている。
直訳するだけであれば“teach me”で終わるところeverythingを付け足すのは、かなり原作の理解度が高くないとできないはず。リズムもよくなりセリフが締まるしいいことずくめ。全巻読んだ中でもこの訳が最高だと感じた。
⑥言葉遊びはどうなるのか
チェンソーマンは言葉遊びが多い。例えば主人公の名前“デンジ”は天使に濁点をつけた(てんし→でんじ)もので、マキマはチェンソーに木を切られてママ(母)になるといったところからはじまり、金玉蹴り大会で鎮魂歌→チンコと掛けたりするところなども日本語での言葉遊びなのでそのまま英語には変えても意味が通らない。
ここに関しては英訳はバッサリ無視している。それは仕方ない。けれど、他の部分では言葉遊びをしたりしていて、原作の雰囲気を出そうとしているさまが伺えた。
サンタクロースが近くにいる、でSANTA IS CLOSE。
逆に、難しかったであろう85話のタイトル『超跳腸・胃胃肝血』は“Bloody Good Gut Feeling”となっていて、意味も個々の単語もほとんど同じまま訳せてしまっている場面もある。すごい。
さすがに元ネタであるモーニング娘。の歌とは繋がっていないがそこは文化の差なので仕方ない。
アニメ版主題歌の“KICK BACK”で(別の曲だが)モーニング娘。の引用をしているのは原作のここと呼応していて、米津玄師の理解度と手法に恐れ入る。
悪魔の分類は英語の方が本場とだけあって考えさせられる。devil / fiend / demon / satanはどれも悪魔のようなものを指し、今まであまり違いを気にしていなかったが、語源となった言語及びその地域の文化と結びついて違った意味を持つらしい。
悪魔度の高い順に、
satan(ヘブライ語) = 「悪」の擬人化。キリスト教における悪魔の王
devil(ギリシア語) = キリスト教における神に対する存在としての悪魔。地獄にいる
demon(ギリシア語) = 悪魔、悪霊、妖怪。ギリシア神話で言う神と人間の中間
fiend(ゲルマン/古英語)=「敵」が語源。悪魔的な人
となっていて、鬼滅の刃の鬼は地獄から来たわけでもないのでdemon slayerとなるわけだ。
“Chainsaw Man”中では悪魔 = devil、魔人 = fiendに統一されている。demonも一回どこかで見た気がするが場所を忘れてしまった。
英語圏でキリスト教の人からすると、“Power”に“Princi”が来た時点で天使であると気づく人も多そうだし(セラフィムを“Beam”にしてぼかしたのはすごい)、何より地獄も悪魔もいるのに神がいない状況にかなり作者の意図を感じ取るのではないかと思う。ここら辺の感覚はどうなんだろう。
言葉遊びは反復の表現にも使われていて、特に第1部と2部の主人公がチェンソー⇔戦争で語呂合わせとなっているのは印象深い。まだ2部の英訳は出ていないのでわからないけれど、英語でそのまま取り入れるのは難しいので、主人公間の繋がりをほのめかすために何かしら他の場所で担保するのではないかと期待している。
チェンソーマンという作品は繰り返しやセルフオマージュを多用して世界観を作っていくタイプなので、ストーリーが進めば進むほど深みが増していく傾向にある。
その分原作者の行間を読んで訳す作業はどんどん大変になっていくだろうが、その苦闘の結果を今後は楽しみにしている。
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