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常識では捉えられない生死耐性 警察が追跡して来た
私が牧梨菜さんの死を受け入れ対応出来ているのは自らの死への耐性によるものだと思います
自分自身、死を常に実感して来たから牧梨菜さんへの死への対応を取れているのだと思います
これは非常に悲しいと思います
これが出来ている自分自身が悲しいのです
仮にも牧梨菜さんはもうこの世に居ないかも知れないのです
なのにそれに対して自らの死に慣れすぎて平然としている自分が居るのです
私に取って死ぬとは近いものがありました
私が死んでも牧梨菜さんが死んでももう会えないだけと割り切って考えている自分がどこかに居るのです
それは死に慣れすぎた結果だと思います
人が死ぬ事は悲しい事実だと認識してはいます
ですが私は死ぬ体験を多くの人間に晒されたのです
その死にはある意味、感情もない事も考えられます
ただこんな思考をしてしまいますがもし牧梨菜さんが死んでたら私は悲しみに泣くと想います
やはり二度と、この世で再開出来ないのは悲しずぎるからです
ですが私は私が牧梨菜さんの死を受け入れる体制が早いのは自分自身が死に晒されたからです
ただまだ牧梨菜さんの死は確実な真実ではありません
私は自分の写真を牧梨菜さんに捧ぐと想いがあります
写真を初めてから、その想いは強くありました
誰に言われようが誰かの為に写真を撮影するのは自分の勝手だと想っていたからです
仮に不純な考えだと言われてもいいと想います
生きているのだって自分の為だけじゃなく誰かの為であってもいいと想っています
その為が行動を誘発する力になればそれで良いと考えてます
例えて言えば私は牧梨菜さんの為が多いです笑
ただ想いは力になるし物質にも変わります
私は今も変わらず牧梨菜さんを想いたいと思っています
最愛と呼べる人はまだ牧梨菜さん一人だけだからです
ただ心が消失していると言っている私でもある程度の心理は動く
牧梨菜さんの死を受け入れるとしてある意味平気だと言っててもいつ耐えきれなくなって私も死ぬかはわからない
これが精神病です
これが病気の根幹が見えない病気、精神病です
追記
ここで牧梨菜は終わりを迎える
警察が来ました
俺は梨菜を助けたいが為に動いてた
今回も裏切られたのやも知れません
芸術に生きるのもいいのかも知れません
これが精神障害者のもたらされた結果
人間に晒され続けると人に戻れなくなり怪物になってしまいます