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心技体という言葉の違和感
体育会系の部活動を経験した人であれば、一度は「心技体」という言葉を聞かされたことがあるはずだ。
「心技体」の全てをバランス良く鍛える必要があるだとか、一流のアスリートになるためには「心技体」の全てが卓越していることが求められるなどということがしきりに説かれていたものだ。
しかし、話を聞いているとどうも「心技体」の3要素の重要性はどれも同じであるような言われ方がされている。それどころか、ややもすると語順からして「心」の部分が一番大事というニュアンスが感じられることもあり、さすがにこれにはいささかの違和感がある。
「心技体」のうち、最も重要なのは何と言っても「体」であろう。
相撲でもバスケットボールでも、206cm120kgの選手と167cm65kgの選手では、いくら後者の技術やメンタルが優れていようとも、前者に分があることは目に見えている。また、ボクシングや柔道のように、初めから体格差はいかんともしがたいという前提のもとで組み立てられたスポーツもある。
要するに、スポーツで最も重要なのは「体」なのだ。ここから目を背けることは欺瞞である。
「体」のうち、身長や骨格といった体格は生まれつきによるところが大きいが、筋力や体幹、柔軟性は適切なトレーニングにより大きく向上させることができる。
どんなスポーツでも、生半可な技術を付けるよりも、とにかく速く走ったり、高く跳んだり、遠くまで飛ばせたりできる体力を付けるほうがよほど手っ取り早い。
「体」に次いで重要なのは「技」であろう。技術を身につければ、多少の体格差を補うことができる。しかし、技術を習得する速さは才能によるところが大きく、これも体格と同様に先天的な資質が大きく左右しているように思われる。
ところが「心」については、どんなに強くとも「体」と「技」の差を補うことはできないのではないだろうか。「心」が真価を発揮するのは、体格と技術が拮抗している場合のみである。実際のところ、体格で圧倒的な差がある場合、いくら精神力が強くても勝利には結び付かないだろう。
重要度の順で並べるのであれば「体技心」と置くのが実態に即しているのではないかと考える。
それなのに、なぜ「心技体」という順序で語られ続けているのだろうか。
ひとつの仮説として考えられるのは、これが努力で改善できる順序を示しているのではないかということだ。体格は生まれつきのもので変えられず、技術の習得も才能によるところが大きい。しかし「心」は、少なくとも表面的には即座に変化を見せることができる。モチベーションを上げたり、心構えを改めたりすることは、体格を変えたり技術を習得したりするよりも短期的には容易だ。だからこそ、まず「心」から説くのかもしれない。
しかし、このような説き方には大きな問題がある。あたかも心構え一つで全てが解決するかのような錯覚を与えてしまうからだ。「やる気さえあれば何でもできる」という精神論は、時として選手たちを追い詰める原因にもなる。
また、「心」を重視する姿勢の背景には、日本特有の精神主義的な考え方も影響しているのかもしれない。「心」を前面に出すことで、体格的なハンディキャップを精神的な優位性によって克服できるという幻想を抱かせ、それを美化してきた節がある。
いずれにせよ、「心技体」という言葉の順序は、スポーツの実態とはかけ離れたものであると言わざるを得ない。選手たちの士気を高める上では効果的かもしれないが、それは同時に現実から目を背けることにもなる。むしろ「体技心」という実態に即した順序で各要素をどう伸ばしていけるかを冷静に見極めていく方が、より建設的なアプローチではないだろうか。