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#271 #72-16 エンタメ商業映画の時代へ

1972年夏。

それまで怪獣映画やディズニーしか観たことのなかった田舎の小学4年生の僕。

僕が最初に観たオトナの映画は「ゴッド・ファーザー」監督はもちろんフランシス・フォード・コッポラ

父が観たくて甲府春日通りに連れられて。部活の姉は置いていかれました。

始まるまで看板を見ていたら、「この人がこの人を好きで・・・」というおばちゃまが解説していたけどそういう話では全然なかったので「なんとデタラメな大人なのか」と子ども心に思いました。どうでもいい思い出。

映画では馬の頭がベッドに入れられているシーンとかちょっと刺激的でした。

失敗続きの後の大成功で経済的余裕ができたコッポラは、翌年の1973年にジョージ・ルーカスが監督した『アメリカン・グラフィティ』で製作を担当。

ルーカスは次作の企画『スター・ウォーズ』に対するコッポラの介入を避け宇ために別の企画(後に『地獄の黙示録』として発表)を譲ることにしたそうです。

1968年にユニバーサルはNBCに買収されNBCユニバーサルとしてテレビ映画をたくさん作り始めました。

ユダヤ人でディスレクシア(学習障害)のスティーブン・スピルバーグは1971年に『刑事コロンボ』第3作の「構想の死角」で監督をしていました。

テレビ映画「激突!」が評判でした。主演のデニス・ウィーバーはNBC『警部マクロード』のマクロード役(1970 - 1977)で有名です。NHKで「刑事コロンボ」と交互に放送します。NBCのテレビドラマはNHKで流されるわけです。

コロンボの「愛情の計算」(1974年)には犯行解明に一役買う天才少年として「スティーブン・スペルバーグ」君(リー・ハーコート・モンゴメリー)が出ていました。「構想の死角」を監督していたとはいえジョーズはまだなので注目されていた事がわかります。

1975年に公開されたスピルバーグの『ジョーズ』は、それまでの『ゴッドファーザー』の記録を破り、1977年に『スター・ウォーズ』に抜かれるまで世界歴代興行収入1位を記録しました。

カリフォルニアのユニバーサル・スタジオは、ジョーズや刑事コロンボなど人気のアトラクションで楽しませてくれました。私の姉は1976年に行ってうらやましかった。

1971年12月22日作品を作れず自殺未遂した黒澤明は、1973年3月「デルス・ウザーラ」(1975年)製作協定に調印しました。この映画でアカデミー賞外国賞で復活しました。本格的に映画を作るために必要だった後ろ盾が、コッポラとルーカスでした。二人が外国版プロデューサーとして参加したのが1980年の『影武者』です。

アメリカン・ニューシネマというジャンルがあります。これは日本だけの名前であって、アメリカでは「New Hollywood」「The Hollywood Renaissance」「American New Wave」といいます。

1960年代後半から1970年代半ばにかけて若者層を中心とした反体制的な人間の心情を綴ったアメリカ映画を指します。背景にはベトナム戦争と反戦、自由とヒッピーなどがあったわけです。『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』など。

コッポラは入るけど、ルーカスやスピルバーグはエンタメ商業映画と見られていて入らないのです。ここら辺が分岐点になっています。

その後の僕は「燃えよドラゴン」「エクソシスト」「ペーパー・ムーン」「タワーリング・インフェルノ」「スティング」・・・なんかを観だした。

ユニバーサルはその後も『E.T.』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ、『ジュラシック・パーク』と続きました。

1989年ソニーはコロンビアを買収し、ユニバーサルは1990年に松下電器はユニバーサルを買収。

2001年3月31日に大阪にユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)ができました。





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