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藝大の卒展2023を見た - アフターコロナの実践

いよいよあとひと月で藝大生でなくなる、林です。
休学も含めてもう7年目になりますが、振り返ると色々ありました。
油画からメディア映像と、かなりコアな現代アートに触れてきて、今はアート業界ではなくIT系の事業家としての人生を進もうとしています。
そんな自分が藝大生として、最後の卒展をどう見たか、少し書いておきます。今年はなんだか勇気をもらえる卒展でした!

藝大の卒展は、毎年見ているとかなりその年の傾向があることがわかってきます。もちろんいろんな作品があるし、鑑賞している側の関心によってバイアスがかかるわけですが、とは言えかなり明確にトレンドがあります。学部の時からの記憶をぼんやり思い出してみると、フェミニズム系が流行っているな、グロテスクな身体のテーマが多いな、リアルとバーチャル系だな、そういうのがやはり学生間で共有されて全体として呼応するようなトレンドがあるのです。そしてそれが意外と、社会の何か重要な動きをあらわしていたりします。

コロナ禍においては、それでいうととても鬱々とした絶望がありました。2021年は、もはや何を作っていいのかわからない状況に、多くの学生がなっていたと思います。あまりに社会の状況がガラリと変わって、それまで自分がテーマにしていたことが通用しなくなったり、そもそも単純に、アトリエが使えなくて大きな作品が作りづらかったり、作品をギャラリーやイベントで発表すること自体ができなくなるといった状況において、みんなが困惑のなかにいました。

そして2023年、メディア映像の修了展(自分も研究発表出しました)と上野の卒展を見てきたのですが、絶望の中に、何か新しい風が吹いていることを感じました。

ベースには、多分絶望はあるのです。
コロナから(あるいはそれ以前から)続く社会への絶望、自分の活動が仕事にならない絶望、TiktokやYoutuberのコンテンツと自分の活動を比べたときの絶望、アートという業界の特権的な効力が失われてきている絶望、そういう状態に何の働きかけもできない藝大への絶望…、そういう極めてリアルな絶望は年々強くなってきて、しかし今年はそれがもはやデフォルトとなってしまったんだと思います。”絶望デフォルト”として、もはやそれが内面化された時、「藝大」とか「アート」とか言った言葉に守られて好き勝手やるのではなくて、開き直って現実的に自分に何ができるのかというのを、アートの手法やフィールドを活用しながら行うという、非常に実践的な態度や試みがいくつも見られました。

いくつか勝手ですが紹介させていただきます。

作者SNSより

こちらメディア映像の同級生の笠島久美子さんの作品からです。彼女はコロナ以前から「おじいちゃんホストクラブ」など「おじいちゃん」との共創の活動を行っていました。彼女自身の祖父が他界されて1年休学されていましたが、それを乗り越えて今年は喫茶店で新しいおじいちゃんをナンパして活動をされているということです。
尊敬する同級生の一人です。


作者SNSより

こちらは彫刻の知り合いで、ナカムラエリコさんの作品です。このぬいぐるみの存在は「もにょ」というらしいですが、会場には大量のもにょの皮と、中身(魂のプールのようなもの)が配置されており、ワークショップで来場者が中身を詰めて穴を縫って持って帰るという形式の作品となっていました。この作品は、ちょっとそこまで良くわかっていませんが、中村さん自体はもにょにおばあちゃんの姿を重ねて感じているらしいです。


作者SNSより

こちらは油画の後輩のマレーシアから来たトンハンさんの作品で、千葉(確か千葉だったはず)で草を刈って縄を編んでいました。

なかなか文章でこの感動を伝えるのは難しいのですが、どれもとてつもない手触りのある実感を感じられる、素晴らしい作品だったと思います。

ここで具体的に紹介できる作品はわずかですが、おじいちゃんおばあちゃん、原っぱ、近所の街に落ちているもの、そういった自分の隣にリアルに存在しているものをモチーフにして、虚飾なくストレートに向き合った作品が今年は結構多かったです。上のような活動系のものだけでなく、絵画や彫刻などの伝統的なメディアにおいても、等身大なモチーフを実直に、魅力的に見つめ直す作品が多かったと思います。

奇をてらってやろうとか、現代アートの最先端にコミットしてやろうとか、そういうことよりも自分にとって手触りのあるものを大切にして、その活動を通して世界や隣にいる人、来てくれる人に実直に関わっていこう、そういう態度があったと思います。

そして、自分一人の殻に閉じない傾向もあったと思います。以前の藝大生は、もっと自分のことしか見ていませんでした。自分はなぜ生きているんだ、この身体はなんなんだ、そういうのが多かったですが、上に紹介した作品では積極的に、具体的に、誰かと、世界と関わっていこうとしているんです。それも自分とは同質でないけど隣にいる存在、そういうものにフォーカスしています。

私は老人のことを考えるのは苦手です。今日や明日がむしゃらに挑戦していくのと、自分が老いて死ぬことを考えることはあまり相性がよくありません。というか基本的に死ぬことをあまり考えたくありません。しかし彼女たちは、顔に刻まれた皺も愛するような態度で、私とは全く違うやり方で、世界をとらえ、働きかけることができているのです。
やや余談ですが、私は他者との境界をいかに曖昧にしていくことができるのかに非常に関心があり、彼女たちからは重要なもの、質感的なものを学ぶことができたと思っています。

ここで紹介しているのはもちろん一面的なことでしょう。どちらかというとベースにある絶望の方が重く感じられた方も多いかもしれません。上で言ったことをちょっと違った側面から見ると、お金をかけた大規模なプロジェクトや、現代アート的にカッティングエッジなことをやる余裕があまりなくなってきている、という見方もできますし、それはおそらく事実です。金銭的には、日本全体的な景気の悪さにも押され、現実的に学校を出た後どうするんだというプレッシャーが年々強くなっているのを内部にいるものとしても感じています。実際それに対して「なんとかなるさ」なんてことはいまだに全く言えず、卒業生を見ても、あまりなんとかなっていないです。

ただ私は、今年の展示からはとても勇気をもらうことができました。こんな世界でも希望を持って、実感を持って実践する。アフターコロナの、アートとしてのプラクティスを学生たちが行っているのはとても素敵なことだと思います。
そんな卒展でした。


まとめ

今、「プラクティス」というのがキーワードです。
もう本当に景気が悪く、世界情勢も慌ただしく、政治的にも希望がないですよね。基本的に厳しい時代であることが社会全体の共通認識となっているときに、あまり観念的なビジョンやストーリーではなく、実際どうなのか、とはいえどうなのか、本当に何がプラクティカルに変わるのか、そういうことがアートや思想にも求められており、ある意味その方向性においては社会全体として同じ方向を向きやすいようになってもいる気がします。

テクノロジー的には、いいニュースもあります。2022年ごろからAIの進化が本当に強烈で、明らかなイノベーションが起きています。インターネット以来の革命的なイノベーションとなる可能性もあるほどの、本当に強烈な進化が今この瞬間にも起きています。ホワイトワーカーがあまりいらなくなるんじゃないか、というような話まであるのです。向こう10年の間にこれによって様々なものが変わっていくでしょうし、変えていきたいと思っています。
その中でおそらく、現状の資本主義や民主主義の在り方についても変革が求められ、陰謀論ではなく実際的に次のステップとして何ができるのか、という議論も進んでいくでしょう。
これまでお金にならないために成り立たなかった社会の側面を、つまるところ藝大生のような活動を、もう少しイキイキと行えるようにすることもできるかもしれません。
「希望は残っているよ。どんな時にもね。」
カオルくんも言っていました。
社会を良くしていくという方向に私としてもコミットしていくことを誓い、藝大を卒業していきたいと思います。


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