59歳で早期退職、富山市と利賀村での二拠点生活、選んだ理由、住んでこその都とは?
現在79歳となる名古屋市出身の吉田亜輝男さんは、現在富山県南砺市利賀村に移住して20年。利賀村は富山県の南西部に位置し、岐阜県との県境に近く、山間の人口500人ほどの過疎の村である。大手広告代理店のモーレツ社員から一転、59歳で早期退職してまで山奥の田舎暮らしを選んだ理由とは・・・??
青天の霹靂、バブルで沸き立つ東京から長野への出向命令
私たちの時代は、ちょうど日本の高度成長期と重なっています。その高度成長を支えた企業戦士が「モーレツ社員」と呼ばれ、「24時間戦えますか」という広告コピーが流行ったりする時代でした。私もその一人として毎日深夜まで酒の接待は当たり前、何の疑問も感じませんでした。近所では母子家庭と思われていたようですが・・・。ただ40代の終わりごろ、当時の上司とそりが合わず、それとなく転部希望を伝えていました。
それが50歳になったとき、突然長野オリンピック組織委員会の広報部への出向命令を受けることに。日本中が沸き立った長野オリンピック招聘がこんなかたちで自分に関わってくるとは。当時の上司から離れたいとは思っていたけれど、まさか自分が東京を離れることになるなんて思ってもいませんでした。まさしく青天の霹靂、目の前が真っ暗に。でもサラリーマンは辞令一本です。
半年で長野って最高!
長野オリンピックは1998年2月開催、その5年前に長野市内に転居。幸い子供も大きくなっていたので単身赴任ではなく、配偶者も一緒についてきてくれました。食事の心配をしなくて済みます。50歳にして東京での生活とはガラリと変化し、とにかく仕事以外の時間が増えました。毎日17時に仕事は終わるし、いやでも自分自身を見つめ直す時間はたっぷりです。もともと釣りが趣味でしたが、長野へ行って「渓流釣り」を覚えました。仕事はといえば、オリンピック開催5年前だったので盛り上げるのに苦労したものの、質・量ともに東京時代の1/5くらいの力で非常にいい仕事ができました。
東京は仕事と遊びは世界一、でもたまたまの田舎生活で「これもいいな」と。長野に住んで改めて東京にいた頃に自分がいかに偏っていたのか、を実感しました。
東京へは帰りたくない
長野オリンピック開催後には間違いなく次の転勤が待っています。時間が切迫するなか、もう心は決まっていました。借金までして仕事に夢中になった東京には全く未練がなく、なんとか東京に戻らずにすむ方法はないものかとオリンピック開催1年前に画策し始めました。ここで浮かんだのが友人もいた関係で、一度は住んでみたかった山形。
望みは叶い、山形生活の開始です。地方には地方なりの広告代理店のやり方を知ることで、勉強になりました。山形に希望転職してきた人は初めて、と新聞社やテレビ局の方には大変喜ばれ、純朴な山形の人たちや渓流釣り、美味い蕎麦にあっという間に溶け込みました。もしかしてこのまま終の住処となるのか?!という思いも芽生え始めたころ、本社から東京への転勤命令が・・・。地元の新聞社の社長とたびたび意見が合わないこともあり、新聞社から私の会社に対して異動の希望があったようです。そのことを聞いたら即山形には居たくなくなり、残念でしたが了解しました。結果山形生活は3年間となりました。
59歳で早期退職、そして富山県利賀村へ
東京へ戻ったあと、地方を束ねる局で働きましたが、定年半年前に早期退職を選び、利賀村へ移住しました。実は長野オリンピックが終わる前に定年後の人生を、どうせなら山奥でそれまでと180度違った第2の人生を送りたいと思い、「イワナが釣れて、温泉があって、蕎麦の美味いところはどこだ?」と富山在住の友人に相談したことがあったんです。それなら、と紹介されたのが利賀村でした。移住することを決めたのはその時期です。配偶者が富山出身ということもあったからです。利賀村はあまり知らず、鈴木忠志さんの演劇があることくらいでした(注)。ただ配偶者の富山の親戚は利賀村への移住には皆反対でした。利賀村は過疎村蘇生プロジェクト第1号ですが、移住して20年、実質的な人口は1,000人から現在300人程度となっているまさに現在でも過疎化が進む村です。
利賀村で最初に住んだのは村営住宅、とにかく会う人会う人に大きな声で挨拶しまくりました。田舎暮らしの基本かもしれません。配偶者の実家は富山市内にありますが、ガードレールもない危険な九十九折の山道を通って車で1時間半ほど離れています。配偶者は年老いた母親の世話など、行ったり来たりするのを楽しんでいました。
(注)大学の先輩である早稲田小劇場の鈴木忠志さんは1976年演劇活動の拠点を利賀村へ移し(1984年に「早稲田小劇場」から「SCOT」に改称)それを支援する劇場(利賀山房、野外劇場)を世界的建築家・磯崎新が設計しています。
利賀村での暮らし
村にはイワナ釣りに適した川が流れ、嬉しいくらい良く釣れます。また富山は海と山が近い。渓流釣りだけでなく、もともと好きだった海釣りも始めました。富山湾は魚の宝庫、海岸から少し離れるだけで深い海の魚も釣れるのです。
そうこうしているうちに知り合いも増えました。大手広告代理店にいたことが分かると色んな相談も受けるようになりました。村営スキー場の集客が悪いので宣伝をどうするか・・など。移住して3年間は村で作った施設(スキー場、温泉、文化施設等)の管理運営をする財団のお手伝い(専務理事)をしていましたが、それ以来仕事はしていません。そして知り合いが増えるのに比例してやりたいことがどんどん増えていきました。富山のラジオの月1回の出演や、素晴らしい大自然の宝庫の一つである利賀水無湿原の保全整備などをしている「利賀飛翔の会」の事務局長の活動などです。ただ大自然の保全整備には、年寄りが多くなった村民だけでは活動に支障が出てきたため、村外の自然保護に理解のある人を集めて手伝ってもらっていますが、その人集めには苦労しています。
楽しみの一つは、村の中日ドラゴンズファンで集めた賀龍会のメンバーとの自宅での野球観戦!私は高校まで名古屋で育ち、熱烈なドラゴンズファンなのです。スカパーと契約しました。私の家の水道の蛇口の隣にある蛇口からでる山の湧き水は私の宝ですが、その水で作った水割りは美味しく応援も盛り上がります。
美味しい蕎麦を食べることへの飽くなき追及
蕎麦を食べることが大好きで、利賀村へ来るまではもっぱら食べる専門(計算したところ約6,000食)でしたが、全国から蕎麦打ち名人を呼び寄せるそば祭りもある利賀村へ移住すると、自然に蕎麦を打つようになり、全麺協(全国麺類文化地域間交流推進協議会)認定3段の腕前に。今では蕎麦打ち体験の指導も行っています。ただ打ってみて感じたことは、やっぱりおいしい蕎麦は原材料のそば粉がいいかどうか、に尽きます。いいそば粉は斜面で水はけがよく、肥えた土で育つことが条件、ということで畑を無料で借り、ついに自分でも蕎麦を植えるようになりました。
2拠点生活、富山市内での楽しみ
利賀村の冬は雪が深く、配偶者のいる富山市内でのマンション生活が多くなります。富山出身の配偶者は山の生活を嫌がり、富山市内でのマンション暮らし、その富山市内での楽しみも増えてきました。大学OB2人で始めた月1回開催するワイン会、飲み放題で毎回20代~40代の男女が30~40人集まるでしょうか。投げ銭文化を作りたいと思い、毎回バンドも呼んで投げ銭をして、もう10年になります。そのほか3年前には中国語を習い始め、毎週専門学校へも通っています。今では飲み屋で苦もなく会話できるようになりました。一番時間を使っているのは、川柳の会の活動ですね、会誌の編集や発送、大会の総合司会など様々です。満場一致だった「腕」のお題で一句
『片腕と鍛えた部下は今上司』
住んでこそ都
きっと都会では気が付かなかったであろう、自分自身を見つめ直す時間を持てたことが何よりの転機でした。田舎にはやりたいことを考える時間がたくさんある。仕事人間だったときは引退して田舎暮らしをする先輩を小市民と馬鹿にしていたのに、田舎暮らしがこんなに素晴らしく楽しめるとは。早く自分と向き合って、自分が興味を持てること、燃えることをいっぱい見つけておくことが大事なんじゃないかなぁ。老後を精一杯楽しみたい。山奥の過疎の村だからこそ、物好きな常連も毎年訪ねてくるのかもしれません。
ここで一句『燃えてこそ生きてる価値を見つけたり』