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西粟倉の議員さんに話を聞きました

百森構想や株式会社百森について、大上いさお議員、金田とよじ議長、新田よしずみ議員(五十音順)にインタビューしました。本来であれば議員さん8名全員にお話を聞きたかったのですが、まとめる側の能力が不足しそうだったので今回は議員さんの中でも特に山に造詣の深い皆さんに来ていただきました。

田畑:今日はちょっと株式会社百森のブログ記事に向けたインタビューということで、お忙しい中有難うございます。

大上:ラクじゃで。

金田:どんな話をしたらええんかな?

左から大上議員、金田議員、百森田畑、新田議員

田畑:株式会社百森は西粟倉の山林管理会社ということで、視察を受けることが多いんです。そのなかで「西粟倉は何をするにも一枚岩でええなあ」とか、逆に「地元のひとの反対があって大変でしょう」とか、事実ではない予想とか、邪推が多かったりするんですよね。もう少しリアルな声を見せていきたいなと思いまして。

田畑:だいたい発信は役場やうちのような事業者が行うことが多いので、住民の代表である議員の皆さんにも話を聞いてみよう!というのが今回の企画です。よろしくお願いします。

金田:まあ、実際どれくらい話せるか分からんけどな(笑)

新田:私でいいのか分かりませんが、できる範囲でお話させて頂きます。

大上議員のお話

田畑:ということで、百年の森林事業についてどう評価しているかなどをお聞きしたいのですが、まずちょっと自己紹介がてら皆さんの生い立ちなどお伺いできればと思います。

田畑:まず大上さんにお話お伺いできればと思います。僕が西粟倉に初めて来たのが、最初に家に泊めていただいたのが大上さんでしたね。

新田:そうなの?

大上:寝るとこがない言うんじゃもん。いきなりきてその日にじゃあうちに泊まるか言うて。そういう出会いじゃった。

田畑:そうなんです。「二階にガイダがおるけん気をつけろ」と言われて、なにがいるのか分からず怖かったのですが。とてもお世話になりました。

田畑:僕や中井が本当に何も知らない状態での話だったので、本当に山のことも含めていろいろとお話をお伺いしましたね。改めて、ちょっと生い立ちというか今までの流れみたいなところと、あとどうして議員さんを志されたのかみたいなところをお伺いしたいです。

大上:僕はいわゆるUターン組で、家を継がなあかんような状況になって。それで仕方なくというわけでもないんじゃけど帰ってきて。そのときには村(役場)が土木技術を分かるひとを探しとって、僕が勉強して分かるのでちょうどヒットして。で、もちろん、役場の仕事以外にも、やっぱ家のこともせんといけんでな。田んぼのことも山のことも、たまたま親父がしよったから、土日なんかで触れる機会が多かった。で、職員を辞めて、自分でこれからどういう風にしていこうかなってなったら、親から教えてもらった山仕事や田んぼの仕事をするのが普通かなと、そういう感じで。

大上:山というのは、その頃はどういうふうにせにゃいけんとかはなくって。ただ、山の作業には順番がある。下刈りがあって、枝打ちして、それで間伐して、成林させて大木に育てるという。そういう循環じゃな。なんで自分も、今は枝を打たなあかんとか、間伐する時期になったなとか。それから自分とこの家が欲しくて、そのための材料を集めたりして。製材することも覚えたりな。そういうことをしながらやってきた。ただ、やっぱり木に携わることは長いことかかってくるからな。思い出せと言われても、あんまりそれぞれの記憶はないんじゃ(笑)

田畑:長いですもんね。

大上:長い。いろいろやって、こういう木はこういうふうに使うんだなとか、そういうこともいろいろ覚えてきた。やけ、育てるところから伐って使うことまで、一連を通してきてやった。それが、自分の経験。

大上:で、行政だと山林係はどういうことをされてるんだろうなということを、横目でチラチラ見ながら(笑)それを見て、ああこういうふうにしなきゃいけないんだなとか。財産の運営じゃな、そいうものも流れを見ながら、やってきた。

大上:最初の頃は、家の手伝いで4tのユニック車にスギのええもんを積んだら30万円ぐらいで落札したりした。こんなに儲かるのになんで誰もせんのんじゃろう?といううのが僕や兄貴の第一印象で(笑)でもそしたら今度は、だんだん山の木の値段が下がっていった。で、もうみんな山も何も見向きもせんようになる。そういう中で、放置された山が増えていってな。間伐とかをどんどんして育てないけんというときに「百森構想」が役場の方で、行政的に起きた。

大上:これはいいことだと期待してて、でも今度は森林組合だけだとスピードがちょっと遅くて。村に自前の会社がないといけんじゃろうな、ということで、行政的にそれが動いたんよな。君ら(田畑・中井)が村に来たときには資本もなけりゃ何にもないとこから会社を起こさないけんということで大丈夫かと思ったんじゃけど「村がこうやって協力するから、君らはちゃんと会社をせい」という流れでな。それは議会も全会一致でお願いした。それで現在に至ってるんだけども、山の事業者に対してもうまいことやってくれてるようだし、そこそこ軌道に乗っとるんか?(笑)

田畑:ぼちぼちです(笑)

大上:で、なんで議員なったんじゃ?って言ったら、自分が手を挙げたんじゃなくて。うちの地区に元々おられた議員さんが退職されて、地区に議員さんが誰もおらんようになって。そうなると、誰か出てくれないかなという話で、白羽の矢が立って。それで出さしてもらったのが議員活動の始まり。まあそうこうしておるうちに「百年の森林」の事業がもう全国的に有名になっていって。

大上:そんな背景の中で、自分も山は続けるんじゃけど、ああいう大きい機会も買うこともできんから。今は家だとかお墓だとか誰も手をつけんようなところの木を段取りつけて片付けていくことをしたり。その中でも、時間があったら山へ行って作業道をつけて木を出すというような仕事もある。ただ、西粟倉はもう手放されるような山主さんがぎょうさん事られるようになるってな、それどうしたらいいんだろうと思っとる。

ちょっと脱線

大上:そんで、今日はちょっと言いたかったことがあってな。そういう飛び地の山をな、百森がこうてくれりゃいいのになと思っとる(笑)それぐらいの勢いがあってもいいんじゃないか。村はやっぱり飛び地が増えても難しいからな、村は大きな山をまとめて持って運営したほうがいい。そこで、こういう小さな飛び地をどういうふうに片付けてくれるんかな、と。そのうち集積して、自分とこの会社の資産としたらいい。もうそれしかないから、いつそれを言おうかと思っとったんじゃけど、今日はええチャンス(笑)

大上:本当に始末せにゃいけんから。放置しておくわけにいかんので。これはもう行政的な問題になってしまう。山をやることで金がぎょうさんはいりよったときにはそれは良かったかもしれんけど、今みたいに山の価値も材の価値もないようになってしまったら、もうそりゃあ、もう誰か元気な人にまとめて持ってもらうしか方法がないなと思って。社長どんなん?

田畑:いやまさかの展開ですけど(笑)やっぱり、山の価値が下がってきてみんな放置しがちになった、みたいなのは皆さんの実感としてある話ですか?

金田:やっぱり価格の問題じゃな。昔は1本の境木で裁判かけよったんじゃでな。そういう時代もあったんだから、今は価格がもう低迷してるから、逆に言うたら「百森構想」はそれで成り立っとる。高い木は誰も預けりゃせんでな。

新田:昔は木を売ったら車が買える、みたいなイメージだった。虹梁を2本ほど出せば。

金田:虹梁用の立木が1mで1万円、みたいな時代もあったな。

田畑:西粟倉は蔵がある立派な家が多いですが、それもその関係だったりするんですか?他所から来られるひとがよく「この村は立派な家が多いですね」と言ったりされているのですが。

大上:あれは米じゃろう。保管のためにな。

金田:ワシが帰ってきた50年前くらいは、まだ家柄が全般的に良くはなかったな。屋根に石を乗せてるような家も多くてな。この数十年でめちゃくちゃ変わったわ。高度成長じゃろうな。

大上:山の値段も良かったな。みんな山を買いたくてな。

新田:分限者という言い方をしますね。山は重要な財産でした。

金田:村自体もなんで昭和の時に合併せなんだかと言ったら、1300町歩の山を持っとるからだったからな。木の価値は間違いなく影響しとった、すごい財産だった。

大上:米もすぐに財産になったな。昔は行商人なんかが買いに来ても米でええと言われたりな。

田畑:豊かになれるだろうな、という感覚はある村だったんですかね?

大上:村が貧しいなんて思ったことはないな。

金田:全然ないな。特に2000近く人口があった頃、白籏村長の頃か、あの頃は村に凄い勢いがあったんじゃ。大上くんなんかは職員さんで役場におられたから分かろうけど、なんでこれほど勢いがあるんかなと思うくらいな。若い人が多かったしな。あの頃は長男なんかは絶対に村を出ても帰れと言われとってな、イヤイヤでも絶対村に帰ってきとったからな。若い人がいっぺんに増えてな。勢いがあったなあ。

大上:耕作なんかでも、牛からすぐにトラクターに変わったりな。車も昔は各地区に3台くらいしかなかったのに、すぐにみんなバイク買って、軽トラ買って、クラウン買ったりするひとがおって。なんでもかんでも賑やかだったなあ。

金田:西粟倉はな、昔から「とっつきやすく冷めやすい」というのがあってな。新しいもの好きなんよ。機械なんかでも周りにないものをどんどん取り入れてな。とにかく派手なんよ。

大上:確かに派手なんよなあ。西粟倉がエンジンでやる機械をどんどん入れた時は、近くはまだまだだったんよ。電話がどんどん普及したりな。農集電話といって、ひとの話が聞こえるような電話だったけど、それがすぐに個人用の電話に変わったり。

新田:やっぱり、街道沿いだからね。情報がどんどん集まるんですよね。播磨、因幡の交通の要所だったから。

大上:どんどん新しいことをするんよ。地籍調査なんかもな、人が少ない分やりやすいしな。

金田:上下水道なんかもな、白籏村長の時分じゃ。昔はな、残飯なんかを川にどんどん捨てよったんよ。それが当たり前だったんじゃけど。整備をしてな。

大上:下水はな、地区の代表者から話が出たんよ。西粟倉も、そういう環境に目を向けたらどうじゃ?という話があってな。国でそういう事業があるのは知っとったけど、まだワシらのような田舎でせんでもええかなと思ってはおったんよ。でもやっぱりやらなきゃいけんということでな。

金田:よう金があったんじゃ思うわ。

大上:そりゃ財政指数なんか大変じゃったで、特にその事業の後はな。

新田:白籏村長の時にいろいろ広くされたんだと思うね。財政も大変だったろうし、ある程度ワンマンでもあったと思うけれど。7期ほどやったなかで、そういった下水とか、観光に早くから目をつけるとか、大局に立った先見の明があったね。

大上:そういったところで、外貨を得て、高等教育を得ることができたのが僕らの年代だわ。

新田:当時は現金収入が全然なかったからね。当時は炭を焼いたりとか、田んぼとかで、お勤めされている方以外は自給自足みたいな形で暮らしていたから。でも教育となると、かなり現金が要るようになった。それで産業を興すことが大事になったとも言える。

金田:当時大きかったのは、ナカバヤシなど工場なんかを幾つか呼び込んだんよ。それでみんな勤めてな。今の高齢者の方なんかはな、そのお陰で厚生年金なんよ。時代背景があるんよな、田舎は都会に比べて人件費が安かったからできたんじゃと思うけど、ああいう勤め先ができると、あるだけで全然違ったわ。

大上:雨風受けずに仕事ができるところなんてのはな、どえらいことだったな。それまでは出稼ぎにいきよったからな。姫路が多かったかな。冬なんか今は少し余裕があるから溶けるまでまったりしてもええけど、昔はそうはいかなかった。

金田:スキー場ができてからは、山仕事しよるひとは手伝いにきたりしてたな。そんな時代だったな。

田畑:金田さんのところは製材所ですけど、昔の西粟倉ではそのあたりはどうだったんですか?今はエーゼログループ、金田製材、山本材木店、岸本木材さんがありますが。

金田:新田さんとか、小椋さんとか、水力でやるようなところとか、5軒とかはあったかな。うちも昔は毎日やりよったけど、少しずつ休みながらになったりな。最近はメタルワンさんの注文があるから有り難いことに忙しいけども。

金田議長のお話

田畑:改めて、金田さんの生い立ちというか、議員さんになるまでの流れをお伺いしてもいいですか。

金田:だいたい50年前くらいに大学を出て、長男だということで帰ってきてな。何をしようかと思って、役場に行こうかと思ったんじゃけど、そのとき「大学出は取りません」と言われてな。親父が議員を辞めたころじゃったかな。何しようかな、と思ってアルバイトみたいなこととかしよったんじゃけど。

金田:その頃はまだキャリーも無かった時分で、キンマ引きをな。親父が山仕事しよったもんじゃで、教えたろうと言われて。でも大変だし、早う辞めたろう、すぐ村を出ようと思ってな(笑)でも親父がその頃もう歳で、仕方なしにやっとったんよ。結婚もしたしな。結局4,5年ほど山仕事しとったんかな。

金田:で、その時な、丸鋸の製材機があってな。それをちょっとつつきよったんよ。そしたら、これは面白いなと思ってな。職人さんに目立てとか、木取りとか教えてもらって。製品にするんが、本当に面白くて。

金田:そしてしばらくして、帯鋸に替えようというタイミングがあって。金の工面をどうしようかと思っていた時に、ちょっと親戚の関係で臨時収入があってな。500万円をかけて、今の帯鋸になったんよ。その頃は製材もええ時で。ベイマツなんかも扱ってな。ベイマツは歩留まりがものすごくよくて面白かったな。誰もがどんどん家も建てて。大工さんが何棟も受け持って。

金田:でもそうこうしてるうちに木の値段がどんどん下がってしまって。うちは親父が50町歩ほど山を持っとって、それを少しずつ回せば生活はできるという時代だったんよ。だからまあ大丈夫かなと構えておったんじゃけど、木の値段が下がってしまって、もうバタバタしだしてな(笑)そうなると製材もどんどん下がってしまって。今はもう最悪の状態じゃけど。でもまあ、ええ時代を過ごした人間かなと思う。山も木も、製材もな。

金田:議員になったのは、大茅には独特の風習があってな。総代とか、区長とか、そういうのが死ぬまでついて回るようなもんなんよ。それとか、スキー場の役員とか、生協の理事なんかを積み上げていくんじゃけど、そうするとな、部落のひとから「お前そろそろ出たらええんじゃないか」と言われるんよ。

金田:まあそれが一つの理由なんじゃけど、もうひとつあってな。四行田の谷で、いちど大水が出たことがあるんよ。その時に、2,3軒の家が床上浸水して。萩原村長の時で、現場で村長に出くわして「ちょっとこれ何とか堰堤こしらえてもらえんか?」と言ったんよ。そしたら、知らん顔されたんよ。気分悪うてな(笑)

金田:それがえらい気分悪くて腹立ってな。知らん顔されたんが。これはすぐに議員出たらなあかんと思って。で議員になってな。すぐに当時の建設課長に話をして、1年くらいで堰堤つけてもらったわ。そんなわけで、すごい怒りがあってな。それで議員になったんよ(笑)

大上:あの頃は公共事業がいろいろ予算があったなあ。たしか一緒に金谷もやった。でも萩原村長はハコモノなんかを絶対つくらん、と言って出たひとだったこともある。当時は何かをつくるのにとにかくお金がかかるという感覚が強くて、国の予算だとか、そういう内訳がなかなか難しかったな。

金田:大上さんは4人も村長を経験してるからな、いろいろ思うこともあろうな(笑)

大上:人によってそれぞれじゃな(笑)山のことも村長によってだいぶ変わるけんな。山の関係で言ったら今はもう西粟倉は前を走り続けなんだらいけんけども。一度走り出してしまったわけで。

金田:もうやるしかないわな。

新田議員のお話

田畑:新田さんはこの中では一番最近議員さんになられたわけですが、改めてこれまでの流れをお伺いできますか。

新田:そうですね、わたしは昭和60年に大学を卒業してすぐに帰ってきて、教職に38年間就いておりました。勤めている間はね、山は大変遠い世界でしたね。どちらかというと面倒くさい(笑)

新田:一方、親父がね、いろいろ仕事をしていた人なんだけれども、なかでも山の仕事が主でね。最初は10町歩とかだったのが、5倍くらいに広げていったんだけれども、やはり山がとても好きで。ただね、その親父の純朴な山を愛する姿というのがね、息子としてはやっていけんというか…いい時代もあったんだろうし、そういう話ばかり聞くんだけどね。もう山は不動産じゃなくて、不要産だったから。そんな想いは持ってました。

新田:でも、親父の山を見る目というか、育てる力はね、これは本当に一級品だったと思う。虹梁を買いに来られる方なんかがいたんだけれど、そういう人は「一男さん(新田議員のお父さん)の山、あそこのあの斜面のあの木が欲しい」という注文をされてね。いわゆるそういうブランドのような状態でね、かなりの値段で買ってくださるような状況があって。

新田:だから退職したらそういう山をね、どうにかしないとなと思っていたんだけれども。でも退職の3,4ヶ月前に親父が死んで。その管理を自分でしないといけなくなってね。その当時は、やっぱり親父からすると「百年の森林」事業のイメージが悪かった。預けることによって、いいところだけ伐って、次の山に行って、またいいとこだけ伐って、残るのは悪いもんしかない。ボロボロにしちゃう。そういうイメージがあってね。百森に預けるかどうかという話のときにも、絶対ににせん!自分で手入れしとるけえ、という話で。そして今もまだ入ってないんだよね(笑)

新田:改めて親父が亡くなって、やっぱり山を見いくとね、やっぱりその山の雰囲気、木立の充実感というか、何か存在感というかね、改めてこれはちゃんとしていかにゃいけんなということを今感じてるかな。

大上:実際、新田くんのところの山はお父さんがほぼ片付けとるからな。百年の山ができとる、整理されとる。

田畑:僕も一度だけ一男さんに案内してもらったことがあるんです。本当に綺麗な山で、ほかの人だとこれから20年どうしようみたいな話をしている中で、一男さんは100年後のことを至って普通のことみたいに話されるので凄いなとなりました。

大上:そういう先を見越して、やり遂げとるからな、それはもう失礼な言い方かもわからんけど、山が整い過ぎとる(笑)いろんな山をいっぱい見てきたけど、あんな素晴らしい山はなかなか出来ん。

金田:やっぱり山がだいぶ好きだったんじゃろうな。

新田:それはもう。もう自分で機械を買って、自分でユンボを買って、自分で作業道つくって、とにかく自分で全部やらないと気が済まない性質で。とにかく山に行っていれば機嫌がいい、86歳まで山から木を出してましたからね。

田畑:そんな中、議員さんの道へはどういう形で?

新田:私は令和5年の3月31日で定年退職して、そのときに議員選挙がその3週間後で(笑)いろいろね、西粟倉の議員さんは金田さんが仰ったように順番というか、誰それが抜けるから次のひと、みたいなこともあったりして。そういう意味では、私はルールをちょっと破ってしまったのかもしれないとは思っているんだけど。

新田:私は教職が長かったけれど、行政経験も何年かあったりしてね。当時いろいろ仕事をするときの当時の議会がなかなか良くなくてね(笑)今はどうか分からないけれど、当時はすごかった。それはちょっと議員としてどうかな、みたいなことも多くて。そして、ああいう形で議決をもって進むというのはおかしいだろうというのもあって、反面教師にさせてもらってね。それで、西粟倉をそういう形にはしたくないという思いもあって、すみませんけど私も手を挙げます、と立たせてもらいました。

田畑:義侠心というか。

新田:いや、そんなかっこいいもんでもないけれど(笑)いろいろと自分もまだまだ勉強したいと思ってたので。そして、やっぱり勉強するにあたっては、何かそういうベースになるものが必要でね。

金田:あとはやっぱり百姓やら山やらで収まりたくない、ということもあったんじゃないかと思うけど。それに新田くんにはいろいろ「やってくれんか」と相談があったと思うんよ。元からいるワシら議員からしたら有り難い話で、やっぱりいろいろなことの経験者で。

新田:いま1年余りの中で言えば、議員としていろいろ勉強させていただけるし、それを発言させていただく機会をいただけるということは本当に幸せでね。政策についてこれがどうなってるの?みたいな質問だとか、本当に小さなものでも課題を執行部に伝えることができたりとか、公的な場でお話できるのは非常に有り難いと思ってやってます。

金田:これはやっぱり議員という仕事のひとつじゃな、さっきの話もそうなんじゃけど、ただ怒るだけじゃ届かんのよ(笑)やっぱり議員として出させてもらって、公的な場で話しができるのは違う。

新田:やはり、村長とか議員というのは直接選挙で選ばれていますから。選挙を経ているものなので、やっぱりその発言力の重さが全然違うと思うんです。もちろん、責任も伴いますが。それは感じています。

百年の森林構想について

田畑:そんな議員の皆様に、改めて「百年の森林」の事業について評価といいますか、今のところどう思ってるかみたいなところを忌憚なくお伺いしたいですね。

大上:西粟倉で生まれて、西粟倉で育ったひとだけでここまで進めるというのは難しかったと思う。しがらみみたいなものもあるし、他所から呼ばれて来られたひとがどんどんやってくれるのは、ちょっと突破力というか、ある意味好きにやっておられるかな、という感覚があるな(笑)

大上:基本は百歳の木を育てましょうという話でね。それは何かと言うたら、枝打ちや間伐が進んでないけん、これを促進するため目標になる言葉を掲げて取り組もうというのが、この「百年の森林」事業の始まり。その中で森の学校とかトビムシとか、そういうのができて。それだけだと足りないから山に重点を置いてくれるひとが要るということになって、株式会社百森の二人が来てくれて。

大上:実際に山に入ったら大変なことがいっぱいあるなというのが、わかってきたんじゃなというのは実感として僕はある。大変な苦労もしておられるし、「なんでこんなことを」みたいな部分に飛び込むような、そういう感覚もあって、いろいろと頑張ってくれよるで、これを継続してもらいたいというのが本当の気持ち。あとは、もっと山主さんから入ってくる気持ちだとか、そういうことの汲み上げ方を考えてほしい。もう心得られてはおると思うけれど。

金田:もともと道上さんが、村長3期目の半ばぐらいだったか?そのときにアミタさんというところがアドバイザーとして来てて、その頃からちょっとこの村が変わりかけた感じがあった。

金田:昔その「百年の森林」が始まる以前に、道上さんと議員全員で村有林を見に行ったことがあってな。そしたら当時は西粟倉森林組合があったから、綺麗に間伐もされてて。枝打ちもされとったし、ええ山になっとったんじゃ。でもな、そこに行くまでに見かけた民有林がどれもものすごい荒れておってな、全然ほったらかしで。それで帰ってきて「道上さん、この民有林は何とかならんか」と話してみたんじゃけど難しくてな、結局「民有林なんてどうにもなるわけなかろうが」ということだった。

金田:その後でアミタの相談とかがあったと思うんだけど、あるとき村長から「百年の森林事業というのを、村が民有山を預かりながら進めようと思うんじゃ」と言われてな。そのときは「そんなことできるわけなかろうが」と言ったんじゃ(笑)西粟倉の住民が全員山主だったらええけど、山を持ってないひともおるから。血税を使うとなったら難しいんじゃないかと。

金田:道上さんはそのとき「治山の能力を高めるのがひとつの重要な理由になる」と言うたんよ。結局やっぱり、山を放置しておくと保水能力がなくなるから。雨がそのまま川に流れて、大水が出たときに家や田んぼが流れるから、間伐をしっかりして保水能力を高めようということで治山に関わる事業を進めることを考えとったわ。それは確かに村全体として「百年の森林」事業を進める理由のひとつになった。今では村に仕事ができたりとか、森林経営管理法のモデルになったとか、環境譲与税で税金を森林整備につかうとか、そういう全国的な取り組みの先駆けとして西粟倉は貢献しとるというような意味合いもあるけれど。

金田:いまの西粟倉村はいろいろやるようになった。環境モデル都市とか、国から五つの選定事業をもらったり。でもこの「百年の森林」事業は、この村がそうやって新しく変わるための一丁目一番地のそのものやろうな、間違いなく。大きな転換だった。だから本当に「百年の森林」は大賛成で、構想としてとても良かったと思っとる。

大上:いまの話にあった、停滞していた民有林なんかを考えても、誰も放り出したまま手をいれようとはしなかったわけだから。森林組合だけでは難しい。熱量が違う。そういった誰もやらんような場所に目を向けて、いろんな人を呼び込みながら、進めていこうというところは「これから村が変わっていくな」という感覚はあったな。

田畑:スタートの頃はまだ行政や政策の部分に関わられなかった新田さん的には「百年の森林」構想はどういう評価されてますか?

新田:私は3つ評価があって、一つはよく森林整備が進んだということ。何もしなければ放置されたままの山がね、こういったシステムを使うことによってできるようになったということですね。

新田:二つ目は、なんと言っても第一次産業で生活できる人が村の中にできたこと。これは大きいと思います。今までも山仕事で生活されてきた方もおられたけれども、かなり厳しかった。山林の価値が下がる中でも第一次産業に就いて、しっかりと生活できるひとができたのは良い点ですね。

新田:そして三点目は、百森の清水さんなんかがされていることだけれども、新しい価値を見出すこと。わたしたちは山といえば木を植えて、それを伐って、それを製品にして出す場所。素材を出すことだけが、山の価値だと考えがちなんだけれども、そこに新しい価値を見出している。木を伐らずとも、山があること自体に価値があると考え始めることは評価できるんじゃないかな。我々にはなかった視点だから。

新田:逆にね、やっぱり課題もあって。構想のスタート当初は行政が積極的に山を預かって進めていたでしょう。役場が森林組合と協力してやっていく形。それが徐々に変わってきて、今は株式会社百森という民間企業が中心にいるように見える。そうすると、住民の方からは財産を預けることに対する不安があってね。

新田:ちょうどこの前、「百年の森林」の契約更新があったでしょう。山主の方々が言われるのは、役場が来て更新するはずだったのが、いつの間にか田畑さんの名前ばかりになっててね(笑)役場はどこ行ったんじゃ、と。口々にそう言われるんですね。

新田:そうなると、まあ今はあんまり聞かないけども、先ほど父が言ったように預けたらええもんばかり伐られてしまうんじゃないかとか。あと、林業に関わる事業者が集まって談合をして話をしよるんじゃないかとか。自分らがええように木を安く買い叩いたりしとるんじゃないんか、とかそういう話がね。

金田:説明がちゃんとしてないかも分からん。そういう疑念は出るな。

新田:ええ車に乗ってるひともおってね(笑)私は一次産業を本気でやって、しっかり儲かってえ、いい生活ができるならそれはいいと思うんだけれども。そういうことを言われる方も多いからね。自分の財産を使って、勝手にいい思いをしてるんじゃないかと。

新田:木というのはとにかくスパンが長いから。米を育てるのは毎年収穫があるけれど、木は50年前にお祖父さんが一生懸命に植えたものを扱ったりしているわけだから。いろんな想いが出てくるんだよね。これはやっぱりちょっと他の事業とは違うところ。

大上:育てた、という思い入れがあるからな。

金田:ある程度仕方がないと思う。山というのは、長い時間をかけて大変な目をみて、子供を育てるようなもんなんよな。

大上:でも前に、村長に言ったことがある。「山仕事してる人の車を見たらサビだらけじゃろう、そんなことじゃいけんぞ」とな。それじゃ若いひとがやろうと思わんぞ、と。ちょっと派手な車に乗ったりできるようにならんと、若いもんがついて来るもんか。それで村長が林業会社の社長に「ええ車に乗れよ」とふっかけたりしよるんじゃけど(笑)

金田:まあ実際、今ええ車に乗っとるように見える林業事業者も中身は借金でな、事業を必死に回しとるんだけども。

大上:昨日も林業会社の社長と話しをしたんだけど、儲からんとは言っとったわ。でも結局は金をしっかり回さなあかんんからな。仕事をやるには銀行との話もせにゃならん。大きい仕事をする会社の必須条件みたいなもんじゃから。

金田:運送なんかもそうじゃけど、やっぱりものすごく難しい職業なんよな。年間の消費もすごいし、お金がかなり要るし。

新田:とにかく仕事を回さにゃどうにもならんから。止まっとる瞬間に終わってしまうからね。

大上:だから自由奔放というわけにはいかないし、多くの制約の中で動かざるをえんのよな。それはちょっと気の毒な部分もあるというか。私らは年金と議員の報酬でそこそこやってたらな、どうにか生活ができるけども。あんな大きい機械だとな、なんぼ木を伐っても機械はめげるわなんじゃで金がかかって本当に大変。大きい機械にするけん大変なんじゃけど(笑)村がもっと小さかったらそれで良かった。

金田:西粟倉で昔から議員さんがよく言ってたのは、村有林を毎年10町歩を皆伐しても100年はいけるという話なんよ。1000町歩はあるからな。そして100年経てば山も元に戻ろうが、と言ってな。そうすると、昔は1町歩で500万ぐらいで取引されていた。なので50億くらいは村の財産があるという単純計算。今は価格も下がって、まあ10億くらいか。そういうことも、大きな機械じゃなきゃできんし、考えていかないけんと思う。

田畑:林野庁の試算だと1町歩のスギを50年間育てて売るとして、売上も補助金とかも全部合わせも30万円の赤字が出てしまうんですよね。

大上:次の苗どころじゃない(笑)でも「百年の森林」事業では最初は皆伐のところまで手を出すことは無いかと思っとったけど、今はそういうことも始めていてな。村のひとには村有林を皆伐するなんてもとの計画に書いてないがな、という人もおるけども。いま議長が言われたように、撫育だけではなくて、伐って育てるいうことも一連のサイクルとして考えなんだら山は続かんで。時代背景が変わっていくんだから、計画もいずれまた見直さなきゃいけなくなるし、世の流れをちゃんと見て変えていくしかない。今は確実に儲かるという事業内容じゃないし、経営管理は厳しいなとは思えるけど、いったん始めたことはもう止まるわけいかんから。とにかく頑張ってもらわないけん。

株式会社百森について

田畑:「百年の森林」事業が進んでいく中、株式会社百森ができて7年ほどになります。百森についてはどんな印象をお持ちですか?設立時の印象や、今と違うことなどありますか?

大上:さっきのアミタとかは最初、観光の話で来とったんよな。赤字の観光事業をどうにかできんか、という話で。でも道上さんはもともと「福祉で村づくり」を掲げていたもんで、それを急にやめるわけにもいかんし。でも福祉だけじゃ結局どうにもならんから、山をどうにかせにゃいけんという話になって。徐々に山に特化するように修正したんやな。それが「百年の森林」づくりに発展していった。

大上:そしてアミタの下で来ていた牧さんがトビムシ会社という会社をつくったり、製材所をやったりしてな。そうして新しい動きができる中で、新しい山の会社を作ろうという話になったのが青木村長の時じゃな。森林組合だけじゃなかなかうまくいかんということで。こういう動きはひとつひとつ民意を汲んでやっとるわけだけど、なかなか新しいことは難しいわな。実際、これが気に入らんひともたくさんおった。

大上:でもこうして新しくこの株式会社百森ができて、だんだんだん会社が大きくなっていって、そしたらこうやってみんなが任せるようになっていくわな。これは信用の問題だから。

金田:前に道上さんがやられとった時分に「百年の森林」事業がなかなか進まん、ということで僕が森林組合行ったら「それは役場がちゃんとしてくれんからじゃ」と言われてな。それで役場に行ったら「それは森林組合がちゃんとしてくれんからじゃ」という話があって。それで今度は青木村長に変わったあとで、役場が片手間にするのは難しいということでな、専門組織をつくろうとなって。構想自体は前からあったんじゃけども。

金田:そうして会社をこしらえるときにな、田畑くんと中井くんが来られたわけで。最初に株式会社百森をつくる時に、二人の共同代表というのはちょっとどうなんかという懸念はあったな。責任転嫁で、お互い「お前が悪い」とか言って、ちゃんとやってくれないみたいなことにならんかなと。

金田:でも今は中井くんは他の事業を進められて、田畑くんが村におって、ある程度信用できているんじゃないかと思う。まだそう長くないからある程度ということにはなるけど。エーゼログループの牧社長がこの前「村で十数年やってきて、今まで全く認められてなかったもんがやっとこさ少し認められてもらいだした」ということを言っていたけど、なかなかそう信用を得るいうのは難しい。

金田:小さい村だと、やはり警戒心は強いから。山主にしても。しっかりやってもらって、信用してもらえるようになるしかないわな。頑張ってほしい。

大上:なかなか人の心つかむのは難しい。

金田:やっぱり外から入られた人は余計にな。元からおるひとはまあそうでもないのかも分からんけど、辛抱してある程度やってもらわないと。

大上:あと、たまに中井くんが村にきてニコニコしててな、まあ仲がわるいことはないんじゃろうと思うんじゃけど(笑)でも、もう田畑くんの仕事を他の人がやろうと思っても代わりはおらんのでな。体の管理をしたりしてもらわんと。

大上:僕らがやろうと思ってもな、もうほんまに年齢的に自分の寿命がなんぼあるかとか考える。そうするとやっぱりそんなに馬力がな、そういう分からないところににワッと飛び込んでいくような勢いはやっぱり若いときしかできん。

金田:田畑くんも冒険じゃな。人生の1ページをここでおるんで。何のゆかりも何にもないところにポンと入ってくる。これはすごいこっちゃと思うな。

田畑:なんだか恥ずかしいですね(笑)新田さんはいかがですか?

新田:株式会社百森については、これはやっぱりスタッフだと思う。田畑代表を始め、皆さん明るく接してくださり、そういうことが一番プラスじゃないかと思ってます。ただ、職員の皆さんもストレス溜まるだろうなと思ってね。それはね、やっぱり山の関係はみんな頑固というか、こだわりがあるからね。そこを話していく大変だなと思うね。

新田:あとは、何にしてもとにかく成果を示すことだね。成果があったらみんなやっぱり信頼してくれる。成果を示してその状況をオープンにする、透明化していく、説明していく。これがどの組織でも必要だろうと思うね。今後そういったこともやってくださるんじゃないかなと思ってるけれど。

株式会社百森の課題

田畑:百森に「この辺をもうちょっとどうにかしてほしい」とか、そういったことはどんなことがありますか?

金田:新田くんが言われたように、山を持っておられる村民の方は、木をとても大切に思われてるんよ。だから、育てられた木をとにかく大事にして欲しいという気持ちがあるな。軽視はしてないんだろうけれど、やっぱりとにかく大切に預かって欲しい。

大上:結局、木を伐っていくことで手入れを進めるわけで。バランスを見て、これは伐らないけんとか、ここは曲がっとるとか、そうやって選んでいるんじゃろうけど。伐った株を見るとな、ええもんを伐ったように見えるんよ。そら途中で腐れが入っとったりな、伐らにゃいけん木を選んどるのは分かるんで。でも山主さんからしたらな、そういうのが気になるわけじゃ。

金田:植林してから10年近くの下刈りをしたり、それからある程度大きくなったら紐打ちしてみたり、ある程度気になったら、今度は除伐してみたり。それから雪起こしもせにゃならん。山に関わって、えらい目をずっと見ながら、ここまで60年。やっぱりそういう山というものをな、大切にしてもらいたい。みんなは経験がないから。それは当たり前のことなんじゃけど。

新田:山は子供を育てるようなもの、と言われたのはその通りでね。やっぱり事業が大きくなれば一度に扱う量を増やさなきゃいけない。それで大きな工作機械を入れてやっていかれる、それはよくわかるんだけど、見てるとなんか痛々しいんだよね。いやね、考えれば分かるんです。もう頑張ってバーンと切っていくような作業をしないと進まない、それは分かる。でも前は本当に1本ずつ丁寧にしていたからね、そういうイメージとのギャップを少し感じておられる方もいらっしゃるのかなと思う。

新田:あと、百森にとってはどうかは分からないけれど、同じような会社もまたできたらいいんじゃないかと思うんですね。森林経営計画を立てられるような、そういう会社が村の中でね、新しくやってみますというような方もおられたら、面白いかなと。

金田:あとはやっぱり残りの林家の方をな、やっぱり説得をしていって欲しい。それが百森の大事な課題じゃないかなと。村民の中には、たとえば個人的に「青木村長が嫌いじゃ」と言うて「百年の森林」の契約に入られへん方もおられるかもわからんけども。それは別問題として、村としてやっていくためには必要なんですと、村のためには山をどうにかせにゃいけんと、そういう話をちゃんとしていくのもあんたの役目じゃないかと思う。

株式会社百森のいいところ

田畑:有難うございます。逆になんですけど、株式会社百森ができてよかったみたいなことは何かありますか?聞くのが恥ずかしいですけど(笑)

大上:森林組合とやっぱり対比してみることになる。森林組合と百森は、それぞれできることが違う。森林組合はちょっとトップが閉塞された感じというか、範囲も広いしな。でも百森は完全な民間企業だからそれがない。それがひとつの判断基準になるのかなとは思う。

大上:ただ行政と一緒に歩んでいくんだから、そういう森林組合のような組織のほうがええのか?とか、ぐるぐる考えが巡るわけじゃけど、もうやりかけたわけで、もう止まるわけにはいかんから。森林組合も同業者としておるわけだけど、村の専属で山林のサポートしてくれるのは百森。とにかくしっかりやってもらいたい、というのが本音。

大上:森林組合と農協というのは金融もあるから、確たる財源が担保になると思うんだけども、百森はそこまでいってない。だからしんどい時もあろうかと思うけど、そこは自分の努力で打破して大きくなってもらわにゃならんな。骨太の資金繰りを持っておかんと。

金田:取りまとめ能力がだんだんとついてきとるんかな。森林組合だったら心配だったというところも、百森だったらいうことで村のひとも少しずつ信用しとる部分もあるかも分からん。まだまだではあるんじゃろうけれど。初めはしんどかったかもしれんけども、これは少しずつな。

金田:ええところ言え、と言われたらだいぶ探さにゃいけんな。だいぶ考えてみたんじゃけど(笑)

新田:森林組合はある意味で古い組織であったと思うんですよね。伝統企業みたいなもので、しっかりはしている。ただ、価値観とかを見ると、やっぱり百森はそういう意味で新しい価値観の中でやっておられるなというのは感じます。ただ、今もずっと話しているけれど、やっぱり守るべきものがあるからね。組織として、守るべきものと新しいものへの対応等をどうバランスをつけていくか、そこら辺が代表の腕の見せどころではないのかなと感じています。

田畑:頑張ります。

金田:相撲取りじゃないんだから(笑)

大上:一番一番を大切にな(笑)極端な飛躍は危ない部分もあるから。

西粟倉と山の価値について

田畑:「百年の森林」構想とか、株式会社百森のことはいったん脇に置いといた時、村の未来に山がどうか変わるべきか、山の価値がどうあるべきか?というあたり、イメージをお伺いしたいです。

金田:やっぱり、僕らの思うとる山というイメージはやっぱり、商いなんよな。遊びとかそういう面は全然頭にないわけじゃ。だから、未来志向としてどうしたらいいかなということがなかなか難しい。木は一次産業ということにはなっているけど、結局ひとの手を何段階か加えなんだらお客さんの手には渡らんから、そういった部分に気が向くわな。たとえば遷宮に使われるような木ができればええんじゃろうか、とか。ワシらは木にどっぷり浸かっているもんやで、余計新しい価値みたいなところは難しいな。

大上:それこそ昔みたいにお金がどんどん生まれてくるような品物なら、それはまだ投資意欲もあったりするけども、木の状況を見るとそういうことが望めんからな。いつやったか、西粟倉小学校の子供たちが「百年の森林公園」というのを言うてくれたことがあって。ああいうことから少しずつ現実化していくのは、子供からお年寄りまで関われるような夢みたいなのもあるし、目標にもしやすくてええんじゃないかと思う。いろんなものを取り込みながらやっていく中に、山があるみたいな感じで。西粟倉には山しかないでな(笑)

金田:結局、未来のことを考えると、今まで通りに林家が個人的に所有するのがええんか、もう共同で持つような形がええんか、そういう話になるな。田んぼなんかでももうやれんみたいな話もあるし、山をとにかくもらってくれみたいな話もあるしな。そうやって無料でもらっても、登記で何十万とかかったりするわけだけど、徐々にそういう時代になっていくからいろいろ考えていかにゃいけん。

大上:墓じまいするみたいな話もでてきよる。そこら辺もいろいろやっていかんと、ほんまに死のうと思ってもそう簡単に死ねんみたいな状況になってきとる(笑)

新田:山は自然循環の場所として、新しく価値を見出していかないとね。農地については、農地を持ってる人だけのものではなくて住んでいる人みんなのものということで、多面的機能のような取り組みがあるわけだけれども。山もやっぱり、山を持っていない人にとっても山本は大切なものとしてね。価値観の変更というか、昔は山をもっているひとが木を切って売っていて、それができなくなったらもう荒れるだけでいいという感覚からね、やっぱり自分たちの生活を守ってもらえる価値があるもんだということをね。環境譲与税なんかもあるけれど、やっぱり政策としてね。国の政策としても、進めないといけないんじゃないかなって思っています。

新田:西粟倉は村有林、私有林、かなりの山がある。その価値を高めていく必要があるよね。村長もそういうことをよく話されているのでね、そういう方向性なのは、いいのではないかなと思う。

新田:一方で、森林に何もしなければ税金をかけるというような動きが美作市なんかではあるけれど、私は逆に山林所有者に給付金があってもいいくらいなんじゃないかと思う。森林環境譲与税でも人口比率の計算方法が少し変わって、西粟倉なんかももらえる額が少し上がったと思いますけれど、もっと配分を考えてもいいという感覚を持ってますね。

西粟倉の「百年の森林」構想や、株式会社百森に期待すること

田畑:最後に、改めて「百年の森林」構想だったり、株式会社百森に期待することがあればお伺いしたいです。

大上:ひとつは山を買って欲しいというところに行き着くんよな(笑)何とか始末してほしいというところ。

金田:隣家の人が不安に思ってるとこを払拭できるようにして欲しい。悩みみたいなものを聞いてもらえる場所がなかなかないわけだから。森林組合ともまた違う形でアドバイスとかを考えていただければいいと思うし、「西粟倉百年の森林協同組合」の今後の活動にも期待したい。

大上:山の相談員みたいな形でな。もし十年前に株式会社百森があったらな、雨が降るたびに飲んだくれがきてああじゃこうじゃ言っておったはず(笑)そういう形じゃないにしろ、そうやっていろんな人が来て、話をしてくれるというのは百森にとっても力になると思う。

金田:事業自体が長いスパンで考えていくしかないから、短期間ではなくて。そうなると、村民とのやっぱりふれあいというか、信用性っていうのも大事になるんよ。

大上:今の林業をやるような会社を作ろうと思ったら、1億円は準備がないとできん。田んぼも同じ。だから、そういったことについて若い年代の人が携わってくれてることは、僕らにとってはすごい安心感があることなんよ。あと5年もしたらどうなるか分からんことばかりなんじゃから。いまやってくれていることを、いろいろアピールしてくれたらええと思う。

金田:田畑くんらが木を伐るツアーみたいなことで人を連れていったりしよるけれど、ああいうのは都会では絶対できんからな。個人で勝手に山に入って木を伐るみたいなことは無理だから。そういう部分をやったり、木について啓蒙していくというのもあんたの仕事かも分からんな。

大上:この「百年の森林」構想を始めた頃、森の学校で井上くんらとそういうことしよったな。ワシも伐ってくれと頼まれたりして。山主さんも喜んでくれたな。結局、山主さんに喜んでもらおうと思ったら実演するのがええ。買うひともそれで机だとか、腰掛けだとかを子供に記念としてつくって。

金田:いまメタルワン菱和の従業員さん定期的に来てくれとるけど、ああいうのもやっぱりええなと思う。いろいろ知ってもらって。ああいうのを広げてほしいな、いろんなところに対してな。

新田:話にでたように、今は体験の時代ですよね。それも用意された、決められた体験ではなくて、本当に自分の力で体験するような。そういう意味では、あの木を伐る体験を提供されているのも、非常に新たな視点で、いいなと思っていますね。若い方がこういうことを考えてくださるのはとてもいい。

新田:村の農関係がね、もう平均70歳です。もうあと少しでかなり厳しい状態が来る。耕作放棄地が増えるので、これをどうしていくかを考えることが多いけれど、手の入らない山も同様ですね。その中で、この株式会社百森さんが担うべき部分は大きいんじゃないかと思います。

金田:あと一点な、やっぱり皆伐した後、はい、その管理だけはしっかりしてもらわなきゃいけん。百森の場所じゃないところで、山に全然なってないのを見たことがある。その管理だけはとにかくしっかりとな。

大上:言い方が悪いかもしれんけど、やる人が他におらんから(笑)しっかりいろいろ気をつけながら、堂々とやってもらいたい。

田畑:有難うございました。そのうち山ならなんぼでも買いますって言えるよう、目指していきます(笑)

大上:そうそう。次はどこを買いましょうか、と言ってもらわんと(笑)

金田:高く買いますよ、と言えるようにせにゃいけんで(笑)


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