雑誌作りてぇなみたいな妄想

このnoteの形式、自分でしゃべった動画の後に自分の語りを付けていくみたいな形のnote記事の書き方をする前の話だ。こうした自分の語りみたいなのをするという行為に価値がないとずっと思っていて、ならば自分が読んでいて面白いと思う人達を集めて場を作ればいいじゃないかという発想は常にあった。

それは僕が多分一番好きな漫画である。金色のガッシュの最新話を読むために少年サンデーという雑誌を買い始めたという発想が根本になっているのは間違いない。

言って仕舞えば、自分の興味の最前線が一つの雑誌に集まっていて、それを追いかける為にはその雑誌を買えばいいという発想が、自分の中にある根源的な欲求、それは好奇心という言葉で置き換えられるかもしれないが、そういったものを追い求めるための媒体として週刊雑誌というのはとても都合がよかった。

というところから、自分には創作する才能がないので、連載するような才能がないなら支える役目(=編集になればいい)という発想に行き着き、ただ、自分には誰かを支えるといった器や、やさしさや野心や愛情がそこまでなく、結局の所自分が好きなんだなという結論を抱けたのはつい最近の事だと思う。雑誌を作るという事が、自分の果たせなかった才能の末路としての道ずれはだめだし、自分の才能を開花させられなかった事に対するくすぶりを処理するための自慰行為でやったとしても、それは自分がしたくてした事もでなければ、ビジネス的な勝ち目もない、くだらない承認欲求を満たすためだけの道具としての媒体にしかならないのである。

という訳で、単純に今目標というか、単純にやってみたいなと思うのは、ローコストの雑誌で、更に詩だとか言ってしまえば読みずらい文芸形式のものを集めて乗せて、原稿料を払う。そのシステムはアンケート方式なので読者に依存しているみたいな物にしたいと考えている。これは続けていく事が大事だと思っているし、自分が続けるために必要な事はなにかというと楽しい事それから知らず知らずの内に実施している事である。それを満たしながら定期的に創作物を世に送り出してしまったみたいな結果を生み出したいなと思っている。

誰かに読まれる事みたいなのが大事という思想が、自分の中に強くあるというのは、言って仕舞えばただの幻想ってあって、趣味の範囲で遊ぶだけならば別にそんな事関係ないかみたいな感じに最近は落ち着いている。自分の思考として、自分が面白いと思った媒体の形式を借用して、自分のテリトリーの中で物事を回してみるという事の楽しさが、最近むくむくと出てきているのはとてもいい事だと思っている。リアルでは人目をきにしないとならないが、ネット上で気にする必要はないよなと気が付くまで時間がかかりすぎなのだ。そもそも誰も何も見ていない所で、誰も傷つけない方法論を展開した所で、何も起きないのである。

という所で、金はないし、やってみないとわからないが、自分の手で雑誌を作ってみる。だが、俺には物を作る才能がないし、努力する気もない。ただ、こうして文章を書く事はなんとかできて、滑舌は相変わらずわるいが喋る事ができる。という事実だけひっさげて、なんか回してみたいなと思った感じだ。失敗した所で、多分投稿してくれた人に恨まれて自分の金がなくなるだけなのでどうってことはないはずだ。そもそも誰も応募してこなかったら物も作れないのである。

という訳で妄想が現実化するかしらんが、言葉にしていくという事は無料なので、無料のまま書いてみるのである。

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