見下し2
見下しについての私見続編。
私は人によく見くびられたり、見下される。
元より頭も良くないし、社会的地位もひっくひくなのでまあ別にいいのだけど、
嫌われる・見下されるはセットであってセットではない。
私が性質的に見下されやすいのは自分でも納得できる考察もあるのだけど、今回は見下されることよりも見下してくる人間について。
見下されない人間には、この人間社会で見下してくる人がどれくらいいるか、きっと実感として全く伝わらないと思う。
私の経験から(上級社会のことは分からないが所謂マウントを取るもこれに当たると考えられる)
人間の殆どは見下し属性がある。
ので、見下す人間を嫌うということはまあまあ社会から外れることになる…のだろうか?
見下す…相手の価値を勝手に判断して自分より下に定義するこの心理行為は、今までにも書いていた、群れの中で順位付けがされより上位でいたいという欲求を本能的に持っているという仮定の中ではごく自然なことではあるのだけど、
一応人間社会において「人は平等である」とか「人を見下してはいけない」等の社会規範に反するために堂々と分かるようにはしない方がよい
行為ではある。
その為分かりにくいように、見下される方が悪いと誘導するようにしてそのような行為は行われるのである。
見下す体質の人が人を見下す事をなぜ止められないのかと言うと、他人より上下関係で上の方が何かと得ではあるというどうしようもない現実的な有り様とリンクすると共に、別に相手を見下しても得はしないのだけど、相手より上であるという実感があると満足感や充足感があるのではないかと推測している。
見下す人のどこに非常に文句があるのかというと、他人との関係で心を満たそうとすることです。なのでそういう人とは距離をとる必要があると考えています。
他人への不満や悪口でも理に適っているものと
適っていないものがある。
「こんな嫌なことがあった」や「貸したものが返ってこない」等の具体的な被害や困った事などは情報共有も含めて知らせるのも分かりますが、「あの人は持っているものが貧相だ」「暗い顔をしている」等の言わなくても言いような悪口を好む人はやや警戒がいるかなと思っています。
自分と関係ないものにこだわる事は程々にしないと知らぬ間に心を蝕んでいるように思います。
自分と関係のないものは努力も労力もいらないからこだわったり、馬鹿にする対象にする分にはすごく楽です。楽に快楽が手に入ると言えます。
人は楽なものか楽じゃないものかを選べる時、
ほぼ確実に楽な方を選んでしまいます。
楽に快楽を獲られる事を選んだ弊害は品性の欠落に繋がるかと思います。
知っている誰かを見下げることで、見知らぬ誰かを馬鹿にすることで、安心や優位性に満足を得てしまうと、常に自分の価値や存在位置が誰かと比べたり、他人との関係によってしまうので結果的に不安定になってしまう。
結局自分で何とかできるのは自分自身だけなので
自分の心や満足を自己完結できた方がずっと楽でいいのだけど、それには自分自身と徹底的に向き合って自分自身を理解しなくてはならない。
何ができて何ができないのか。
そこから目を逸らすと結局どこかにしわ寄せがいってしまうように思う。
とはいえ、見下すことも、侮ることも、相手を馬鹿にすることは誰でもきっと多々ある。私も。
そんな聖人ではいられない。
心の中は誰でも自由だ。
ただ表に出しさえしなければいい。
心でどう思ってても、表では礼節を尽くす
それは相手の為ではなく自分の為。
それも厳しい相手とは必ず距離を取らないと
いけない。
と思っています。