思い出すから、母の日は嫌いだ
※この記事は自傷についての表現があります。
「カーネーションをください」
小学校一年生の頃、小銭を握りしめて近所の花屋に歩いて行き、一本だけカーネーションを買って帰った。
今はもうない、小さな白いお花屋さん。
この時初めて、自分で買い物をして母親にプレゼントをしたように思う。
あれから30年ほど経つ今、私と母は完全に音信不通だ。
いや、正確には向こうから年に一度かそれ以下の頻度で突然連絡は来るものの、私が拒絶している。
理由は、連絡を取り合うと私が私じゃいられなくなる。から。
最後に母から来た連絡は、
「〇〇ちゃん、お母さん助けて」だった。
センセーショナルな文章だが、私は応じなかった。
こんな時ばかり「お母さん」を掲げるあの人に、心底がっかりしていた。
どうやら想像通り、金に困って私に連絡してきたと分かった。
いつもこうだった。
お金がない、が口癖で、タバコをふかし昼間から酒を飲んでぼーっとしていたあの人。
「女は早く結婚して、早く孫を抱かせるのが一番の親孝行だ」と私は刷り込まれてきた。
娘のものは自分のものと言わんばかりに、私の交友関係にも入り込んでは壊し、私が遊びに行こうものなら用もないのに電話をかけてきて、あんたはいいよね、と吐き捨てる。
「お母さんのために、私は母親よりいい思いをしてはいけない。」というなんとも言えない苦しさと罪悪感を抱えて、母から連絡が来ると、私は友人との約束を断って、家に帰る。
そうしてまた母の愚痴を聞き、相槌を打つのが私の役目だった。
アルバイトの途中に、職場に電話がかかってきたこともあった。
「手首を切った。ごめんね。これが最後かもしれない。」と。
泣きながら店長に事情を伝えて早退すると、そこにはいつも通りタバコを咥えて宙を仰ぐ母の姿があった。
これが私の日常だった。
またある時は、私が19歳、真夜中に祖母から
「今(母親が)県立病院に運ばれた。包丁で腹を刺して、肺炎を起こしていて、今夜が山場かもしれない。」
との電話。
今考えてもどう言う状況だったのか混乱するが、真夜中に車を出し、片道一時間の病院に向かった。
彼女は個室のベッドで点滴を繋がれ、眠り込んでいた。
呼吸も脈も弱くはあるが安定しているので、と、その日は帰宅することになった。
帰りのエレベーターの中で、祖母がめずらしく涙声で言った。
「あんたにはもう母親はいないと思いなさい。あれは歳の離れた姉妹か何かだと思いなさい。」
…ハハハ、そうだね…
そう言うしかなかったけど、心の中では泣き叫んでいた。
翌年は成人式だった。
一般的には、前年の秋にはみんな準備を終えるものらしい。
私は前撮りだの着物の用意だのが一切何もわからなかった。
年が明けてからようやく、祖母が「成人式の着物ね、貸してもらえるようにおばあちゃんが頭を下げてやるから、一緒に来なさい。」と提案してきた。
再婚した義祖父の親族に、お願いして着物を貸していただいた。
自分でギリギリ予約した美容院。着付けの道具を慌てて用意して、事前の打ち合わせは何とかしてもらえた。
当日、家族に付き添われキラキラと用意してくる同級生を横目に、私は残った髪飾りを貸していただいた。
今考えても恥ずかしいし、迷惑かけてしまっただろう。私も私でもっと自分でどうにかできなかったかな、今みたいに、ネットでなんでも調べられたらよかったなと思う。
それでも式典に出られたことは恵まれていた。感謝もしている。
祖母の家に着物姿を見せに行った。
母親もいた。
久しぶりの再会で、歩み寄った私は、無意識に母の頭をぽんぽんと撫でた。
……なぜかはわからない。
そんな成人式だった。
あぁ、こうして書き出していて、私の記憶がすごく断片的なことに気づく。
印象的なワンシーンが鮮明に蘇るけれど、その前後のやり取りが思い出せない。
これも、脳の防御本能のおかげなのだろうか。
いっそのこと、全て記憶から消し去ってくれたらいいのに、母の日というものは毎年こんなことを思い出させてくれるから、やっぱり好きになれない。
今日も重たい内容だ。