子どもの頃の私は、少し優等生だった。 生徒会長をやり、学級代表を掛け持ち、〇〇長と名の付くものは片っ端から受けた。 塾にはいけなかったので、独学で毎日勉強した。 夏休みも冬休みも、「たまには外で遊んだら?」と言われるほどだった。 祖母は、義祖父の親族に会うと、私の成績を自慢げに話す。 中学から始めた部活は武道で、最初で最後、一番のめり込んだスポーツだった。 頑張って頑張って、大将になって、部長もやった。 中学は一番モテ期(自称)で、彼氏もいた。 周りから見たら
※この記事は自傷についての表現があります。 「カーネーションをください」 小学校一年生の頃、小銭を握りしめて近所の花屋に歩いて行き、一本だけカーネーションを買って帰った。 今はもうない、小さな白いお花屋さん。 この時初めて、自分で買い物をして母親にプレゼントをしたように思う。 あれから30年ほど経つ今、私と母は完全に音信不通だ。 いや、正確には向こうから年に一度かそれ以下の頻度で突然連絡は来るものの、私が拒絶している。 理由は、連絡を取り合うと私が私じゃいられな
今の職場で働くようになって、もうじき一年が経とうとしている。 それぞれが自分の立ち位置を持っていて、みんな他人との距離感を大切にする人達だ。 ごく一部、挨拶さえも無視する人がいて、初めは自分が嫌われたのか、何かとんでもない悪いことをしたのかと悩んだものだが、後になって、彼らは自分達以外には総じてそのような対応をしていることがわかり、今は皆無となったコミュニケーションに多少のストレスを感じつつも、そつなく日々過ごしている。 私は毎日ただただロボットのように黙々と作業をして
小学校6年生だった私のとある放課後。 クラスで仲の良かった松井さんのお家に遊びに行くことになった。 松井さんの家はご両親が共働きで、とても立派できれいな一軒家だった。 キッチンもテレビの中でしか見たことがないようなシステムキッチン。 日頃からお嬢様だとか噂があって、本当だったんだ…と驚くようなお家だったけれど、そんなことを感じさせない、気さくで明るい性格の松井さんが大好きだった。 笑うと顔をくしゃっとさせて、顔全体で笑うような女の子。 その日も楽しくおしゃべりしながら
私が子どものころ、母親の口癖は「お金がない」だった。 私の目の前でお財布をひっくり返し、お札と小銭をすべて数える。 そうして深くため息をついて、 「見て、これ。これしかお金がない。手当が入るまであと◯日もあるのに。」 と、まだ小学生だった私に現実を突きつけるのだった。 20数年前、母子家庭だった我が家には、本当に母の財布の中身が全財産だったようだ。母がサラ金で借金をしていて、自己破産というものをしていたことも、後になって知ることになる。 現在、皮肉にも同じく二人の子の
ここ何ヶ月も、毎晩母親か、元夫が夢に出る。 特別悪い夢でもいい夢でもないのだが、ほとんど毎晩夢の中に現れる。 昨晩の夢の内容は、私と母親でなぜかゲームセンターにいて、別行動をしている。 私は一人で好きなメダルゲームをしたり、子どもの好きそうなぬいぐるみを取ろうとウロウロする。 母親は少し離れたところにいて、時々何か会話をした気がするけれど、その内容は覚えていない。 ただそんな時間を過ごすだけの夢だった。 元夫が出てくる場合は、妙に仲良く過ごしているか、理不尽に怒られ
ちょっとだけ物悲しい朝。 なぜだろう。 ゆうべはひさしぶりに軽い睡眠導入薬を飲み、よく眠れたはずだった。 朝の冷たい匂い、ピンと張った澄んだ空気 ガスストーブのあったかい匂い 離婚してから1年半が経った。 あのとき、この季節 一晩中眠れずに、枯れない涙を不思議に思いながら ベッドから動けない毎日を送っていた ようやく動けた日は、勝手にこぼれる涙をおさえられないまま、家事や育児に立ち向かっていた あのときの私が出てこようとしているんだろうか もう大丈夫なのに。
あなたにとっての、いちばんの愛情表現はどんな形ですか?? スキンシップ、言葉で伝える、手紙で伝える… いろんな形があると思うし、伝える方法は多ければ多いほど良いような気もしてしまう。 私の場合はというと、もっぱら「料理を作ること」が愛情表現だ。 別れた夫にもいつもそう伝えて、ごはん作りだけは本当にがんばっていた。 (まぁ、彼の求めていたのはそれではなかったらしいが…これはまた別の話題。) こどもたちには特に言いはしないものの、どうやら気持ちは伝わってくれているらしい。
元ヤングケアラーとして、メディアや人前でお話しさせていただくことがある。 私はその度、「自分が元ヤングケアラーだったなんて言っていいのだろうか?」と考える。 精神的に不安定だった母。 私と弟の前で包丁を手首に当てたり、睡眠薬を大量に摂取して意識不明になったり、弟と大喧嘩して、弟の髪を掴み壁際に追いやり、暴言を吐きながら殴り合ったり…もちろん、私が相手になることもあった。 母がパニック発作を起こしたり、多重人格発現の状態で酒に酔って暴れたりした時には、私が救急車や警察を呼
この漠然とした不安や、自ら茨の道を探す行為はなんと名付ければ良いのだろうか。 前コミュニティから逃げ出し、2ヶ月ほどうつ状態で引きこもっていた春 「次は、自分が穏やかにいられて、自分の特技を活かして働くことができて、たくさん感謝される職場に巡り合うんだ」と毎日毎日願っていた。 やっと見つけた現在の勤め先は本当に至って穏やかで、みんないい人たちばかりだ。決して裕福に贅沢はできないが、生活も少し安定してきた。 毎日怒鳴られることもなく、自信を削がれるようなこともなく、 自
ある日 ヤングケアラーをなくすことができるのだろうか? 全ての解決などできるのだろうか? という質問に対して、元当事者として発信や参画させてもらっている立場として、公的に大きな場で初めて伝えることができた。 私の答えはこうだ。 「全ての子どもや家庭それぞれによって、根本的に解決した状態というのは100人いれば100通りです。なので、これをすればヤングケアラー問題は解決です、というのは無いです。ただ、日々のしんどさや困りごとを解消することはできると思います。」 解決で
支配する人、される人 世の中にはこのふた通りのタイプの人がいると思う。 私はきっと支配される側、だ。そして、人に依存しやすい。依存しやすいから、支配されるし、支配されるから依存してしまう。悪循環にハマりながら生きてきたな、と思う。 母親には逆らえず、機嫌をとり、どうしたら機嫌を損ねないか、日々伺っていた。 これをすれば喜ぶというのがわかれば、必死になってそれを続けた。 家庭内には問題が絶えなかったのだが、唯一私が学校で何か成績を残したり褒められたりするときは明るい話題
「母子家庭や、精神疾患など家族の問題は遺伝するっていうからねぇ…」と陰口を言われたことがある。 非常に憤りを感じたし、惨めな思いをした。 しかし、母と同じく母子家庭になると決めた時、私は私のような思いを絶対に子ども達にはさせない!と強く決意した。 私には頼れる実家もなく、親戚とのかかわりもない。もちろん、その決意が折れそうで不安になる時も多々ある。唯一父とは、ようやく仲良くしているが、日常的に頼れるかといえばそうではない。 経済的な心配や、これからどう生活を豊かにして
「臨機応変!その言葉だいっきらい!!」 よく母がそう口にしていた。 先の記事で話した栄養士が、常日頃、職場でそう捲し立てていたらしい。 今となっては、母に原因があったのか、本当にその栄養士が理不尽な人だったのか確かめようがないが、毎日夕方から酒を煽り、くわえタバコで職場の愚痴を怒鳴り散らす母の姿とその聞き役というのは、小学校4.5年生の私にはとても辛い日々だった。 ちょうど同じ頃だと思う。 ふたつ下の弟が、よく近所で物を壊してきたり、人様のものを盗んだり、喧嘩をした
子どもの頃は母子家庭で、精神疾患を持つ母親と発達障害のある弟と暮らしてきた。 今で言えば立派なネグレクト、家庭内暴力の絶えない日々。 夕方学校から帰れば母はすでに酔っていて、テーブルには日本酒のパックと吸い殻でいっぱいの灰皿。 カーテンは締め切られ、電気もつけず、薄暗い中、小さな声で「おかえり…」と呟く母の姿は今でも目に焼き付いている。 あまりにも暗い記憶で、今でもこどもたちが朝私より先に起きたときなど、カーテンを閉め切っているとつい、開けなさい!と怒ってしまうぐらい