不死と宗教
『死の終わり』を読んだ。現在様々な方面から老いを病気として捉え、老いを治療しようとする試みが続けられている。老いが病気であるならば風邪薬を飲むようにして治療すべきだし、老いずに生きていけるならとても良い。
おもしろい本なのだが自説に都合の良い仮説・研究ばかりチェリーピッキングして(特に人体の冷凍保存を肯定する部分とかほんとにひどい)、ひどい論理で自説を正当化し、ひたすら同じことを繰り返す本でそこまでおすすめでもない(そこまでけなしてほんとにおもしろいのかという感じではあるが)。
視点としておもしろいのは老化を治療することでこれから少子高齢化社会に向かうにあたっての保健医療介護などの費用をかなり削減できるはずなのだから、先んじて老いの治療に研究を投じてこれから20〜30年以内に老化を完全に治療可能な病にしてしまえばよい、その場合いくらが社会保障費などから削減できるか──としていろいろな試算を紹介しているところにある。それはたしかにそうだと思うが、あまりに自説(老化は治療できるし、人間が老いなくなった社会は素晴らしい)を盲信している点がきつい。
僕も老いが治療できるようになって多くの人の健康寿命が延びるのは良いことだとは思うが、それが社会にとって良いことかどうかは未知数だろう。容易に権力者が権力を握り続け社会の流動性がなくなる未来が見える。だが、そうした反論に対して、死を恐怖するがあまりに「死は仕方がないものだ」と受け入れざるを得ない価値観に凝り固まった人間の防御反応なのだと著者らは一蹴する。さすがにそんなわけないだろといわざるをえない。
で、思うんだけどこういう「老いは治療できる」とか「不老不死」って太古の時代から権力者は誰もが追い求めてきた夢だけど、かなり宗教的な側面があるんだよね。よくいう人体を改造して長寿を実現しようとするトランスヒューマニストとか、シンギュラリティ論者とか、実際には論の技術的な詳細には興味がなくて、結局は「なんとかして自分が生きている間に不死が実現して、死にたくない」から盲目的に信じている人が多いのではないか。
ただ、老い自体が本当に治療できるようになる可能性も僕はあると思っている。近年、ロシア宇宙主義がにわかに盛り上がったりしているのも、宇宙開発と不死と最先端テクノロジー業界が接続されつつあり、その思想的な流れの中に位置づけられる側面があるからではないか。「不死」あるいは「老いの治療」という概念は実は宇宙開発の発展とは切り離せない存在で、なぜなら宇宙に人間が進出し長期間暮らすようになると宇宙放射線による被爆の問題が避けては通れなくなるからだ。宇宙で長期間過ごす人間、その社会を想像すると、なんでも治療できるようになった高度医療社会かあるいはそもそも人体が改造されるのが前提となった社会が浮かび上がってくる。
だから初期の頃にスペースコロニー構想を抱いたJ・D・バナールは『宇宙・肉体・悪魔』の中で、人間が宇宙に進出した時、その時人間の体は今のままではいられないだろうと書いたのだ。
いつかは人間が不死に到達できる日もくるのだろう。
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