毒親というタグをつけられないこと、
毎日書こうと心に決めて始めたのに一週間も出来ませんでした、芙蓉です。
真冬に水風呂に入れば風邪もひくってものですね。当たり前のことなのでお他所の方はしないと思いますがお気を付けて。お湯って偉大だなあ。
さて、今日の吐き出したいこと。
noteを公開する時に、タグ付けをしようとタグ検索をして気が付いたことを吐き出したいと思います。タイトルの通りです、何度も打っては消し、、打っては消して、結局付けずに公開。
「毒親」というタグを選べないで居ます。
ネットで毒親という言葉を調べると、精神的にも肉体的にも、色々な形で親に傷付けられ、いまも呪いに苦しみながら戦ったり休んだりする方たちの発信してくださった言葉がたくさん読めます。
わたしがその言葉たちを見ていちばんに感じたのは、あたたかい意味では無い「安心」でした。
単純明快に、「良かった、わたしだけじゃない」と涙が出たのを覚えています。
親と子どもだからって、無条件で愛し合えるのが当たり前じゃ無いのはわたしだけじゃないんだ。親子でも人間としての相性が悪くて、うまくいかないことは沢山あるんだ。親に殴られたり酷いことを言われたりして育った人が他にもいるんだ、そしてそれを抱えて何とかどうにか生きていけるんだ!!
けれど、そんな安心と同時に、ふと見かけた「親を恨んでも良い」「親が死んでようやくホッとした」という言葉に違和感も覚えました。
なんて言えばこの違和感を、わたしの心の通りに言葉にできるのか分からないのですが、ふつうの家庭を羨ましいと思うことはあっても、だから両親を恨んでいるかと言われると、それは違う気がするな、と感じるのです。
そりゃあ殴られたくないですし、酷い言葉も掛けられたくないですし、監視されるのも人形の様に生きるのも、あげたらキリが無いですが、とにかく親にされてきた辛いことは全部ぜーーんぶ、嫌です。
無くなるのなら記憶からも過去からも無くなって欲しいですし、選べるのならそれらの無い人生と生活を迷わず選びます。
でも、じゃあ親を恨んでいるか、と言われたら
答えは否です。
痛いことも悲しいこともしんどいことも辛いことも嫌で、人間として生きてゆきたくて、このままでは遅かれ早かれ耐えられず死にたくなんて無いのに、生きていたいのに、ただ「楽になりたくて」死ぬ、そんな自分がこの先に居るんだと、気が付いてしまったので、わたしは夜逃げをしました。
でも、わたしがもう少し頑丈に出来ていて、我慢できるのであれば逃げ出さなかったとも、思います。
実際、わたしは両親には愛してもらって居ると今でも疑わずに答えられます。
ちょっと愛し方に問題しかなかっただけで、ふたりは今でもわたしを愛してくれていて、わたしがしあわせで、健やかで居ることを願っています。
前のnoteに書いた様な側面があるのと同時に、一貫校の私立に通わせてくれて、学校行事は両親共に欠かさず出席してくれました。お金に困ったこともありませんし、払ってくれたお金の話をされたこともありません。お稽古ごともさせて貰いましたし、入院すれば毎日お見舞いに来てくれました。抱き締めて、手を繋いで、芙蓉は可愛い大好きよ、と育ててくれた側面があるのも事実です。
そもそも、わたしは完璧な子どもではありません。人として未熟な箇所も多く、甘えたで、神経質で、ワガママで、口ばかりが達者で。親から見れば「育て難い子ども」だったろうと思います。
父も母も、父と母である前に人間で、神さまでは無いのだから、体調や機嫌などの色々な事に自分自身が振り回されて当たり前。親だから、なんて理由だけで相性の悪い人間を無償で愛し、24時間年中無休で聖人の様に振る舞うことは出来ないでしょう。わたしはできません。できないことを「親だから」なんて理由で求めて良いの…?
辛い思いをして稼いだお金、しんどい思いをして作る食事。父も母も時間や労力をわたしなんかに費やし、そして消費されることを、どう思っていただろうと考えると苦しくなります。
あ。勿論、逆に親だからという理由で理不尽に子どもを害して良い訳はないのですけれども。親子云々の前に、人間として他者を理不尽に害するのはいけませんから。
わたしは結局のところ両親が好きで、2人には健やかでしあわせに暮らして欲しくて、両親の望む形で生きていくことを「辛い」と感じる人間に育ってしまった自分の事を親不孝者だと苛む罪悪感から逃れる事は無いのだろうと思っています。
恨んでない。両親が亡くなったら悲しい。
このまま和解できずにお別れがきてしまう事を考えると怖くて悲しくて苦しい。何とかして和解ができたら良いのに、その「何とか」は起きないのが余計に苦しい。
恨むことも嫌うこともできないで居るのは、結局のところ両親に悪いところなんてなくて、わたし自身の問題で、世の中の毒親に苦しむ方たちと比べたらぜーんぜん大したこと無いからなのでは、それなのに逃げたなんて大袈裟なのでは、と、寧ろ自分の感覚を疑って涙の出る日があります。今です。
酷いことをされた、言われた、でも、嫌いじゃ無いし、好きだし好かれたい、という感情が同居していて、この感情の置き場も、咀嚼も、消化も、できそうにありません。
愛しているし、愛されているのに、
2020,02,09
ふゆ
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