父親のこと、

こんばんは、今日書けば少なくとも「三日坊主」でやめてませんよ、って胸が張れることに気が付きました。ちょっぴりうれしい芙蓉です。

お昼頃にガスが止まりました。また払い忘れです。いい加減引き落としにするべきだと分かっているのに手続きが億劫で…そしてお手紙をすぐ開けないから…何度目だろうこの水オンリー生活。真冬にお湯が出なくなるのは辛いですね。(自業自得)

さて、今日は逃げる原因のひとつ。
わたしのとんでも父親のお話。


えーっと。先ずはわたし、芙蓉の生い立ちから。
※ここから暫くワザとちょっと腹の立つ書き方をします、申し訳ないです。

両親と父方の祖父母と兄と犬と、都内の一軒家に生まれ育ちました。超絶お金持ち!とか、超由緒あるお家!とかではありませんが、お金に困ったりはしませんでしたし、祖母の体調が良ければ年に一度は家族旅行なんかもして、月に1〜2回はすぐ近くに住んで居る母方の祖父母も招いてみんなで外食なんかもしていました。

わたしは幼稚園から大学院まである一貫の私立校に、兄も中学だったか高校だったから大学まである私立校に通い、父も母も兄もわたしも四大卒。
服もコスメも美容院代も携帯代も医療費も、全額親持ち。大学生の頃も楽しそうな事や恩師のお手伝い程度にしかバイト経験は無く、自分の着ているものの値段も、それが世間的に高いのか安いのかも知らない生活をしていました。

と、いうのが表向きです。

いえ、書いてあることは事実です、何一つ間違っていません。母のコスメや美容院代なんかも父のお給料から払われていましたし。父の教育方針で「女は知らなくて良い」という理由から、父の年収は今も知りません。兄は「男だから」知らされてました。いくら稼げば家族にこの生活をさせてやれるんだぞ、みたいな話を大学一年生の時にしたそうです。わたしにはありませんでした。

我が家は、父が絶対です。
本人も冗談でもなんでも無く「親は神だぞ、例え間違っていても親が言うならお前にとってはそれが正しいんだ」という人です。
そして、「娘」というものには父なりの型がありました。そばで暮らしてきた感覚から「好み」とはまた違う気がしますが「娘」という型です。

前髪はワンレンで、髪は肩より長く、奇抜な色のネイルは無し。メイクも甘めでアイラインはキツくなり過ぎないこと。服は世に言う女子アナ的な甘めのオフィスカジュアル。ディズニーランドなどに行く時はスニーカーも可ですが、それも白とかグレーとかで、可愛らしいデザインのもの。

実家のわたしの部屋も、ベットのフレームは白、本棚も白、壁紙は淡いピンクの花柄、きちんとしたドレッサー。カーテンも花柄です。
そうそう、本棚の一番取り出し易い高さの段に漫画を並べて居て、叱られたことがあります。お庭で焼き捨てられたのは辛かったなあ。

言葉遣いにも父なりの「型」があります。
わたしの言葉遣いは学校が厳しかったこともあって特別荒い方では無いのですが、父に向かって「ちょっと待って」と言うのは禁句です。
子供という立場で、親を待たせるに値する様な出来事なんて起こら無いのだから、待たせるとは何事だ、という理屈。ついつい言ってしまった事が原因で何度も殴られたものです。

こうして育てられてきたので、そもそも美容院もコスメも服も何もかも、わたしを父の好きな型にハマる様にメンテしてるだけ。自分の為にしていることだとは余り思いませんでした。
小さな頃にこんな服が好きだなあ、こんな髪型にしてみたいなあ、と思った記憶がある様な無い様な気がしなくも無いのですが、今のわたしには好きな髪型も、好きな服も、好きな色もありません。似合うものもわかりません。

分かるのは「これは父が好きそうだな」「これは父が許さないだろうな」「これは母が喜ぶ格好だな」「これは捨てられるな」です。

そう、大学二年生の頃に初めてバイトをして、自分のお金を持って、自分のお金なんだから好きなものを買って良いはず!と喜び勇んで服を買ったんです。それはもう物凄く悩んで、理解のある友だちと、うんと悩んで。

結果はダメでした。
「お母さまは好きじゃ無いな」とあしらわれ、お出かけの時にそれを着ると父は不機嫌です。
大学に行くときだけコソコソとコートの下に着て、衣替えの時に「今年そんなに着なかったから良いでしょう」と呆気なくポイ。

自我らしいものが芽生えてから、一応こんなんでも割と逆らってもみました。わたしは口が達者なので、父のご機嫌に左右されて物事の良し悪しが変わる事が納得できず、生意気にも問い質したり部屋に立て篭もってみたり。ですが、父は口も酷ければ手もあげる人です。いやあ、情けない、一発くらいは耐えられるのですが続くと黙らされて仕舞いました。わたしの意思や自立心が弱いのでしょう。

そもそも父は、「子どもなんて未熟な生き物に口で説明するだけ無駄」「どうせ理解できない」「悪い事をしたら痛い目に合うと関連付けで覚えさせた方が早い」という教育方針でしたから、物心ついた頃から、それはもうしょっちゅう引っ叩かれたものです。ちなみに、兄はもっとでした。

わたしが悪いのに、父の手が痛くなるのは可笑しいので、引っ叩くときは父が今履いていたスリッパで頬を引っ叩くのが8割。あとは勉強中に定規、食事の席で鍋敷などなど。
小学生の頃には顔に拳をくらって頬骨のところが全部真っ青になった事もあります。(これは一応学校でちょっと問題になりました)

死ね、殺されてこい、死んでこい、など、その辺の言葉はバリエーション豊かに大体言われた事があります。大学生になってからは「育て損ねた」と「恥ずかしくて会社で娘は死んだことにしてる」なんかも。

だめです、この手のお話幾らでも書けてしまいます。一記事が余りにも長い。
まだまだ、わたしの中では消化どころか咀嚼もできていないのに、書いてはいけなかったのかもしれません。ごめんなさい。

明日は母についてかな、明後日は家族について。
先に書いておきます、ばかだと笑ってください、わたしは両親のことを今もずっと好きなんです。

2020,02,04
芙蓉

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