母親のこと

ガス料金を払う為に身綺麗にして、外に出て、お金を下ろして、コンビニに行く、というハードルの高さと、真冬の水風呂を天秤に掛けた結果、水風呂をとりました。芙蓉です。

凍え死ぬかと思いました。(当たり前)

今日は母のことを。
父とは中学か高校の同級生で、二人とも大学卒業と同時、だったか社会人一年目の半ばくらいだったかの時に結婚。23才?24歳?の時には兄が産まれていた…感じ…だったと思います。ちょっと曖昧ですが、わたしは学校では「若いママね」と言われていましたし、ついでに言えば「若いおばあちゃまね」ともよく言われました。

母はとにかく真面目な人です。
物事に1から10まで番号が振られていたとしたら、10から遡ってやったり、5辺りから手を付けたりした方が明らかに手早く楽に且つ問題無く終わる様なことも人の2倍も3倍も時間を掛けて1、2、3…と順にやらないと「できない」タイプ。
でも馬鹿ではありませんでしたから、兄が生まれるまでは大きな会社の社長秘書を立派に勤め上げていたそうです。

新婚も関係無く、結婚と同時に父の両親と、父の弟と同居という、正直わたしは御免被りたい長男の嫁です。因みに母も男の居ない家庭の長女です。

わたしから見る母は、趣味らしい趣味がない、と言うより趣味もとい「自分の時間」を一切持てない人でした。(実際、時々何か始めるのですが母以外の家族のトラブルで辞めざるを得ない、の繰り返しだった様に思います)

自分の両親の面倒を見つつ、父方の両親の面倒も見て、兄とわたしを育て、お腹が空いただけで八つ当たりしまくる様な父の機嫌をとり、ついでに言えば(父の)弟の食事の支度や洗濯もするという、朝から晩まで家事と言うには多過ぎるタスクをこなしていました。(兄が生まれるまでの間はここに仕事も入ります)
わたしが小学生の時は更に殆ど強制である父母会にも参加し、私立ママたちの派閥争いなんかにも揉まれる始末です。

兄は小学校の低学年頃までは小児喘息が酷かったのですが、以降は、まーーーほんっっっとうに頑丈な子どもでした。よく死ななかったね…?という様なやんちゃを繰り返しても無傷!風邪もインフルエンザも無し!唯一の病は盲腸!みたいな。
ジムに通うでも無く片手間の筋トレで筋肉の付くゴリラです。いえ、本当に、冗談で無く、わたしを片腕で抱え上げ、ついでに逆の腕にお嫁ちゃんも抱き、背中に母も背負えます。こわ。

逆にわたしは小さく弱く産まれ、入退院を繰り返しました。両親の判断ミスにより発見が遅れ、胸に傷の残る大きな手術もしましたし、高校は内進だからと誤魔化し誤魔化し卒業させて貰いました。
兄妹で見た目も中身も全く似ていません。兄は超絶人懐っこくて友だちも知り合いも多く、子どもとお年寄りに大層モテるスポーツ万能な男。
対してわたしは超絶人見知りで友だちは狭く深く、虚弱病弱で趣味は読書の女です。
(※因みに兄妹仲はめちゃくちゃ良いです)

母はほんっっっとうに「こんなに個体差があるものなの!?」と発狂しそうな程違い過ぎる子どもを、ひとりで育てたといっても過言ではありません。お察しの通り父は子どもの面倒は見ませんから。二児の父ですが、おむつ替え経験、ミルク経験、お着替え経験、その他諸々、皆無です。自分で言ってました。娘はドン引きです。

そんな母は、異常に過保護な人です。

わたしが出かける時には必ず「いつ」「どこへ」「だれと」「何をするのか」を報告しなくてはいけません。まあ、これくらいは女の子の親ですから一般的でしょう。
最寄駅から家まで歩くのは、兄は良いですがわたしは駄目です。別に治安がめちゃくちゃに悪いなんて事もなく、歩いても10分くらいですし、普通の住宅街です。近所の子どもたちだって歩いてます。そもそも、すぐそこに小学校あるし……。

門限は「暗くなる前」で父母の感覚で「遅いな」と思ったらアウト。駅から家までの迎えの車の中で「遊んでいるのは芙蓉ちゃんだけなんだから、もっと気を使ってくれないと困る」というお説教は序の口も序の口。社会人になっても変わらず。

わたしが頼もうと頼まないと関係はありません。寧ろお説教がしんどいので「歩くから迎えに来なくて大丈夫だよ」なんて言おうものなら「ここまでこんなに大事に育ててきたのに、この一回に何かあったらどうするの。ママに悲しい思いをさせるってなんで分からないの」という涙の訴えが追加されます。親に泣かれて辛くない子どもなんて居ません。少なくともわたしは無理です。

けど、こんなに、こんっなに過保護なのに
父には逆らわず、兄のこともわたしのことも助けてはくれませんでした。

初任給の報告、定期的な通帳や貯金の確認、クローゼットのお洋服鑑定、冷蔵庫チェック、なんならたまたま同じ友人と出かける予定が重なって毎週遊んでた時なんて「本当に〇〇ちゃんと居るの?嘘じゃないなら今すぐ〇〇ちゃんの写真を送りなさい」なーーーんて事まで言い出すというのに、父がわたしの頬をスリッパで引っ叩くのも、真冬にベランダに放り出すのも、わたしの本を庭で焼くのも、止めてくれた事はありません。

それどころか大学生になると引っ叩かれた娘にハンカチでくるんだアイスノンを渡しながら「芙蓉ちゃんはもうお姉さんなんだから、もっと上手にパパのご機嫌とって、上手くやって欲しいな」です。

父は母には手を挙げませんでしたから。
それどころか母がヒステリックになった時なんかは、おもむろにやってきて、事情も聞かず、母を宥めることもなく、兄やわたしにゴツンと一発入れて「いいから言うことをきけ」「母さんを困らせるな」「うるさい」といって黙らせにきてくれる男です。「そりゃあお母さまは殴られないから言えるよね」という言葉を何度となく飲み込んだのを、ようく覚えています。


趣味も自由時間もなく、家事を手伝うのはわたしだけで、友人たちにすら数ヶ月に一度しか会わない母には「家族」しか居場所や依存先が存在しなかったのだと、離れた今は思います。
発散どころか息抜きも、休憩も、開放も無く、真面目な人なので手抜きもできなければ妥協もできない。の、かな。と。

だからと言って、わたしはこの機能不全家族の生贄にはなれなかったし、なりたくなかったのですけれど。

2020,02,05
芙蓉

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