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日本人は無宗教か

 日本人は無宗教である、ないしは無宗教が多い、という言説はネットだと良く見かけるテーマで、今回はそのことについて、ミルチャ・エリアーデ先生の『聖と俗』を捲りながらつらつら書いていこうと思います。

二通りの在り方一つ目 聖なる空間


 エリアーデ先生によれば、「宗教的人間にとって空間は均質ではない」。それは例えば各宗教にそれぞれ聖地だとか世界の中心だとか呼ばれるような特別な空間が設定されており、それ以外と厳密に区別されます。そしてそうした聖地を設けることで初めて人間は自身の生と世界を定義づけすることができます。つまりは、「世界の中で生きることができるためには、世界を創建せねばならぬ」。世界の中心を定めるとは世界の創造すること、そしてそれによって人間が自身の暮らす世界を彼らなりの方法で認識で切るようになるのです。

二通りの在り方二つ目 聖なる時間


 先生曰く「空間と同様に、宗教的人間にとっては時間も均質恒常ではない。一方には聖なる時の期間、祭りの時があり、他方には俗なる時、つまり宗教的な意味のない出来事が行わる通常の時間持続がある」。そして聖なる時間とは神話や聖なる出来事の再現であります。
大事なところを引用しますと、「宗教的人間にとって世界は年ごとに更新される。世界は新しい年が来るたびに原初の神聖性を取り戻す」のであります。

 身近な例で私なりに嚙み砕いてみようと思うのですが、まず一つ目の空間でいえば、神社やお寺の敷地をそれ以外の場所と区別する感覚があるかどうか、が例えとして適切でしょうか。鳥居で懸垂をした外国人観光客が批判されたことがありましたが、別に損壊したり通行の邪魔になったりした訳ではなさそうですし、何より別に自分の家でもない、公共の場所ですらないのに、「そういうことをすべきでないという」感覚が生まれるのは何故かを考えると理解しやすいような気がします。誰だか忘れましたが、自分は無宗教なので墓石を蹴飛ばせるという人がいましたけど、表現の是非はおいといても、まさにそういう感覚こそが宗教的なものなのだと思います。
 二つ目に関して一番簡単なものとして思いつくのは元旦のあいさつ、「あけましておめでとう」だと思います。ここで考えてもらいたいのは、何が「あけた」のか、そして何故「おめでたい」のか、既にエリアーデ先生の言葉を上で引いたとおり、世界が更新されたことを私たちは祝っているのであります。もし無宗教であれば元旦とて他の一日と何ら変わらない意味合いしかもたないはずで、別におめでたくもなんともない。これは冗談ですが、元旦から三が日までを国民の祝日にしてるのは、厳密にいえば政教分離に反する違憲な祝日なのかもしれません。

宗教統計調査から

 ここで一端数字的な部分を抑えておこうと思うのですが、文部科学省の宗教統計調査というものがありまして、令和5年度の「全国社寺教会等宗教団体・教師・信者数」をまとめた表を見てみますと、神社は約8万、お寺は約7万6千あるそうです。そして表では「教師」と表現されていますが、神社でいうところの神主・巫女さんが約6万6千人、お坊さんが33万人いるそうです。
 これだけでも日本人が無宗教だというのは相当に無理がある話ではないかと思いますが、私想像しますに、そう思う方々の考える宗教のイメージが相当に厳格かつ厳密なものなのかもしれません。
 要するに、自由な立場、考え方のもと、各宗派の理論を吟味し納得の上で当該宗派の門を自発的にたたき、「洗礼」のようなものを受けて入信する、そうでなければその人は何とか教徒とは言えない、そんな感じなのではないでしょうか。
 しばしば日本人は無宗教ではないと主張する人への反論として、「日本人がお寺や神社でやっていることはただの慣習・文化であって宗教ではない」がありますが、まさしく上記の仮定を裏付けているでしょう。
 なんというか、地縁・血縁と切り離された都市労働者の感覚という感じがしますが如何でしょうか。こんな感じの考えというか感覚を持っているんだと仮定した場合、仏教徒とは先に挙げたお坊さん(自らの意思で出家した人)だけを指しますし、神道もまた同様でしょう。
 ご存じのとおりお寺や神社の多くは、住職や神主が住みこみで管理している訳ではなく、普段は無人です。誰が管理しているのかと言えば、まあ業者に委託しているところもあるかもしれませんが、その寺社の檀家や氏子で管理していたりする訳です。
 例えば、私の近所のお寺にはお地蔵さんが数体並んでいるのですが、彼らのために近所のおばあさんが毛糸で帽子を編んで被せていました。別に業務委託を受けた訳でも、田舎の陰惨な圧力で仕方なくやった訳でもありません。私は単純にこれを信仰心の故だと思うのですが、どうでしょうか。
 いずれにせよ、私たちが主に神社仏閣について感じる空間的時間的に特別な感覚、普段の生活の空間や時間とは異なるものだという感覚、これを抱いているのであれば、エリアーデ先生に言わせれば宗教的人間だということのようです。私自身の感覚、経験から考えてもこれは妥当なような気もします。
 日本人が完全に無宗教だとは言えないにしても、ほとんどは無宗教で一部の熱心な人がやっているだけ、という意見も、統計調査で見る神社仏閣の数を見ればどうもあやしいと思います。もしそうなら、とっとと手じまいをして別のものに建て替えられているはずだからです。多くの人たちに何の意味もないのであれば、壊して別のことに利用した方が私たちの生活は便利になるはずです。街中の神社仏閣などもマンションや商業施設にしたほうがいいのに、それを言い出す政治家もいませんよね(強欲な不動産屋が内心思っているだけかもしれません)。歴史的な価値として、という側面もあるかもしれませんが、神社仏閣は必ずしも歴史的建造物ではありません。最近建て替えたばっかの神社仏閣なんかいくらでもあります。それでも壊して違うことに使おうという声は、私たちの間から余り上がってきません。であれば、結論は明らかなのではないでしょうか。