見ようとしていないえっちなものは見たくない

卒論の合間、いつものようにだらだらインスタグラムをみる。
何を見ようともないし、調べようとかもないし、何にも目的がないのにアプリを開いて更新される画面をだらだら見て、しているのは当の本人であることが本当に嫌気がさす。でもやめられない。報酬系の回路がそうなってしまっていると一口にいう以上にもっと私を悩ませるものがきっとある。
散歩にいく習慣を以前はしようと思っていたけれど、なんの気もなしに歩くということの苦痛さが耐えられなかった。
これは意味がないだとか、日頃から常に意味を求めている癖に、意味のないものを触っているという矛盾がとても気持ちが悪い。矛盾が私を私たらしめているとかはまだ恰好が良すぎるからいえない。
そう、スマホは基本的に意味がない。
意味がないのにいじってしまう。
この意味のなさが嫌いなのに触ってしまう。
心の底ではきっとスマホのない世界は独りぼっちの感がとんでもなくて、耐えられなくなって誰かを感じたいから見ているだけかもしれない。それには意味があるようだけど、まったくアクチュアルじゃない。ざんねんだ
夢であう昔の旧友とかと喋っても朝起きたら、ベッドでさっきまで寝ていた私という存在しかそこにはなくて寂しいように、たぶん私のなかに私以外の誰かを発生させてあたかも一人じゃないような感を保っているというだけで、食べられない味のしない食パンを引き出しの隅にしまい込んで、黒板の数字が大きくなって学校が終わりになって私物を片付けているときにぽろっと落ちる変色した食パンだったもののように、時間の経過とともに陰湿になっていくなにかが怖い。
でも目先の孤独とおさらばしたくて、その用途を簡単にしてくれるスマホに手を伸ばす。システムに利用されている私という存在はハチの巣の幼虫のように、無機質な病院のワンルームの病人のように、その状態がつまらないと思っていながらその空間の密室感に居心地の良さを感じて、自分の吐き出した二酸化炭素で瀰漫したなかを生ぬるい私との境界が曖昧になっていくような気がする。

なんか今はバランスが悪い
食事のバランス、性のバランス、パワーのバランス、太陽のバランス、愛のバランス
もうぜんぶがおかしくなっているのに、バランスが悪いけれども動いてしまっているのがいけない
気にしすぎは絶対ある
思い込みが激しいから変に考えているだけなのかもしれない
でも、えっちなもののバランスは確実に崩れている
みたくないえっちなものというか、えっちなものをみようとして初めてえっちなものを見たいと思うからえっちなものはえっちなものとして私の中に還元されていくはずなのに、今は見ようともしなくても日常の隙間をベタベタした液体がタイルの間を流れていくようにそれはどうしようもないことのようにやってくるのはスマホのよくないところで、
コンビニとか道端をよく探せばあったエロ本のエロは私の求めるえっちだったし、そうやって主体をもってえっちに挑むということがひいては生物としての私にとって精神衛生上いいと思う
そういうものを見るとあっとなってしまう、このあっ、2文字の情報量ではない処理が本当に疲れるというか、余計な戦闘体制に入ってしまうからやめたい

大人になるということと一口に形容してまで言うことではないが、もうすぐ社会人という社会的属性を帯びることになるわけで、年齢的にも言えば大人になっている最中であることは間違いなくて、最近よく見る夢を思い出して思うのが、むかしはもっと、物事すべての境界があいまいで、それでよかったきがして、それは当時点でおいてもそうだし、そこから伸びる将来的時点からもそうで、そうであれば、如何様にも変容できるし、言い換えれば何にも決定されていないということで、
モラトリアムがおわると、そうはいかなくなって、一つ一つの結果の集積がある一つの線として、そのうえでしか時間をすごすことができないような気を感じる
感じるというか、なんかそうなってしまいそうで、たぶんそうで、
責任とかそういう話じゃなくて、小さな卵からやわらかい皮膚の幼虫になって、水気のない固体のさなぎになっていつかきれいな模様の描かれた羽を開いて甘い蜜を求めて、やがて求愛されて、またはそうして、生涯を終えるというのが、ある蝶の一つの生き方であるが、その過程を踏むということが、結局約束されたある一つの事実の集積であって、そうなるとひどくつまらないデパートで売られている既製品のような感じがしてならない
どういう過程を経ても、結局はそうやって還元されていくけれども、なんというかこの地点における見え方をうまくその地点における要素との均衡がうまく取れないと、その先もその以前の延長をだらだらと進んでいきそうなきがするし、どうやらそういう感じがある


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