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あえてそれを社会性と言おう
人間の本質を考える事は内向的な性質をひどく帯びていて得てして結果の方もそうなっていくのであって、そもそも考えるという事をあえて限定するとするなら、いままでで得てきたあらゆる経験から導かれるものまでの過程とすると、それは寝てみる夢のような性質を持っていてつまり内向的であって、
ここである考えに寄りかかってみる
対象の要らない広野に出ていくことは内向的かという問いに対して、これはリルケのポルトガル文の女が、ひどく駄目な男に対してそれでも愛していくうちに彼女は気づいた時には対象の要らない広野へと走り出したとしてこれを愛の究極みたいなことを言っていて、
隣人愛も誰でも構わず愛してしまうという点では共通しているところがあって、
対象の要らない感情はとっても内向的な気がする
最近、高校の知り合いと会うことがあった
定期的に会う知り合い達だけれど、あいも変わらず自分の社会性について話していて、
肩書きについてばかり喋って自分のことはあんまり話さないというスタンスの嫌いなところの根本にあるのはつまらないからで、そのつまらなさにはその性質が対象の必要のないことだからで目の前の人という感じがしないからで、でもそれだけじゃなくて、そうやって自信のあること、成し遂げてきたことが自分にはないからでそうしたことからくるものもきっとあって、いいや必ずあるのであって、
文章を書くことも絵を描くことも結果が出なければ全く意味がなくて、
そう思うのはそれら行為に対して他者の評価を必要としているからで、でもそれは社会性の観点からは正しいことで、そういうことがくだらないと思って絵を描くことも文章を書くこともできなくなった、できなくなったんじゃなくてよりはっきりしたってだけで、
どれだけ価値について、数字や他人の評価を気にしないで自分が思う価値こそが本物の価値であるということは正しいと思う
でも正しいということはそれだけでは正しくないように思えてしまう
誰かと関わった途端に、物事に対して誰かという要素が加わった途端に、価値は相対化せざるを得なくて、これは絶対的で、逃れようがなくて、
音楽を聴くことは個人的だから、好きな曲を好きに聴くことができる
これが誰かと聞くとなると忖度が発生してしまうし歪みが生まれてそうでない時とは違う聞き方になるように、
個人的で自分の輪郭を超えないような事柄に対しては、社会性は全く必要なくて、価値も自分の思う規定された価値こそが全てでいられるけれど、自分の輪郭が大きくないときっとその空間は狭くて、耐えられなってはみ出た途端に社会性と嫌でも触れることになって厄介なことが増えていく、同時に誰かと関わる面白さもあって、だから一概に社会性の嫌悪について言いたいんじゃなくて、
自分の想定する価値とか生き方に通ずる軸を持とうとすると社会性と折り合いをつけなければいけなくて、それはまだ何も産まないこの掌の小ささ故であって、
自分の輪郭、その掌に収まるような社会性とは触れ得ない範囲では何もできなくて、何もしていないし、悩んでいても何も変わらない
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尻すぼみになっていく結論、その過程の質量の無さ、ずさんな進行はほんとにいつもくだらなくていやになる