吉田拓郎が最後の詞をKinKi Kidsに託した意味
吉田拓郎が、最後の詞を託す先にKinKi Kidsを選んだことは、本当に意味が大きい。
吉田拓郎を含めて、4人の大物フォーク歌手が1975年に大手レコード会社との関係を切って、フォーライフ・レコードを建てた。
そして、「LOVE LOVE」が始まったころの90年代後半からフォーライフは経営が傾き始めて、「 LOVE LOVE」が放送終了になったところで倒産した。
フォークの激動期から始まったフォーライフは、「極めて『プロデューサー』主義の組織的J-POP」たるビーイング、エイベックスの参入と、原田真二をはじめとして、フォーライフが手塩をかけて育てていたアーティストを他社からの略奪に遭いながらも、フォークをJ-POPに仕上げきった2001年に潰れた。
日本の音楽史で『音楽プロデューサー』の概念を作ったのはフォーライフ、、というよりも、まさに吉田拓郎だったのだけど、その吉田拓郎を含めたフォーライフは、後発の『音楽プロデューサー』から直球で真っ先にシバき倒された。
その傍らで、フォーライフが潰れそうな時期から「 LOVE LOVE」を通して、ギターの弦の抑え方すら知らないKinKi Kidsにギターを教え始めた。
そして、フォーライフが潰れたときには、すでにKinKi Kidsは作曲をできるようになったし、歌詞も書けるようになって、『ひとりのプロ』として売ることができる歌を作れるようになった。
"アイドル"が『アーティスト』として活躍できるのだと、『プロデューサー』として育てて実現させた上で、ジャニーズを含めて業界他社に対して「"アイドル"の『アーティスト』化」を導いたのは、外でもなく吉田拓郎だった。
拓郎は、フォーク音楽をJ-POPにしたし、定着したJ-POPのなかで生まれた"アイドル"を『アーティスト』にするという、2つの業界常識をひっくり返す地殻変動を起こした。
このことの終着点が、最後の「LOVE LOVE」の夜だったのかもしれない。
ダメだ。
今夜は酒を飲まないとやっていられない。
拓郎、
Sayonara あいしてる。
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