友達が1人もいません。
友達って何なんでしょうか。
他人に
「友達はいるの?」だとか「友達は多い方?」
こんなことを聞かれると答えられない。
答えるには答えるんだ。
「あまり多い方ではない」とか。
でも、なんとなく納得しない。
友達の多少ではなくて、「友達」という概念に対して。
それをすっきりさせるために書こうと思ったんだ。
答えから先に書こうと思う。
私に友達は一人もいない。
そして私は、友達というものを嫌悪する。
・・・
自分の中で友達の定義がまだ決まっていないんだ。
人は友達というものに対してどんな定義づけをしているんだろうか。
良ければ教えてほしい。
人によって変わるだろう。
自分と価値観が似てる人だとか、
もっと単純に、一緒にいると楽しい人だとか。
ある人たちの「友達とは」という問いに対しての回答である。
・「互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人」
・「何年ぶりかに会っても、昨日も会ってても、その距離が変わらない存在」
・「遊びに行ったとき、「あいつもくればよかったのにな」と思い出す人」
これらが言いたいのは友達というのは対等なものであって、心を許しあったりするものだそうで。
少し意地悪な質問をすると、それ以外は「友達」ではないのだろうか。
お互いに心を許しあって対等でないと友達とは言えないのだろうか。
数年ぶりにあって距離が変わってしまっていたらそれは友達ではなかったのだろうか。
遊びに行ったとき、その人のことを思い出さないと友達ではないのだろうか。
この回答者たちはおそらく「う~ん」となるだろう。
またある人は、
「一緒にいて楽しいのが普通の友達。一緒にいるとお互いを高めあえるのが良い友達。一緒にいると足を引っ張るのが悪い友達」
この人の中では友達に階級をつけるものらしい。
友達というものに対して評価をする。これはどこか心の中でどの友達(人間)に対しても見下している意識がないとできないことじゃないだろうか。
それのどこが対等なのだろうか。
でもこの人の中ではそれを友達と呼ぶらしい。とても良い意見だねー。
友達という定義の輪郭がぼやけてきたね。
みんなが言ってることも理解できないわけじゃないんだ。
納得できないだけで。
恐らく友達っていうのはものすごく大きい括りだと思うんだ。
自分にとって安心できる人や楽しい人、有益な人だとか、関わっている人を分類するときにとても便利で楽な大きいカテゴリー。
私はこれに嫌悪感を抱いたんだ。
そのカテゴリーは一人の人間を、友達という別のものにしてしまうような
怖さがあって。
それは一見、友情や友愛なんかの言葉で立派に見せてるだけの軽薄な人間関係のように思えてしまって。
私は、私と関わり、対等であってもなくても、心を許していてもいなくても、何らかの影響を与えてくれて、人生を豊かにしてくれた人間のことを、
友達という楽なカテゴライズをして、友達というフィルターを通して関わりたくはない。
最初に友達の定義が決められない話をしたね。
ほんとうは、決めたくないんだ。決められないんだ。
人間や人間関係という誰一人として同じゃないものに。
私は、私の人生を豊かにしてくれた人を、そのままの人間として接したい。それは確かに大変で、面倒なことだろうけども、
でも、それが正しい人間関係な気がして。
私に友達は一人もいない。
そして私は、友達というものを嫌悪する。
だが、私は多くの人間に恵まれてるんだ。
そして私は、人間というものを愛好する。なんてね。