親ガチャに失敗して劣悪な環境で育った中途半端に賢い人々の憂鬱、または東大文学部で人生の取り返しがつかなくなってしまう前に
阿部幸大氏の文章に触発されて
阿部幸大氏の書かれた上記の記事「『底辺校』出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」について最近考えているので、それをまとめて(つまり上記の記事に批判的検討を加えて)文章にしたいと思った。
ここでは両親が適切な教育投資をせず(つまり塾や私立中高一貫校などには通っておらず、あるいは形式的に塾通いをさせたとしてもそれが自らの学力に合ったものではなく塾という名の託児所のようなところにぶち込まれた)、劣悪な家庭環境で育ったが予備校などで点数の底上げをしなくてもそれなりに簡単に東大の文系科類に合格できる程度の人々を「中途半端に賢い」と定義する。2000年代以降は少子化により名門大学といえど入試難易度は団塊の世代が受験生だった頃と比べて低下していると言われることが多いが、筆者の感覚としても無論それはその通りだと思う。東大の文系科類に合格するのは簡単と言えなくても難しくはない。とはいえほとんどの受験生は受からない。もしくは受けようともしない。そのような意味で教育投資なしで東大文系科類に合格するような人々は中途半端に賢い。そしてそのような中途半端に賢い人々が現代の日本で生きる中で味わうことの多いであろう苦痛や生きづらさ、そして(完全ではないにせよ)それの解消方法の提案について書いていきたいと思う。
もし中途半端ではなく本当に賢いのであれば(そこには我々の想像できない苦しみがあるにせよ)その知的能力を活かしてある程度社会の中で自分の人生を、自らの望む方向に統御することができるだろう。具体的な基準を示せば、教育投資なしで東大理系科類に受かるような人々を本当に賢い人々と呼ぶことができる。彼らのように本当に賢い人々であれば学費のかからない海外の大学院で研究をして博士号を取得することで知的エリートとして社会的に活躍したり、また社会的に需要のあるプログラミング技術を身につけて安定した収入を期待することもできる。もちろん文系エンジニアという広く使われている言葉もある通り、文系でもプログラミング技術を身につけてSWEとして活躍している人々は存在する。しかし文系の何割が本当にSWEとして通用するだけの技術を身につけられるだろうか。文系のプログラミングの挫折率は9割とも言われるし、この数字はおそらくそれなりに正当性がある。東大理系でも(特に生物学よりの専攻で)プログラミングに挫折する人々も中にはいるだろうけれど、文系に比べればその率が低いであろうことは想像できる。
文系はとにかく社会的需要がない。そのことが表面化して多くの人々に衝撃を与えた出来事の一つとして日本仏教研究者だった西村玲氏の自死がある。
DFWと自殺
リベラルアーツという罪、錬金術と化学
海外の日本人経済学者(安田)、アメリカで英文学を教えている日本人、Yiyun Li、成田、時枝、Wittenという例外、胡散臭さ、大内兵衛賞、ねじまき鳥クロニクルの綿谷昇
日本の閉塞感、そこからの脱出
毒親について
来るべき中途半端に賢い人々に向けて
もしあなたが中途半端に賢く、まだ大学に入っていないが将来的に東大文学部に進学しようと考えているのであれば再考することを勧める。あなたの家には古典文学全集や古典音楽の録音だとかいった文化資本があったかもしれないしなかったかもしれない。文化資本が家になかったにせよ、公共図書館などであなたはそれを探し出したのかもしれない。そしてそれは宝探しのように感じられたのかもしれない。
中途半端に賢い人々が芸術に憧憬を抱く気持ちは痛いほど理解できる。しかしそれはやはり一種の現実逃避だと言わざるを得ない。本を読むことや音楽を聴くことはあまりにも容易い。そして数学や物理やCSは一人で勉強することが極めて困難だ。それでもあなたはきちんと理系の勉強をして、東大でなくていいからどこかの医学部か工学部に行くべきだと言いたい。
あなたは萩原朔太郎のこんな言葉を読んだことがあるかもしれない。
この言葉は完全に正しい。芸術に興味を持っている時点であなたは病んでいる。そしてあなたはその病から回復してまっとうな社会生活を送らなければならない。全ての本を燃やせ。そう言ってもいい。芸術というものは明らかに不健全なゲームだ。どうすれば勝ちなのかさえわからない。勝ちの定義さえないゲームなんてゲームとさえ呼べない。そんなものに本当に人生をかけて参加すべきだろうか。ある人々は定義づけできない曖昧さを豊かさと呼ぶだろう。しかし当然だが、全ての曖昧さがすなわち豊かさなわけではない。それについてじっくりと考えてほしい。芸術が豊穣なものだという人口に膾炙した考えが幻想なのかもしれない。
あなたが医学部や工学部で勉強に忙殺されるうちに芸術への憧憬は消えていくかもしれない。そうすれば医師や技術者としてまっとうに社会で活躍すればいい。もし医学部や工学部を卒業した後も芸術への憧憬が忘れられないのであればその時に初めて最初の一行を書き始めればいい。それからでも遅くない。
東大文学部に行くことで取り返しのつかないことになる前に。
(とりあえず公開するが、後で追加と編集をする。)