大江健三郎の思い出

思い出とはいっても実際に大江さんにあったことがあるわけでもなければ全著作を読んだというわけでもない。ただ亡くなってから読んでいなかった何冊かの本を買って読んでみた。追悼という意図もなく大江作品を読もうと思ったのと逝去がたまたま重なったというべきだろう。
初めて読んだのは他の多くの人々と同じように『個人的な体験』で、ドナルド・キーンがこれを「特別な小説」と呼んだように、今まで読んだ本とは全く違うという印象を受けた。この作品がなぜ他と違うのかについてはその後それなりの時間をかけて考えることになったが、やはりそれは卓越した比喩によるものとしか言いようがない。
日本において比喩のうまい作家としては安部と村上がよく挙がる。大江も安倍のことは天才と呼んでいた。それもあって、ある時までは安倍は天才なのだと思い込んでいた。そのある時というのは丸谷さんが『文学全集を立ちあげる』という対談集の中で、もし日本文学全集を編纂するならという前提のもとで安倍作品を入れる必要がないと断言したのを読んだ時のことだ。そして対談相手の鹿島さんや三浦さんも同意していた。今考えれば馬鹿馬鹿しいが、当時の率直な感想としては「文系の連中が東大医学部卒かつノーベル賞候補だった天才作家に嫉妬しているだけじゃないか」というものだった。今なら丸谷さんの発言も理解できる。東大医学部もノーベル賞候補も、さらにいえばコロンビア大の名誉博士号も別に作品の価値を保証するものではない。こんな当然のことに気づくのにかなり遠回りをした。安倍は天才作家でもなんでもないし、比喩も大して上手くない。本当に比喩がうまいの大江であると言わざるを得ない。
もしこれを疑う人がいるなら『個人的な体験』の夏の気温を巨人の体温に喩えた文章を読んでみてほしい。少なくともこれほど鮮やかな比喩はほかに読んだことがない。
村上さんはことあるごとに比喩はチャンドラーから学んだということを言っていて、多くの読者はそれを信じているように思える。少なくともそれを疑う文章を目にしたことがない。しかしそれは本当だろうか。村上さんの鮮やかな比喩、特に動物を使った比喩は大江さんに学んだものではないだろうか。少なくとも動物を使ったチャンドラーの比喩を読んだ記憶がない。おそらく大江さんは渡辺一夫訳のガスカールの作品から学んで動物を使った比喩を編み出した。巨人というのもその延長にあると言っていいだろう。

また大江作品の英訳について、Gioと名乗るある人物が興味深い指摘をしている。(おそらく彼は文学者などではなく一般読者だろう。)この指摘がなければ大江やゼーバルトの作品を読み返すこともなかったかもしれない。恥辱、拒絶、記憶というのは自分にとっても大切なテーマである。

The two most powerful writers about the traumas of WW2, in my reading experience, are the German W.G. Sebald and the Japanese Ooe Kenzaburo. Both men were children during the actual fighting, and both write about the shame and denial they observed in the adult communities in which they grew up. Both are obsessed with memory, with the loss and recovery of memory, but their literary modes could hardly be more different.

いつか四国の森を訪れる日が来るのだろうか。

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