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日本語と韓国語と......ハイチ語

日本語の起源は昔から盛んに議論されている話題の一つです。そして最近は、モンゴル語、ツングース語、韓国語等と共にトランスユーラシア語族(アルタイ語族の新しい分類)を形成すると言う見方が優勢のように思います。ただ、当人の一番の疑問は、日本語と韓国語は文法がかなり似ているのに、どうして基本語彙と発音がこんなにも違うのかという点です。

それで、少しだけ調べてみたのですが、一つ面白い考え方に出会いました。日本語とハイチ語(より厳密にはハイチ・クレオール語)の生い立ち(近縁関係ではなく)に関して類似性があるのではないか、というものです。

ご存知のようにハイチはフランスの元植民地で、フランスがアフリカ西部の人々を奴隷として連れて行った所であります。その後、ハイチ語はアフリカ西部の言葉の文法を維持しつつ、フランス語の単語を取り入れて生まれたそうです。全く違う二言語の単語と文法が交わった興味深い例です。

因みに、フランス語もアフリカ西部諸語も健在ですが、もし仮に、今、フランス語というものがこの世から無くなってしまっていたとしたらどうでしょうか? おそらく、ハイチ語は相当にミステリアスな言語と思われていることでしょう。

ここで、似通った過程を日本語の生い立ちについても考えてみたいと思います。つまり、韓国語等、トランスユーラシア語族と似通った文法を持った日系祖語が、何らかの言語と接触し、ハイチ語のように接触言語の単語を導入したとします。ところが、その接触言語が何らかの理由でこの世から消滅してしまったら? 今の日本語の不可思議な状況に合致するように思われるのですが。

そこで、もう少し詳しくこの可能性を検討してみます。最近の研究では、今から約9,000年前に中国東北部の西遼河流域で雑穀農耕文化が誕生したとい説があります。そして、その集団の言葉がトランスユーラシア語族の起源だと言うのです。その後、農地拡大のために朝鮮半島の北側方面に移動した一群が約6,500年前に、原韓系集団と、さらに朝鮮半島内部方面に進出した原日系集団に分岐したとみられています。

この、約6,500年前というのは、インド・ヨーロッパ諸語が分岐し始めた約5,500年前よりもさらに昔です。同じインド・ヨーロッパ語族に属する英語とヒンディー語の隔たりを考えれば、日本語と韓国語が全く違う言語になっていても不思議は無いと言えるでしょう。

さて、原日系人は、朝鮮半島で縄文人と接触することになります。雑穀農耕文化の原日系人と狩猟採集文化の縄文人とでは、前者が優勢だったはずです。その結果、原日系人は縄文文化と言語を吸収した時点で、それ自体の文化と言語に大きな変化はなかったのではないでしょうか。つまり、この時点での日系祖語は、まだ韓系祖語とそれほど違わなかったと思われます。日系祖語に最も大きな変化をもたらすのは、もっと後の言語接触のはずです。

ここで、次の接触相手の言語についての憶測をしてみます。今から約10,000年前、中国の揚子江流域で稲作農耕が生まれました。稲作農耕は高収穫率ですが人手と手間が掛かるので、その発展過程においては、周辺地域から多くの移民が流入したと考えられます。すると、稲作農耕民族は、周辺の地域の言語が交わったようなものを使っていた可能性があります。つまり、シナ・チベット語族、オーストロアジア語族、そしてオーストロネシア語族の交差点であったかも知れないのです。取り敢えず、彼らの言語を稲作混合言語とでも呼んでおきます。

そして、約4,000年前、大異常気象の影響で農地が崩壊し、稲作農耕民の多くは難民として周辺の地域に移動して行きました。おそらく、その多くは北方からの漢民族に吸収されてしまったのでしょう。そうだとすれば、稲作混合言語も消滅の危機に面していたはずです。

ただ、難民の中の一集団は、漢民族との接触を続けながら中国沿岸を北上して行き、今から約3,500年前に朝鮮半島に到達したようなのです。この集団だけが稲作混合言語を保存出来た可能性があります。そして、今度は原日系人と接触することになるのです。

この時は、収穫率の高い稲作農耕の難民集団が雑穀農耕の原日系人を圧倒したことでしょう。この状況はフランス人とアフリカからの奴隷達の接触を連想させます。つまり、優勢な稲作難民は、原日系人を労働者あるいは(半)奴隷として働かせたことが考えられます。その過程で、原日系人は、ハイチの場合と同様に日系祖語の文法を維持しつつ稲作混合言語の単語を取り入れたのではと思うのです。

そして、この民族接触は朝鮮半島での縄文人の場合とは少し異なります。つまり、原日系人は人口では稲作難民よりも優勢だったのでしょう。原日系人は自分たちのアイデンティティーを失うことは無かったはずです。逆に、稲作難民こそ危うい状況に陥るのです。

次第に韓系民族が領土拡大のため朝鮮半島を南下してきます。彼らは北方民族の馬文化を取り入れ、まだ戦闘用ではありませんでしたが、物資の移動用に馬車を利用していたはずです。この利点を活かし、韓系民族は、稲作農耕難民と原日系人の両者を圧迫していったと思われます。

この時点で、稲作農耕の技術を学んだ原日系人は、稲作難民の支配を逃れ、徐々に日本列島へと移動して行くことになります。この移動は今から約3,000年前(紀元前1,000年頃)から紀元後500年頃までのかなりの長い期間続いたと思われます。これが、弥生人の日本列島渡来と言うことでしょうか。この間、朝鮮半島に残っていた稲作難民は韓系民族に完全に制圧・吸収されてしまったのでしょう。それで、彼らの稲作混合言語は結局消滅してしまったに違いありません。

と言うことで、日本列島に渡来した弥生人の言語は韓国語と類似の文法を持ちながら、不可思議な基本語彙を持つという状況が出来上がったと思うのです。なお、日本語の発音が韓国語に比べて単純なのも、この言語接触の影響と思われます。稲作混合言語に貢献したと思われるシナ・チベット語族、オーストロアジア語族、そしてオーストロネシア語族どれをとっても、韓国語の発音のような複雑さ(例えば母音・子音の数)は無いと思われるからです。

また、遺伝子のことについて若干付け足しておきます。日本人と韓国人の遺伝子構成はかなり似ているようですが、一番の違いは日本人だけが縄文・アイヌ系の遺伝子を持っている点のようです。これは、原日系人だけが朝鮮半島で縄文人を吸収し、日本列島でも縄文・アイヌ人と接触した事と合致します。尚、日本人と韓国人は共に中国南部の遺伝子を持っているようですが、これは、原日系人が稲作難民集団の支配下にいた事、および韓国人が稲作難民集団を吸収した事とも合致します。

ついでに、言語接触とは直接関係の無い観点を加えておきたいと思います。日本人は島国根性に基づいて独特の文化を発展しやすい民族だと思います。非対称の建築や寿司などはいい例だと思います。この傾向は現代にも引き続いているようで、ガラ携など日本でしか通用しないような技術も発展させてきました。言うなれば、文化について革新的なのでしょう。言語についても同様ではないでしょうか? 鎖国を含め海外交渉の少ない状況で、自分たち独自の言葉をどんどんと発展させていったように感じます。

これに対し、韓系民族は敵国に囲まれ、度々侵略されてきました。そのため、自分たちの文化・言語を死守すべく、より保守的な立場を取ったのではないでしょうか? 現代でも韓国人が家系を非常に重要視することもその一環と言えましょう。つまり、言語に関して言えば、韓国語がより保守的で変化が少なかったのに対し、日本語はより革新的で急速に変化してきたと思われます。

ここでは一例として、近・中・遠称の指示代名詞の最初の音を挙げます。現代日本語の、こそあど言葉の「こ・そ・あ」です。これが、過去2,000年近くの間に、「く・い・か」 → 「く・う・か」 → 「く・う・か/あ」 → 「く・さ・か/あ」 → 「こ・さ・か/あ」 → 「こ・さ・あ」 → 「こ・そ・あ」と、かなり変化してきました。これに対して、韓国語では「イ・ク・チェ」が「イ・ク・チョ」に変化しただけです。

という訳で、当人なりに頑張ってみました。ただ、この話題は多くの方々が興味を持って徹底的に調べているようなので、間違いを指摘出来る方もいらっしゃると思います。その節は、ご容赦下さい。

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