日本の弱点は規格至上主義
昔ベンツにW140という車があった。
設計した人いわく
「これからの時代の人間の
体のサイズは大きくなると思ったから」
あんなに大きな車体になったそうだ。
でもヨーロッパを中心に
「環境破壊車」と酷評されて、
ヨーロッパでは売れなかったらしい。
一方で日本ではその大きな車体が
貫禄があるからと人気であった。
ひるがえって見ると
日本が商品回転率や
顧客回転率の回転から
客単価から何から何まで
決まった数値にしてあるのは
規格至上主義とも言える。
それは日本の敗戦からの
復帰を早くするために
どんな人や会社でもすぐ揃えられる
ための助けにはなったが、
現代の感覚では
「そんなピッタリ合っている
お客さんも会社も実際ありませんよ」
と考えてしまう。
野菜や果物などの農産物も
サイズがきっちり決まっていて、
良く規格外が農産物のお店で
売っていたりしているけど、
将来的にはペースト状で販売を
するようになりそうだ。
漫画、映画、映像、小説、
文学、文芸、アニメ、ゲームなど
メディア作品もお客さんの
入れ換えを約30年で決めているけど、
入れ換えを数字で規定するより
可処分の要素や富裕の度合いで
目標金額を決めて
「手段は問わない」と柔軟に考えても
いいんじゃないかなとは筆者は考える。
それでも違法行為や法令違反を
してもいいのだろうと解釈されたり、
元締めたる電通が30年と規定してあるから
それを遵守しないといけないのだろう。
学校からの意見もあるし、
あまり学校に反発的な内容を作ったら
学校から苦情がきて
取材を断られたりすることもあるのだろう。
「ペルソナマーケティング」というのも
ネガティブに捉えたら
「メアリースー」と同じでやはり
「そんなピッタリ合っている
お客さんも会社も実際ありませんよ」
と考えてしまう。
そんな風に規格を否定するようになったら
資格という概念を否定するようになるけれど。
それが「定規に合わせて線を引く仕事」や
「筆記用具を揃える仕事」として
日本が自分で色をつけたり味をつけたり
することができないという意味で
付加価値の低い仕事が多い国だと
海外から評価されることに
つながる部分があるかもしれない。
だからテレビで
順応・・・じゃなくて遵守という意味や
フェアプレーという意味で
「スポーツビジネス」(SportsBusyness)
のニュースが中心になっているのかもしれない。
とは言っても
「そんなこと言って自分の
お給料無くなったらどうするの?」
と叱られそうだ。
規格を否定することが
VHSやCD-R、Blurayなどを
否定することにもつながる。
そして何より仕事というものが
富裕層のためだけになってしまう。
だけれでも生き物やなま物、
人工物でないものや自然の物ですら
人工物としての規格という枠に
収めることでもある。
役場にある公正証書も
規格で作られている。
要はその境界線だ。
境界線の線の中身が判定が難しいから
絶対値で境界線をはかっているのだろう。