外山恒一のルサンチマン。〜仏になった男〜
昨日、彼が関わっている人民の敵BARへ行き、彼の自伝である人民の敵というクソ分厚い本を読んで氷解した。
酒をちびちび呑みながら読んで分かったのは、外山恒一の社会に対する怒りとルサンチマンである。
外山恒一の世代である団塊ジュニアはこうまで生々しいしテレビ的な感覚なんだなと分かった。
もちろん外山恒一自身の問題もある。
もっとも、ラ・サールに落ちたことがそのまま外山恒一自身をルサンチマン、弱者男性だとは片付けられない。
その証拠に彼の弟子であるネオ幕府の相川にはルサンチマンを感じさせない(いやあるかもしれないが、外山恒一のようにじめじめしたものになっていない。あるとしても、半分だろう)。
ネオ幕府の相川と外山恒一の違いは、美術か音楽かという方向性の違いもあり、相川はクールだが、外山は生々しい。
一方で目立ったのはキャッシュレス決算のみや風貌のキレイなBARと、そこにかかる古臭い外山恒一選曲の音楽や酒だ。
外山恒一は亡霊であり、メタバース、SNSによって作られた三丁目の夕日である。
この点は堀江貴文やイーロン・マスクにもそのような大きな物語ならぬ小さなメタバースを感じさせる。
もっとも弱者男性であったりルサンチマンがそのまま敗北を意味しない。
外山恒一は既に歴史的にしんでいるにもかかわらず、SNSによって、がゆえに延命されている問題だ。
訂正可能をする観念哲学のカルトさは、そのままカルト宗教の様相を描いている。
しかし、私たちのどこに外山恒一の絶望や指摘、民主主義の否定という人民の敵を否定できるようなポテンシャルを持つだろうか?
外山恒一は1つの大学否定者であり、がゆえに1つの大学肯定者である。
外山恒一をダシにしたXのつながりという生権力、ようするに、イーロン・マスクによる加速主義とやらは外山恒一のラディカルさと実のところ、共犯関係なのだ。