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落合陽一という失敗学を復習.
趣旨のまとめ
『デジタルネイチャー』における「脱近代」の趣旨は、近代の枠組み(人間中心主義、標準化、情報と物質の分離)を、計算機と自然の融合によって超克し、多様で持続可能な「新しい自然」を構築することです。加速主義やシンギュラリティの文脈を取り入れつつ、それらを超えた視点から、技術革新を通じて社会全体を再定義し、幸福や共生の新たなパラダイムを提示します。落合は、近代を「古びたもの」として批判的に見直し、計算機時代の自然観を通じて未来を切り開くことを目指しています。
1. 〈近代〉の特徴と問題点
落合が言う〈近代〉とは、産業革命や啓蒙主義以降に形成された、人間中心主義、合理性、標準化、資本主義に基づく社会構造を指します。この近代の枠組みは以下のような問題を抱えています:
人間中心主義:自然を支配・利用する考え方が環境破壊や持続可能性の危機を招いている。
標準化と画一化:効率化や大量生産のために多様性が失われ、個人の自由や創造性が制約されている。
情報と物質の分離:物質世界と精神世界を分離し、情報を圧縮・伝達する仕組みが新たな障壁を生んでいる。
4. 「脱近代」の具体的な展望
デジタルネイチャーを通じて、落合は以下のような方法で近代を乗り越えようとしています:
境界の消失:物質と情報、人間と機械の境界をなくし、現象そのものを直接扱う「現象 to 現象」の世界を実現。
多様性の許容:AIを活用した「コンピューテーショナル・ダイバーシティ」により、異なる視点や能力を持つ人々が共存する社会を設計。
幸福と経済の再定義:近代の競争や格差を緩和し、AI+BI型(ベーシックインカム型)やAI+VC型(ベンチャーキャピタル型)のような新たな社会像を提案。
東洋思想の融合:東洋的な自然観(「自ずから然る」)を取り入れ、近代の二元論を超えた生成流動的な世界観を構築
まとめ(私の補足)
バイオハザード、Zombie、SNSが資本主義で東京は病む理由(©情況商材)
「大企業≒オウム真理教」という比喩は、権威構造や利益追求の倫理的問題を批判的に見る視点に基づいています。大衆が経済的成功に惑わされ、根本的な問題を見逃しているという指摘も含まれます。
「麻原彰晃は儲かるから悪くなかった」という表現は、経済的成果と倫理の分離を皮肉ったものであり、現代の資本主義社会への批判と関連している可能性があります。
「起業は虚無(半分は)」は、起業の両義性を表しており、成功と失敗、社会的価値と金儲けの間の葛藤を示唆しています。
落合陽一氏がフォードの大量生産を乗り越える文脈に近しい理由は、個別最適化、イノベーション、技術と人間中心の視点を通じて、従来の生産モデルを超える新たな価値を追求している点にあります。