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【お師匠たち】技術的特異点とは何か?〜社会学者/小幡正敏〜【古田更一】

 「ソーシャルとは近代以降に捏造された概念だ」

 

 
 以降の学問の特徴を抉る不可思議なテーゼとしてデュルケーム『自殺論』を取り上げている.


 近代以降は良くも悪くも戦争という物理的な人災よりも自殺といった精神的な人災のほうが流行るというところに近代以降を生きる僕たちの生きてきた昭和や平成の特徴があるだろう.


2,再帰性近代という自己アイデンティティの病 に移ろう.


 再規制近代とは後期近代のことであり,それまでにあった伝統といった概念から左派的な概念へ社会は変革していき,人々は反動,自由がゆえに苦しむという話だ.


 なんの話でもなくて,田舎や地方に人々は暮らさない社会が起きると人々が都会では淋しくなったり急激なテクノロジーの発展についていけなくなる話だ.


 もちろん論者によってはいきすぎたテクノロジーの発達がかえって9.11や福島原発事故といった人災を巻き起こす後期近代の複雑な分業制から再規制近代を捉える人々もいる.


 社会学という学問の扱う対象そのものが複雑さを帯びるものであり,極めてシンプルに言えば,社会学という学問そのものが学問の終わりを果たしていいのか?という良くも悪くも深い問いを発する後期近代的なアイロニーに満ちたことを忘れてはならない.


 再規制近代社会とは近代の規律が個人レベルまで発展していく後期近代の特徴を大雑把には捉えたものだ.


 3,戦争をしたい欲望があるのだとフロイトは看破した


に移ろう.


 戦争中に精神科医フロイトの娘は死んだ.


 フロイトの孫である1歳半のエルンスト坊やは,紐のついた木製の糸巻きをベッドの下に投げ入れて見えないようにしてから,『フォルト,フォルト(あっち,あっち)』と言ったり,次にその紐を引っ張りながら糸巻きがベッドの中から少しずつ出てくると,『ダー(いた)』と嬉しそうに笑顔で声を出したのだという.日本でいういない,いないばぁみたいな遊びだ.エルンスト坊やは母親が死んだことをまるで遊びのようにしてストレスを昇華していたのだ.


 このフロイトが『フォルト・ダー(fort da)』と名づけたエルンスト坊やの遊びは『不在と再会』を示す象徴的な遊びであり,母親が長い時間にわたって側にいない分離不安の強まった時にこの遊びが行われることが多かった.エルンスト坊やは母親がいなくて一人ぼっちの時に,フォルト・ダーと同じ死と生,不在と再会の図式を持つ『自己鏡像を用いたいないいないばぁの遊び』をすることも多かったという.

 ここから着想を得たフロイトは快感原則の彼岸で,人間には死の欲動があるのではないか?と推測するようになったという.


 1の統計的な事実も2の思弁的なロジックも3の夢想的なフィールドワークもあくまで近代は戦争という唯物論が憑き物だったという教えだ.


 つまり,死という唯物論がある種の客観的なトリガーとなっており,戦後の昭和や平成という後期近代,そして令和という技術的飽和であるシンギュラリティを生きる僕たちはもしかすると戦前の戦争という唯物論の代わりに自殺という皮肉的でアイロニー的な文体を時代の下部構造として生きていくはめになるのかもしれない.シンギュラリティとはアイロニカルな現代人の精神的な寂しさや辛さが原動力かもしれないのである.


 デザインと時を同じにして産まれた社会学は近代以降を生きる現代人の寂しさや辛さを解決しないといけないということで今最もアクチュアリが高いかもしれない.


 もちろん明瞭に語らない小幡はあくまで武蔵野美術大学教授の社会学者であり,現代史とシンギュラリティは専門外だ.


 コロナ禍を体験した今の彼はモースの贈与論に注目しているらしいが,その縦横無尽な教養による今の彼のシンギュラリティ解釈は今後の彼の課題だろう.ちなみに授業自体は宮台真司よりも骨太で面白すぎるが同時に淡泊で眠すぎる.


 みんなほとんどが遊んでいて正直に言えば,夢のような楽単だった.


 しかし,逆転オセロニアを周りの怠惰な生徒に合わせてプレイしイジる私が顔をあげるとちょうど目があったことがある.


 ニッとお互いに嗤い,教授と生徒というふざけたミュージアムの悲壮感に共犯者的な笑みをお互いに感じ合えた.


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