【創作】個人的な美意識
初夏。蝉が数匹だけ鳴いている。じわじわ。そんな季節。
私は今日、バイトを辞めてきた。
小さな個人経営のレストランで働いていた。ぼろぼろの、廃墟寸前のような店だったけど、お客がひっきりなしにきて忙しかった。現代では無いようなな内装で私はとても気に入っていた。しかしこのレストランに恋をした、というほど好きだったわけではない。
私に言わせれば、店長は完璧な容姿をしていた。
日仏ハーフで、色白、鼻は高く、それでいてなんていうか、ベイビーフェイス。一生懸命仕事に向き合ってきた副産物の、がっしりとした体躯。
周囲の人から見ればごく普通の一般人なのに、私にはとても魅力的に見えた。こんなに彼のことを褒めてはいるものの、恋をしていたわけではない。
そんな店長は、今日も錆びついた厨房でフライパンを振っていた。暗い森の中に刺す一筋の光。藻やごみだらけの湖の中を泳いでいく、一羽の白鳥。
ある日、店長が怪我をした。怪我をしたといっても大したことはなく、缶詰ですこし指を切っただけ。彼の指先に、石榴の実が一粒。石榴がこぼれ落ちる瞬間を見て、私はありもしない未来を想像した。
怪我をして夢を諦めた男の姿。
時が経ち、顔に溝を刻み髪も抜け落ちつつある男の姿。
老朽化が進みレストランは取り壊され、跡地には変な名前の高級食パン屋が立っている。
私は自身の行きすぎた妄想に囚われて逃げられなくなってしまった。本当に起こるのかもわからない未来のことを考えて苦しくなってしまった。耐えられない。
「辞めさせていただきたいです」
そう伝えたとき、彼はとてもびっくりした顔をしていたな。急に辞められて迷惑だっただろうな。
公園のベンチに座り、セブンティーンアイスを食べながらその光景を振り返る。アイスはティラミス味。レストランで一番人気のデザートがティラミスだった。
妄想した未来が本当になっていたら怖いので、レストランがある道は通れなくなった。
美しい光景を美しいまま残しておきたい。それができないのであれば自分が壊すか、そこから離れて見えないようにしたい。
そう考えるのは傲慢なのだろうか?きっとそうだろう。美しいものを残しておきたいと願ったばかりに私は今もおんぼろレストランと彼に取り憑かれている。
鳴いていた蝉達は相手を見つけられかな?
ティラミスアイスは溶け、黒と白が混ざり合ってグレーになり、手の甲を伝っている。
恋は、していなかった。
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