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コースト・ガード~お前たちの要求に従っただけだ!

どこからか発砲される弾丸は、罪悪感なのか、匿名の陰に隠れて放たれる暗く狂った断罪の声か。

キム・ギドク 監督、脚本
2002年11月14日 韓国公開
2005年4月16日 日本公開
原題訳 海岸線
英題 COAST GUARD
宣伝文「海岸線に響いた一発の銃声の先に兵士たちが見たものとは?」

 キム・ギドクによれば「強権的な父親から離れられれば何でもよかった。入隊した海兵隊での5年間の体験、聞いた話を元に脚本は書かれている。50%は映画として膨らませた」作品となり、『受取人不明』(2001年)と同じく戦争や軍隊は道具立てにすぎず、社会に引き裂かれた人間を描いたものだ。

 誤って民間人を殺した海兵隊員の主人公。目の前で恋人を殺され発狂した村の娘。無慈悲にも彼女を凌辱する海兵隊員たち。対立する村人と海兵隊。
 海兵隊員を恐怖に落とす、どこからか発砲される弾丸は、彼らの罪悪感なのか、匿名の陰に隠れて放たれる暗く狂った断罪の声(ク・ハラ、木村花はどうなったか)か。

 誤射した主人公も発狂するのだが、彼の行為は職業的義務に基づく正当なもので、罪悪感はないようにみえる。では彼を狂気に落としたのはなにか?キム・ギドクは「良心をもつ人間ならば、理由はどうあれ、人を殺せば魂が傷つく」といっているのではないか。村上春樹が「損なわれる」と表現するものかもしれない。大企業と社員と言い換えてみればわかりやすいだろう。主人公は命令されれば、良心を失くしてしまう人間の戯画として描かれていると思うのだ。2年後に公開される『殺されたミンジュ』のなかでこのモチーフを発展させている。
 衝撃的な最後の主人公の姿は、市民にも軍隊にも拒絶され、行く場所を失ったことを「お前たちの要求に従っただけだ」と社会を告発しているのであろう。

 このように、頭がおかしくなった人間ばかり登場するのだから、原題の『海岸線』は海と陸の間を指したのだと考えられ「正常と狂気」を表したと思うが、一歩進めて沿岸警備の任務から「守るべきもの」かもしれない。

 私はキム・ギドクを、人間の感情より世界の有り様を描こうとした監督だと考えるが、脚本家出身でストーリーテリングがシンプルながら技巧的なのも特徴としている。本作においても主人公は当初に兵舎で歌った「過去は過ぎ去った」を、最終場面でも歌っているのである。あるいは緑フィルターを使って海兵隊が暗視ゴーグルで見た世界のように映し出し、お馴染みの男を暗喩する魚、墓標を暗示させるトーテムポール状の構造物は目を惹かれる。

 とはいえ、キム・ギドクの作品としてはものたりない。物語がいささか図式的ではないか。常なら話が破綻したような、意味不明でマジカルな魅了がなく、告発で終わりなのも教条的に感じる。前年の『受取人不明』、『悪い男』を観たあとでは、この程度では満足できないのである。その分観客を選ばない作品とはいえるが、これをキム・ギドクだとは思ってほしくない。

 もうひとつのぱっとしない原因だが、主演のチャン・ドンゴンがミスキャストではないか。この映画のかなめは、主人公はなぜ発狂したかにある。「命令されれば、良心を捨てて行動する人間の戯画」と書いたが、根拠は薄く、実はよくわからない。そのへんがチャン・ドンゴン起用にあるではないかと思っているのである。

 やはりこの俳優は理知的な二枚目すぎる。どうしても善悪のアイコンにみえてしまう。善か悪かなので人間の弱さが出ない。バカを演じていると思うのだが、最初から頭がおかしい男にみえてしまい、狂ったときとの落差がないのだ。バカでこずるく、人を殺してもなんともなさそうな男が、それでも発狂するから面白いのではないか。それで、こんな奴でもと観客に感じさせて、悲劇と恐怖が強調されるのではないだろうか。つまり私は『鰐』(1996年)のチョ・ジェヒョンを想起しているわけだが、彼だったらと馬鹿だからなのか、狂ってるのかという見どころもあった気がする。反対に『メビウス』(2013年)は、チャン・ドンゴンのほうが大学教授の父親、逆転した母親には適役だった。

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