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The NET 網に囚われた男~漁師がイムジン河で獲ろうとした魚

キム・ギドク 監督、脚本、撮影
2016年9月10日 第73回ヴェネチア国際映画祭非コンペティション部門出品
2016年10月6日 韓国公開
2017年1月7日 日本公開
原題訳 網
英題 THE NET
宣伝文句「スパイでも英雄でもない。」

キム・ギドク 「南北の本質的な問題とは何かをのぞき込み、伝える必要があった。今回はあえて『見せない』手法を取りました。残酷なシーンはなくても、主人公が網にかかった魚のように南北の間で引き裂かれ、血を流す。そんな心理的な暴力を描きたかった。」

 物語は北朝鮮から流れ着いた漁師が見た韓国と、帰国後に待ち受ける運命を通して、国家に翻弄される男の悲劇を描いた。
 感情移入を求めないマナーに加え、いつもの技巧まで排しドキュメンタリーのように観せる。

 とはいえ、本作の本領が政治性にあるわけではない。
 注目すべきは、より抑圧的な支配構造をもつ北朝鮮に戻ろうとする、漁師の揺るぎなさだ。母国にいる妻子の問題として描かれるが、彼は<愛>を記号化した存在なのである。
 一方、朝鮮戦争で家族を失い、彼を理不尽に責め立てる韓国警察の取調官が<憎しみ>の記号だ。
 物語の縦糸は<愛>と<憎しみ>の戦いなのである。

 朝鮮戦争で家族を失った残虐な取調官という設定は、南北分断という悲劇的<現実>の象徴と読める。いつものキム・ギドクなら「兄」と言っただろう。
 対して、北朝鮮出身の祖父(「失郷民」と呼ばれる人々)を持ち、漁師を庇い続けた若き警護官が、国家統一への希望を担う<理想>の象徴だ。このふたりの対立が横軸となる。
 キム・ギドクはこの間に漁師を置いてみた。
 だから髭面の漁師は、腰に布を巻いて舟に立ち、磔刑に向かう半裸のキリストの暗喩となり、殉教へと歩み出さねばならなくなる。

 そこまで読むなら、新約聖書(福音書)の一節、ガラリア湖畔のエピソードの引用だと気づく。キリストの最初の弟子ペテロは漁師だったのであり、舟のうえでキリストから「人をとる漁師」になるよう促され、従ったと記されている。漁師の解釈は様々だとしても、魂を救いあげる者と読めば、キリストと弟子たち(使徒)を指すことになる。

 それゆえ、彼が見た夜の韓国ソウルの街は、天から降りた神が見た世界のように映るのである。感応力に富む観客は<父なる神>となり、自らが創造した地上の変容に驚き、哀れな娼婦を救えず悲しむ漁師<我が子キリスト>に寄り添うことができる。

 このように観客を神の視座に置こうとする試みは、前々作『殺されたミンジュ』にもある。
 自分が追う者の正体が<神>だったことに主人公が気づいた場面。驚愕の涙と鼻水で濡らした顔が契機となり、同じことに気づいた観客は、それまでに起きていた出来事から善悪判断が無くなり、ただ人間という生物の生態としてフラッシュバックし、何が物語られていたのかを理解するのである。
 
 私の考えるところ『殺されたミンジュ』は、キム・ギドクのシナリオ技巧の頂点となった作品である。難解に感じさせないことが、かえって理解の妨げになっている。シークエンスを腑分けし、ストーリーの立体性に気づいてはじめて「神殺し」という主題が立ち上がる。
 このなかに私は、彼の自殺を読み解いたが、理由までは作品論に展開できなかった。だが、本作を観た今「最早これ以上技巧的な映画は撮れない(撮らない)」との告白だったと解釈するのが、最も妥当だと思える。
 そう考えれば、前作『STOP』がアマチュアじみていた理由も、すんなり理解できるのである。

 韓国で撮れたはずの『STOP』を、言葉の通じない日本にやって来て、ひとりで撮ったのはなぜか。
 遡って2002年、酷評続きで失意にあったキム・ギドクは、12人の監督を起用して『リアル・フィクション』(自分の過去と、映画についての映画)を製作し、自己療養に充てている。
 『殺された~』を撮り終えたとき、技巧と決別したキム・ギドクにはその後が見えず、同じように心の再起を必要としていた。

 言い換えれば、『リアル・フィクション』は12人の素人監督の友情に支えられて撮り、『STOP』は異国で素人役者(撮影スタッフでもあった)の友情に支えられて撮った。キム・ギドクは無心の仲間たちとの映画作りを楽しみたかったのである。だから演技に口をはさむことなく、ワンテイクで撮り終え、それが両作品の手触りとなって顕れている。どうだろうか?

 キム・ギドクがそこで何を見出したか。
 今となっては想像の域を出ないが、メッセージを伝えるためのシンプルな映画づくりだったのではないか。私は『網に囚われた男』が、その新たな出発点となった作品であり、観る者の心に語りかける傑作だと考えている。


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