うつせみ~青い死の気配
復讐するは我にありと言って、テソクは<みしるし>を現わす。
キム・ギドク 監督、脚本、編集、製作
2004年10月15日 韓国公開
2004年9月11日 第61回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(最優秀監督賞)
2006年3月4日 日本公開
原題訳:空き家
英題:3-IRON(3番アイアン)
宣伝文「私たちは永遠に、よりそう」
毎回夢のような映画を観せてくれるキム・ギドク。『うつせみ』はその極地だ。わからないようでいてわかったような気分になる。夢が何を言っているかなど知りたいと思うだろうか。夢はただ見るものであり、誰が気にする?
とはいえ、この映画からは不吉なものを感じはしないか。
『春夏秋冬そして春』を2003年9月19日、『サマリア』を2004年3月5日と、矢継ぎばやにキム・ギドクが放った第9弾が『うつせみ』となり、これもまた傑作というわけだ。
言ってしまえば若い男と人妻の恋の逃避行である。それが物語のすべてなのである。しかし観れば到底それでかたづくような話でもない。
物語は3部構成になっているものとしよう。
1部は、留守宅に侵入し寝たり食ったりし生活している若い男<起>
とある邸宅で人妻に見つかってしまうが、彼女を連れ立って同じ暮らしを続ける。<承>
第2部は、若い男は人妻の誘拐罪(家宅不法侵入ではない)で逮捕収監され、一方の人妻は夫に連れ戻されてしまう。<転>
第3部は、真相がわかり釈放された若い男は、過去に侵入した家に再侵入してまわり、最後は人妻と結ばれる。<結>
この無言劇を以下のように謎解きした。
第1部(ふたりがたどった足跡)
テソクが侵入した家を順につなぐと、一般的な男性の人生が暗喩されていることがわかる。
無垢であるが悪さもする男の子(人間の原罪を表している)の家からはじまり、最後はテソクが見なかったことにする老人(死者)の家。
少年は性に目覚め思春期を迎え、青春を謳歌し、結婚して社会で戦い、挫折し、救いを求め這いあがり、やがてひとりで死んでいく。『春夏秋冬そして春』と同じだが、東洋的生命観はない。
ここに女性の人生がうまく乗るかだが、ソナはテソクに寄り添い、手を貸し、諫め、慰め、死も看取っている。物語としては充分だ。
男女の役割の固定化という批判の声が、公開当時韓国にあったとしたら、たいしたものである。フェミニストにそれだけのリテラシーがあったということなのだから。だとしても人間の領域にある思想で、神の領域である芸術を批判するなどおこがましいのであるが。
ソナの物語は「理不尽な夫の暴力から逃げだすため、目の前に現れた不思議な青年に誘われるまま、バイクのバックシートに座り、モデル時代に愛した写真家の家を訪ねる。しかし過ぎ去った時間はとり戻せないと悟り、過去と決別する」 なぜそんなことがわかるのか、テソクは壊れた時計を修理し、ソナがモデルになった写真は既にコラージュがされていて<変化>、わけもなくはじめる洗濯が<洗い流す>の暗喩になっているからである。
それで、ソナは次に韓屋に入り「盃を交わし青年を誘い、初夜を迎えるという婚礼の儀を行い、彼とともに生きる決意をした」のである。夫を捨てて出奔したのは、愛のない夫との生活に同情したテソクに連れ出されたわけでなく、主体的に同行したと読まねばならない。このときのテソクは、まだ少年期にあり、母性愛が発露したのである。そのために年上の女優が起用されている。
テソクの物語は「家庭を知らずに育った青年は留守宅に入り込み、つかの間の家庭を味わうという暮らしを続けていた。ある日誰もいないはずの裕福な家に入ったところ、そこには傷つき泣く女性がいた。見かねたテソクは、家から連れ出し、言われるままにかつて彼女の恋人だったカメラマンの家に侵入する。母も女も知らなかったテソクは、この年上の女性に導かれるようにして、次に入った韓屋で婚礼の儀を行い、初めて本当の家庭を得た」だろう。ここから大人の時代に入る。
第2部(ふたつの死と再生)
テソクが留置場での鍛錬で姿を消す能力を獲得するという荒唐無稽な(素晴らしく映画的なアイデアに溢れた)展開は、取り調べ中にソナの夫と悪徳警官に謀殺された、と解すほかないだろう。釈放はテソクの死を意味する。
空色に塗られた独房の壁をバックに、半裸になったテソクが両手を翼のように広げると、天に昇ったように見せるためカメラが旋回する。これ以前に同様の手法で石像の天使が青空に舞いあがる映像が挿入されていたのは、この伏線となっていたのである。
神の子テソクは全知全能の神となり、地上に再臨する。
この間にソナもまた突拍子もない行動をおこしている。仏殿を暗示させた韓屋をひとりで再訪するのである。夢遊病のように勝手に上がり込み、ソファで眠ってしまうわけだが、これは死んだテソクを追って涅槃に旅立ったと読みたい。眠る姿勢が横臥位であったことまで考えれば、この謎の意味はソナが真理への目覚め<大覚>に至ったと解すことが可能であり、成仏した彼女は菩薩となって甦るのである。
ふたりは神と菩薩、罪と慈愛、処刑と入滅というシンボリックな存在なのである。
第3部(神の復讐とその愛)
このパートは、神と傷ついた女性のエンディングであり、愛の成就が描かれている。
<姿なき者>となったテソクは、『悪い男』(2001年)のハンギが慈愛の神(母性)だったのに対し、自分の眼からは逃れられないといっている恐ろしい神(父性)である。
新約聖書(「ローマ人への手紙」第12章第19節)は「復讐するは我にあり」という言葉があるが、<姿なき者>が最初に行なったことは、悪徳警官を罰することだった。続いてボクサー、韓屋の善良な夫婦、写真家には「眼を開いて見よ。我はここに在る」「闇の中にある者は、真理を知ることのない盲のようなものである」と<みしるし>を現し、神の再臨を告げていく。
ソナだけに<姿なき者>の姿が見えたのは、夫婦生活が暗喩する、悲惨な世界にあってなお真理に目覚め、神の寵愛を受けるべき清貧(洗濯機があるのに手洗いで洗濯していた)にあったからだ。
最後の場面はソナが愛してると信仰告白し、神に抱かれ天に昇った(救済された)ことを示すように、体重計の針はゼロを指している。
主題は死である。
この映画、非常に美しいのだが、随分と冷たい印象を受けはしないだろうか。青ざめた発色と何かと直線的で幾何学的な構図というのもあるのだが、それだけではない。
『魚と寝る女』(2000年)では、男女から言葉を奪ってパントマイムによるコメディを成立させたが、『うつせみ』の無言は、テソクとソナが死者にみえるよう機能している。演技も無表情であり生気を感じさせない。生命のない石像のカットを挿入するのも、ふたりの主人公と対比させるためなのだ。主題はキリスト教でも愛でもないことはあきらかだろう。この映画には、死のムードが漂っている。
原題を『空き家』と名づけたのも、魂のぬけた、死者の暗示なのである。
『春夏秋冬そして春』で仏教的生命観、『うつせみ』でキリスト教的死を描いたが、両作品に抹香臭さはない。宗教は表現手段に過ぎないのである。むしろ題材として扱えてしまうことが、逆説的に信仰がないことを現わしているのではないか。なんといってもキム・ギドクの信仰心は、芸術という神に捧げられているのだから。