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受取人不明~チャングクの受難

チャングクの最期の姿は磔刑を暗示し、遺体を抱く母親はピエタ像である。

キム・ギドク 監督、脚本
2001年6月2日 韓国公開
2001年9月8日 第58回ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門上映
2005年4月9日 日本公開
原題訳 受取人不明
英題 ADDRESS UNKNOWN
宣伝文「韓国人と米国兵士の関係をテーマに韓国社会の闇を描いた社会派ドラマ」

  『受取人不明』は兄が撃ったおもちゃのピストルが、幼い少女の片目を失明させるというショッキングなシーンで幕を開ける。朝鮮戦争と南北分断の象徴とみて間違いないが、物語は時間を経て70年時代の米軍が駐留する村ではじまる。
 美しい女子高生となったウノクは片目を伸ばした髪で隠し、回復手術を望んでいるが、それが新たな悲劇を生む遠因となる。ウノク想いを寄せ、何とか彼女を守りたい幼馴染みで画材店を手伝っているチフム。気が弱く中学時代の後輩にいじめられるチフムを庇う、チャングクもまた在韓米軍の黒人兵を父とする混血児で、社会から疎外されている。この3人を中心に、チャングクの母、若き米兵、犬商人の姿を描いた群像劇である。

 『魚と寝る女』(2000年)で多義図形、『リアル・フィクション』(同年)でメタフィクションという実験作のあとに撮られた本作は、娯楽映画でなければ上演も満足にできないという経験をしたからか、初期3作のような文芸路線に戻っている。しかし、宣伝文のように社会派ドラマというのはどうか。キム・ギドクのどこにも批判的視線はない。

 どのように構築されたものであれ、社会は壁として個人の前に屹立しているのである。特定の時代や国を批判する映画があってもかまわないが、歴史としての機能を果たしても、芸術が求めるものは普遍性なのである。この映画に普遍性を感じるのは、具体性を極力排除し、そこで起こる悲劇は夢の中の出来事のように描かれているからだ。無力で痛ましい少年たちの姿をとおして、たとえ厳しい現実があっても、人間は乗り越えて生きなければならないというメッセージを帯びているからだ。その姿を見届ける者としてチフムの役割がある。無力な存在として描かれたチフムは今も世界の片隅で、ウノクやチャングクを見つめていたように、我々を見ているのである(この沈黙する神を主題にしたのが次回作『悪い男』)。

 さらに、片目を失ったウノクに韓国を、ウノクを想うチフムにキム・ギドクという関係が重ねられ、チャングクの母親が消息不明の夫に宛てた『受取人不明』の手紙(チャングクの写真)に、観客動員できず酷評される自分の映画を、オーバーラップしてみせたのである。

 エピローグの霧は、場所や時間を特定していないという演出であり、そこに現れた歩兵隊は本編と地続きの在韓米軍ではないだろう。今日もどこかで起きている戦争、紛争地帯であり、チャングクの母に届いたエアメールは時空を超えて戦いの悲劇を伝えたと理解してよいだろう。
 しかし、70年代を描いたのであればベトナムのどこかであり、手紙を読んだのはチャングクの父親の戦死を見届けた男だ。手紙は韓国で待つ人がいるを知らせに来たのであり、未来であの男が書いたものだ。そのほうが心はざわめくし、ほかの兵士が背景から消えた演出は、それ以外に考えられないのである。

 『受取人不明』はチフムだけだなく、チャングクの最期の姿は磔刑を暗示し、遺体を抱く母親はピエタ像というようにキリスト教が見え隠れし、メインテーマでないだけにキム・ギドクの思想的背景を色濃く反映した作品となった。

 最後まで解釈できなかったのが、米兵の薬を飲んだウノクの幻覚に現れた顔。チフムではないし、キム・ギドクでもなさそうだ。犬を抱いているところからすると、彼女が妄想する男の顔でエクスタシーの洒落だろう、というところで終わりにする。

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