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連載*バタイユとアナーキズム 第6回

法政大学教授の酒井健先生による連載『バタイユとアナーキズム──アナーキーな、あまりにアナーキーな』が始まりました! 全ての「主義」に批判的であったジョルジュ・バタイユの思想に全方位から迫り、現代日本社会の「アナーキズム」思潮を根源から問い直します。 

第6回は「法廷での笑い」と題して、日本ではほとんど無名のアナーキスト、美術評論家であるフェリックス・フェネオンという人物に焦点をあてます。フェネオンのアナーキズムが「無の生命力を蔓延させる起爆力」となって燃えたぎり、ボードレール、バタイユへとつながっていきます。

法廷での笑い

酒井健

1 アナーキーな諸力のゆくえ

 笑いとアナーキズムの関係について考えてみたい。

 誰しも笑うし、笑われる。笑いはごく日常的な現象だ。そこにアナーキズムが関係しているとは意外に思われるかもしれないが、アナーキズムの原点の情念によって笑いは生じている。支配原理を覆そうとする生命力と言ってもいい。子供の場合、この生命力を意図せずに言葉や仕草で放って、大人のその場の雰囲気を軽やかにぶちこわし、笑いを引き起こす。お笑い芸人の場合は、意図的に社会の通念や権威者の尊厳を覆して、観衆を笑わせる。

 笑いは一瞬の現象だが、なにかまったく違う次元へ我々を連れていく。そしてそこに複数の人がいれば、笑いの渦によっていっとき共同体が現れる。既存の組織も加入の規則もない、その場限りの不定形の共同体だ。これをフランスの希代きたいのアナーキストが、あろうことか法廷で出現してみせた。自分が裁かれるこのうえなく緊張した場で、果敢にも裁判長をコケにして、傍聴席の人々を笑いへいざなった。法曹界の最高権威者の質疑に対して当意即妙に応答して、ときに大爆笑を、ときに止まらぬ笑いを引き起こし、法廷をおおいに沸かせたのである。このアナーキストは、日ごろはむしろ笑いから遠い人だった。芸人ではなく役人で、その面差しにはまじめさを越して冷たさが漂う。せいぜい冷笑を浮かべるのが笑いとの関係であるかのような風貌の人だった。ダンディであることこのうえなく、つねにシックな着こなしですきがなく、それがまた、取りつく島のないようなこの人の冷たさを際立たせていた。

 この人の名はフェリックス・フェネオン(1861–1944)。日本ではほとんど無名だが、近年フランスをはじめ欧米では再評価されつつある。アナーキストとして、そして美術評論家として、である。簡単に紹介しておこう。フェネオンは、フランス軍事省の文書係の職にありながら、前衛の美術批評をてがけ、モネら初期印象派の絵画にアナーキーな情念を認めつつ、その新たな展開をスーラ、シニャックらの厳密な点描画法に見出し、彼らの作風を「新印象派」(le néo-impressionnisme)と名付けて礼賛した。スーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884–1886)の展示で知られる1886年の第8回印象派展は、フェネオンのアナーキズム絵画論の実証の場になった。それから3年後、彼は次のような文章を書いて、自分の見方を端的に示している。

 印象派のアナーキーな諸力(forces anarchiques)は数年前から秩序づけられて、若い画家たちのいくつかの決定的な作品になっている。人によっては、彼ら若い画家たちはそんな決定的な作品を作ってはいないと思いたがるだろうから、今後作ることになると言っておいてもいい。ともかく彼らは、研ぎ澄まされた視覚と明晰な知性を持ち、よりすぐれた技法(色調の科学的分割)を用い、色彩と線分の方向を意図的に結合させるのに巧みなのである。スーラ氏とシニャック氏のこと(1)

(フェリックス・フェネオン「『何人かの人々』」、『芸術と批評』1889年12月14日号)

 1860年代後半から登場するフランス印象派の画家たちは、それまでの古典主義の規範を、テーマにおいても描き方においても、覆していった。これは絵画における支配原理の否定であり、まさにアナーキーな事態だった。しかもこの転覆の在りようは画家それぞれにおいて異なっていてまとまりがなく、無秩序の観を呈していた。この意味でもアナーキーだったのである。1880年代前半から登場する新たな印象派の画家たちは、前世代の画風に秩序を持ち込んだ。すなわち乱雑な筆触分割の技法を、光学理論や色彩理論をもとに「色調の科学的分割」に整えて、均質で精緻なモザイク状の点描へ発展させ、テーマもブルジョワ社会への批判を陰に盛り込んで緩やかながら統一性を与えていった。「アナーキーな諸力」は別な様相を呈しはじめたのだ。厳密な描法、そして社会批判という方向性を持ちはじめたのである。フェネオンは文筆の側からこの新たな傾向を促進したと言える。そして1890年代に入ると、彼自身、アナーキズムを実践へ尖鋭化させていった。テロリズムに向かったのである。

2 行動派アナーキストの時代

 1890年代前半、とりわけ92年から94年の短期間にパリではアナーキストによる社会支配層へのテロ行為が続発した。ことの発端は1891年5月1日(メーデー)に北仏の工業都市フールミとパリのクリッシーで行われた労働者のデモ(1日の労働時間を8時間に短縮することを要求するデモ)に対する当局の過酷な弾圧にある。主だったテロ行為を追っていくと、まず、①このときに逮捕された同志のアナーキストに有罪判決を下した裁判官のアパルトマンへの投弾。②兵舎への投弾(デモ弾圧に新型の銃器が子供や女性にまで無差別に使用されたのが理由)。③このデモに参加したアナーキストに死刑を求刑した主席検事のアパルトマンへのダイナマイト投入。いずれも犠牲者は出なかったが、爆発のあとの建物の惨状はすさまじかった。その後、④テロの実行犯ラヴァショルを密告したレストランへの爆弾投入(経営者と顧客の1人が死亡)。⑤鉱山会社の事務所への時限爆弾設置(この爆弾は事務所から警察署へ運ばれたのちに爆発、その運搬を手伝った若者と署の警官4名が爆死、他の警官1名が致命傷を負う)。さらに⑥下院の傍聴席から議員席への爆弾投入(死者は出なかったが、犯人には死刑判決が下された。またこの事件の4日後に厳格な取り締まり法、いわゆる「極悪法」が制定された)。⑦サン・ラザール駅近くの「カフェ終着駅」への時限爆弾設置(カフェ内の20名の客が負傷、内1名が致命傷を負う)。⑧上院前のレストラン「フォイヨ」への時限爆弾設置(客の1名が負傷。この犠牲者は皮肉にも無差別テロを容認した作家だった)。そして⑨1894年6月フランス大統領サディ・カルノーの暗殺(下院への投弾犯人ヴァイヤンの処刑への恩赦請願を却下したのが理由)。

 ときあたかも「うるわしき時代(ベル・エポック)」のさなかであった。フランス社会は政治的にも経済的にも安定と繁栄を享受しはじめた時代だった。1789年の大革命による共和政の精神と体制が、1871年に始まったフランス第3共和政によってようやく定着し、経済的にも産業の発展と植民地経営の拡充によってうるおいを見せはじめた時代だったのである。だがこれはきわめて限定的な見方であって、この麗しさと潤いは社会の上層部の人間に限られていた。多くの労働者は安い給料で長時間労働を強いられ、家族ともども貧困や病苦のどん底にあったのである。①と③の実行犯で処刑されたラヴァショルも、下院の議員席に爆弾を投げつけた⑥のヴァイヤンも、賃金労働の底辺にあって「自由・平等・博愛」のフランス共和国精神とは裏腹の「不自由・不平等・差別」の辛酸をなめつくしての敢為かんいだったのだ。⑤と⑦のテロ行為はラヴァショルに同調した若者エミール・アンリによる。理系の名門校エコール・ポリテクニックを中退して炭鉱夫になり、アナーキズムを尖鋭化させ、パリのカフェに集う一般人をも差別と抑圧の責を負うとみなして、無差別テロに出たのである。フェネオンはこの7歳下のアンリと思想信条をともにし、親しい関係にあった。⑧のレストラン「フォイヨ」の爆破は、のちのフェネオンの告白によれば、彼の単独犯行とされるが、そこにはブルジョワ社会への批判意識とアンリへの共感があった。

 ラヴァショルもヴァイヤンもアンリも断頭台で首をはねられた。刑場で勇敢にも「アナーキー、万歳!」と叫んだラヴァショル、国民議会の会場で悲惨な実生活への最後の窮状告知と抗議に出たヴァイヤン、そして徹底主義に走った若き俊英アンリ。処刑の場に集まった民衆は彼らにむしろ好意的で、その死を悼んだ。33歳で処刑されたラヴァショルは、33歳で十字架刑に処されたイエスに喩えられたほどである。もちろん人道主義的な見地から無差別テロへの批判はアナーキストからさえも厳しく非難されたが、反面、命を賭したその反抗は貧困にあえぐ民衆だけでなく、フェネオンのような前衛知識人からも共感を得ていたのである。こちらにもまた人道主義的な反応が見て取れよう。弱者や社会的マイノリティに加担する者を正義の人と見る見方である。

 今回の連載はこのような見方に充足できないところへ向かっている。彼ら実行派アナーキストは、支配原理を覆すアナーキーな精神を本当に生きていたのだろうか。言いにくいことだが、彼ら、そして彼らに同情を寄せる民衆も、弱者を正当化する道義的・社会的正義の支配のもとにいたのではあるまいか。共通の理念を超越化してそのもとに内在したがる近代人の病。ジャン=リュック・ナンシーが内在主義の名を冠して、全体主義国家だけでなく民主主義国家、共産主義国家にも見いだした傾向がここにも見て取れそうだ。その点、フェネオンは一筋縄ではいかないところがある。アナーキスト系の新聞『外部にて(L’En Dehors)』に熱心に寄稿し、アンリら実行犯とつながりを持ち、テロ用の爆弾装置を所持しておきながら、彼は法廷ではアナーキズムとの直接的な関係を否認したのだ。「フォイヨ」の実行犯であるはずなのに他の無実の同志(『外部にて』の編集長マッタ)に嫌疑のかかるまま、法廷を巧みに乗り切って、のうのうと生き延びたのである。刑場で「アナーキー、万歳」と叫んでギロチンの刃の犠牲になっていったラヴァショルやアンリに比して、フェネオンはもっと度の強い悪人だったのではあるまいか。
 笑いはその彼の手段になっていたのかもしれない。いや、ひょっとしたら、フェネオンは笑いの深みを知っていて、その一端を法廷で活用してみせただけなのかもしれない。笑いの奥底にあるアナーキーで非道な力を彼は熟知していたのかもしれないのだ。あの『悪の花』(1857)の詩人ボードレールのように。もう少しフェネオンのあとを追いかけてみよう。まず1890年代フランスのアナーキズムの状況についてからだ。

3 時代背景とフェネオンの思想

 1890年代前半のパリに見られた行動派アナーキズムの在りようを、近年のフェネオンの研究家ジョアン・U・ハルペリンが的確にまとめているので紹介しておこう。フェネオン再評価をもたらした博士論文の一節である

 他の国々と同様、当時のフランスでは、アナーキストはばらばらで、統一性を欠いていた。彼らは、一貫したイデオロギーも、明確な政治綱領も、持ち合わせていなかった。だがその反面、彼らはユートピア的な理想を共有していた。この理想は次の二つの前提に基づいていた。一つは、真に自由な個人はだれでも本質的に善人であり、他の個人と協力してすべての人の善に尽くすようになるという前提であり、二つめは、人類は、支配者が存在せず(an-archos統治者の不在)、いかなる統治の形態もなく(an-archê統治(原理)の不在)なると、よりいっそうよくなるという前提である。ほとんとすべての人にとって、《アナーキー(anarchie)》なる言葉は無秩序で混沌とした世界を想起させる。だがフェネオンとその友人たちはこの言葉に均衡と調和を見ていた。恣意的な規範と境界から解放された世界を見ていたのであ(2)

(ハルペリン『フェリックス・フェネオン』)

 無秩序と混沌ではなく、均衡と調和を欲するアナーキズム。スーラやシニャックの絵画に新たな秩序を見ていたフェネオンと通じる指摘である。他方で、こうしたユートピア的発想がマルクス主義者たちの批判にさらされることをフェネオンはよく心得ていた。マルクス主義によるアナーキズム批判はマルクスその人のプルードン批判に始まるが、フェネオンはこの批判を知りつつ、あえてアナーキズムを肯定した。ハルペリンはアナーキスト系新聞『外部にて』へのフェネオンの寄稿文を引用しつつ(《》内の文章)、次のように解説を続けている。マルクスの共産主義を含む19世紀後半当時の集産主義(collectivisme)の発想にフェネオンは逆にユートピアを見ていて、これにうんざりしていたというのだ。

 こうしたアナーキズムのユートピア的立場が批判されることをフェネオンは認知している。じっさい彼は、マルクス主義者のジュール・ゲードに答えて、こう強調している。
《アナーキーな文明──掟も支配者もない文明──は、本質的に、一人一人千差万別の個性の発揚に適しているのであって、最終的には複雑さがこのうえなく開花する事態に達するだろう、と人は予測していた。
 全然違うのだ──フィガロ紙に掲載されたあの能天気なインタビューのなかでゲード氏はアナーキストたちに向けて「皮相浅薄な社会へのバカげた夢想!」とこきおろしている。
 我々はもうくどくど言うまい。ちゃんとわかっているのだから。各市民が番号札をぶらさげるような社会こそ、我々フランスのあのマルクス主義の役人たちの目標だということを。彼らは人体内部の複雑さよりも時計の複雑さを好んでいるのだ》(フェネオン①)。
 アナーキストたちは、エンゲルスとは違う考え方をしていた。国家は、集産主義のデータのどおりに形成されると、進展のはてに最終的には消滅する、などと彼らアナーキストは考えていなかったのだ。事態はまったく逆で、集産主義の共同体は法の数を増大させ、中央の権力を強化させるようになると、フェネオンは踏んでいた。じっさい、ユートピア思想に即して作られたあの英国植民地オーストラリアの条項の《狂気じみた隷属性》に彼は衝撃を覚えていたのである。
《法の優越への従属......。大人の成員すべての投票が最上位の権力を作り上げる......。普通選挙で三分の二を獲得して選ばれた指導者が唯一の実行権力を握る......。投票によって選出された監督者たち......。こういったことが条項の縦の欄(colonnes)から欄へ続くのだ。幸いなるかな、植民地(colonie)。そこでの生活は甘美だ。人々はつねに投票し、つねに従属するのだから》(フェネオン②)
 さらにあとのところでフェネオンはエリゼ・ルクリュスの『なぜ我々はアナーキストであるのか』の文章をそのまま引用している。
《無政府状態を創造し、これに形態を与える。ただしそれは生のすべての現象のように絶えず変化する形態なのだが、そうした形態を無政府状態に与えることは、すべての自由な人の自発的な行動によるのである》(フェネオン③)
 こうした構想は、法と権威への信頼を、各人の個性への深い信頼に、つまり他者の個性への深い信頼に取り換えているのであって、当時の多くの芸術家と作家を誘惑していたのである。19世紀末におけるアナーキズムと芸術家の結びつきについては多くのことが語られてきた。フェネオンはこの点について分析は加えていない。彼は注釈によってただ証言を残しただけであ(3)

(ハルペリン『フェリックス・フェネオン』)

 ハルペリンのこのフェネオン紹介の前半にある集産主義批判は、その後の民主主義国家や共産主義国家の全体主義化を連想させる。そして後半の指摘、つまり作家や芸術家を誘惑していた他者の個性への深い信頼に関しては、この他者(les autres)を「まったくの他なるもの」(le tout autre)、「異質なもの」(l’hétérogène)に深化させるのならば、1920年代末のバタイユを連想させる。『ドキュマン』の編集長になって、現体制の転覆を夢見ながら過激な美術評論と刺激的な図像を次々掲載していったバタイユである。他方でフェネオンはアフリカやオセアニアの未開民族の宗教遺物を熱心に収集していたのであり、この点でも民族誌学に入れ込んだ1920年代末のバタイユの先駆をなしていた。両者とも西洋外の文明の所産に自由な生の謳歌と表現を見ていたのである。西欧諸国が植民地化した世界に、逆に西欧諸国を転覆させる生命力を見ていたのだ。

4 法廷を沸かすフェネオン

 話を1890年代半ばに戻すと、一連のテロ行為に当局も取り調べを強化し、1894年前半だけでフランス全土で800人近く、パリだけで300人有余に嫌疑をかけ逮捕した。フェネオンも1894年4月26日に逮捕される。アンリをはじめとするアナーキストたちとの関係を疑われ、さらに軍事省の彼の事務所に隠されていた雷管とフレスコ入りの水銀がテロ行為に関係すると疑われたからである。彼の公判は1894年8月6日から開かれた。いわゆる「30人訴訟」である。30人の容疑者がアナーキズムとの関連の濃淡にかかわらず「悪人連合」とみなされ、裁判にかけられたのだ。「極悪法」の適用にほかならない。この30人のなかで世間から最も注目され批判的な目で見られていたのがフェネオンだった。国家を守るべき軍事省の役人が体制転覆のテロに関わっていたとはなにごとか。そして逮捕後フェネオンが水銀の所持以外いっさい語らず黙秘を貫いていたことも彼への関心をかきたてていた。

 公判でのフェネオンは徹底的に表面的な応答に終始する。質疑の言葉を茶化したり、はぐらかしたりしたのだ。即興的な対応ではある。だがフェネオンは、原告側の弱みを見抜いていた。状況証拠しか持たず、直接的に彼をテロリストとして立証できずにいる弱みを事前に察知していたのだ。だからこそ彼は本番でこのような大胆な逐語的反応に出ることができたのである。フェネオンは冒頭から裁判長の問いをはずしにかかる。

裁判長:あなたはアナーキストですか、フェネオンさん。
フェネオン:私はトリノ生まれのブルゴーニュ地方人です。

 この答え自体に偽りはない。フェネオンはイタリアのトリノで生まれ、父親の故郷のフランスはブルゴーニュ地方で育った。うがった見方をすれば、こう返答することで彼は、一国の支配原理を脱していることを暗示して、遠回しにアナーキストだと肯定していたのかもしれない。ともかくも彼は幼少時から生活に窮した形跡はなく(父親は外交販売員の職にあり最終的にはフランス銀行の帳簿係)、高校での成績は優秀(とくに歴史と幾何学において)、軍事省の入省試験は60人中1番だった。その軍事省の彼の事務所で見つかった爆薬の道具(雷管と水銀)は父親の死後にその所持品を持ち帰っただけだと、彼は逮捕後、予審判事にうそぶいていたのである。以下、公判当日の裁判長とのやり取りの抜粋である。

裁判長:あなたは外国人アナーキストのカンプフマイヤーの親しい友人でしたね。
フェネオン:おお、親しいとは、強調しすぎです。そもそも、カンプフマイヤーはドイツ語しか話せず、私はフランス語だけです。我々の会話はどうにも危険なものにはなりえませんでした(会場から笑い)。
〔中略〕
裁判長:あなたはコーアンとオリティズ〔ともにアナーキスト〕に囲まれていた〔「親しい間柄にあった」の意〕ことが確証されています。
フェネオン:誰かを囲むには、少なくとも三人は必要でしょう(会場から大爆笑)。
裁判長:街灯のうしろでアナーキストたちとあなたが話にふけっているのが目撃されています。
フェネオン:裁判長殿、街灯のうしろって、いったいどこのことをおっしゃっているのでしょうか。教えていただけますか(会場より大笑いが長く続く)。
〔中略〕
裁判長:軍事省のあなたの事務所で11本の雷管と水銀入りのフレスコが発見されました。どこからお持ちになったのですか。
フェネオン:少しまえに父が他界しました。石炭バケツのなかにあったこれらの管を見つけたのです。ちょうど引っ越しの間際でして、それらが雷管だとはわかりませんでした。
裁判長:予審のときにお尋ねしたご母堂の言明では、ご尊父は路上でそれらを見つけたとか。
フェネオン:ありうることですね。
裁判長:ありえないことです。雷管が路上にあったりしません。
フェネオン:予審判事は私にこう尋ねたのです。どうして軍事省に持ち帰る前に窓から捨ててしまわなかったのか、と。ここから明らかなように公道でも雷管を見つけることができるのです(会場から笑い)。
裁判長:ご尊父がそんなものを所持していたとは思えません。フランス銀行にお勤めだったのですから。彼がそれを何に使おうとしていたのか理解できませんよ。
フェネオン:父がそれを使う予定だったとは私も思いません。その息子も同様です。軍事省に勤めていたわけですか(4)

(フェネオン「30人訴訟」)

 こうした応答に裁判長ははらわたの煮えくり返る思いを味わったことだろう。一見して内容のない戯言ざれごとの連続のように見えるが、そこには笑いへの深い洞察があったと思われる。無意味、荒唐無稽、無節操。まじめなものを無へ導くアナーキーな力と意図が彼の茶化しの言動の根底にあったと私は思う。それは、新しい絵画の動向や未開民族の宗教遺物に感じ入る彼の感性と同じ方向を持っていた。笑いも芸術も宗教も、根源にはアナーキーな情念があるのだ。

5 潜在的な炎

 フェネオンが文筆家として尊敬していた先人はボードレールとユイスマンスだが、ボードレールとの影響関係は文筆を超えた面にも及ぶ。つまり古典主義美学の支配に抗った前衛の美術評論家としてのボードレールだけでなく、その象徴主義の思想、ダンディズムの実践、そして笑いの哲学にまで及ぶ。象徴主義との関係では、同じくボードレールを尊敬していた詩人マラルメとの交情も重要だろう。「30人訴訟」の公判でマラルメは弁護側証人に立って、フェネオンを「優しく、律儀で、きわめて繊細な精神の持ち主」と証言し、芸術以外の主題に手を出すような人物ではないと擁護した。マラルメの主催する「火曜会」に足しげく通った若きフェネオンに対する印象がもとになっている。これはこれで傾聴に値すると思うが、ハルペリンはむしろ悪の側からフェネオンを次のように断じた。

 ボードレールによれば、ダンディは犯罪に走ることもありうるという。ただし、どうでもいい理由からでは絶対にない、と。フェネオンが1894年に逮捕されたときに、法の目から見て彼の振る舞いは犯罪であると、様々な証拠がはっきり立証していた。彼の無罪放免は、大部分、彼の完璧なダンディズムに負ってい(5)

(ハルペリン『フェリックス・フェネオン』)

 ハルペリンは、公判のさなかのフェネオンの言動、容姿、立ち居振る舞いにダンディズムの極致を見出して、そのいわばオーラが法の支配を覆したと判断している。ダンディとはどのような人を言うのだろうか。ボードレールは彼の美術評論の代表作となった『現代生活の画家』(1863)で一つの章をダンディにさいている。彼が説くダンディの外面性と内面性、歴史性と社会性についてはここでその詳細に立ち入ることができないが、ボードレールのダンディにおいて重要なのは、他者との相違を強調しつつ他者を感嘆させるという矛盾した傾向だろう。これはバタイユの『至高性』と通じる議論である。かつて王侯貴族や高位聖職者は贅沢な装いとプライドに満ちた振る舞いで周囲の人間を圧倒していたが、その意義は彼らの身分の高さを証拠立てるところにあった。だが1789年のフランス革命以後の近代社会では、そのような華やかな特権階級の自己顕示はもはや否定的に見られていき、生産性を重視する経済構造からも無駄な消費と非難されていく。しかしそれでもダンディの核心部分、つまり通常の人間性を超える面、そしてそれに魅せられる周囲の人間の心情は存続した。ダンディはこの二つの面をわきまえ、冷静に対応する。ボードレールによれば「ダンディの美の特徴は、心を動かされまいとする確固たる決意による冷ややかな外面にある。それはちょうど潜在的な炎のようなもので、外に輝き出ることはできるがそう欲せず、しかし見抜かれるようになる、そのようなものなのだ」(ボードレール『現代生活の画家』第9章「ダンデ(6)」)。この炎がアナーキーなのである。道徳の支配も美の規範も覆し、無の生命力を蔓延させる起爆力のことなのである。笑いはこの潜在的な炎の露骨な出現なのだ。

6 近代人は働くミイラ

 バタイユの思想に通底するのは否の情念である。第2次世界大戦後は、より尖鋭に、また理論的に、これを展開した。『呪われた部分』(1949)の「蕩尽」もそうだし、『エロティシズム』(1957)の「侵犯」もそうである。否定の情念の変奏曲なのだ。もちろん否定だけで人間はやっていけない。生産なくして無益な消費はないし、禁止なくしてこれを侵す欲望も生じない。バタイユは生産も禁止も情念の次元に根源を見ていて(生の衰退に見ていて)、その必然性を肯定していた。ただし近代人は生産活動も、禁止の制度も、理性の名のもとに制度化し固定化し、人間的かつ文明的な所作だと吹聴していった。この近代人の主張の根底には静態的な物の存在を重視する思想がある。科学革命、産業革命、政治革命、これら近代を形成した3大革命はあげて物を作ることに収斂しゅうれんしていった。作り出されるのは物品だけではない。人間も一様に教育され、規格品のごとく社会へ産出されていった。代替可能な人材の産出である。ナンバーを付されて認知されていくような、フェネオンの言葉をかりれば「番号札をぶらさげる」市民の誕生である。
ではなぜ近代人はそんなにも物を作り、自分をも物にしたがるのか。それは物が有用だからだとバタイユは看破した。近代人は有用な物になって意味ある存在になりたがる。何かの役に立って、その何かに従属することにより、自分の存在意義を獲得したがる。これはその実、自分自身の身売りにほかならない。存在意義を手にしたとき、その存在は、道具のように、歯車の一片のように、形骸化しているのだ。役に立つ労働に従事して、意味ある人生を日一日と送って、生き延びていく。「労働とはミイラになった魂を保存しておく塩なのではあるまいか」(ボードレール『火箭ひや』(遺(7)))。「有用な人間であるのはいつも私には何かひどく醜悪なことに思われた」(ボードレール『赤裸せきらの心』(遺(8)))。

7 アナーキズムも花火ように散っていく

 『火箭』も『赤裸の心』もボードレール晩年の未完のアフォリズム集である。火箭(フランス語でfusées)とは聞きなれない言葉だが、打ち上げ花火や信号弾のように火花を四方に放つ爆発物を指す。ボードレールは暖炉のまきが赤く燃え上がってパチパチと弾ける様を好んだ。「潜在的な炎」が赤裸になって、無意味に、無益に、無用に、表出し燃焼する様である。ミイラのごとき近代人が忘れてしまった生き方だ。

 第2次世界大戦直後、1946年のフランスで、このようなボードレール晩年の遺作がそのほかの彼の覚書、書簡とともに『内面の手記』(Écrits intimes)と題されて刊行された。序文を担当したのはサルトルである。彼は翌年このかなり長尺の序文を『ボードレール』の題名で単行本にして出版した。この書で、サルトルは、自身の実存思想と戦後フランスの再建を念頭に、この詩人を主体的な人格形成を意図的に怠った確信犯的な近代の落伍者と決めつけて、手厳しく批判した。バタイユはこのサルトルの批判書にいち早く反応して(単行本化される前に)論文「《赤裸の》ボードレール」を書評誌『クリティック』(1947年1–2月合併号)に発表し、10年後にこれをさらに文芸評論集『文学と悪』(1957)に再録して世に問うた。こちらはボードレール擁護論である。ボードレールの思想上の未発達・未成年・未成熟への選択は、詩の選択であり、人間の選択だったと、大きな視点から弁護したのだ。人間も詩も近代では個物として扱われる。これに根源的に反抗したのがボードレールだったというのだ。「人間は自分を断罪するのでなければ自分を徹底的に愛することはできない」とはこのボードレール擁護論の主題である。そしてどの詩人も、内面に人間の情念をたぎらせているかぎり、詩はおのずとその物体化した姿を否定していく、と説いた。詩文に凝固したその姿を詩人は憎悪して、これを無化していく。詩の本質は「詩への憎悪」なのだとバタイユは主張した。伝統的な定型詩からなる『悪の花』から自由な形式の散文詩『パリの憂鬱』への変化もこの「詩への憎悪」の一環と受け取れよう。戦後のバタイユは、神は神の死へ、神話は神話の不在へ向かうと強調した。「至高性」(souveraineté)も一国を支配する「主権」なる原理を「無」へ否定しくところに本質があると彼は見ていた。1950年代半ばに執筆が進められた彼の理論書『至高性』でも冒頭で主張されるのはこの無を志向する「反抗」なのである。その意味では、反抗の情念に燃えるかぎり、アナーキズムもアナーキズムへの否定へ向かうと見ていいだろう。「潜在的な炎」が無用な「火箭」に華々しく散っていくところにアナーキズムの本質があるのかもしれないのだ。その政治上のダイナミックな動きは、バタイユが次のように説く自然界の広大な生と死の反復の動きの一環なのかもしれない。「ともかく、すべてはちょうど花火のゆっくりした爆発のように起きているのだ。つまりこの爆発からは生と死のアラベスク模様が様々に生み出されてゆくのだが、この爆発はそうしながら自分のこの動きを休むことなく続けている(あるいは激化させている)ということなのである。もしも死それ自体をも浪費とみなすのならば、自然界のすべてのものが浪費だということになる。すべてが浪費で過剰だということにな(9)」(バタイユ「ヘーゲル、人間と歴史」(1956))。

 フェネオンのダンディズムもこのような華麗な花火の四散の一光景だったのだろう。これを何かに役立てる意図など彼にはなかったのではあるまいか。少なくとも、そのエレガントな姿を国家公務員の自分のステータス・シンボルに仕立て上げるといったブルジョワのあまりに卑俗な発想は彼には無縁だったろう。逆に彼は、表面化したダンディズムはその死を志向することをわきまえていたと思われる。どれほど品よく豪勢に隙なく振舞っても、その姿は一瞬のうちに形骸化し、笑いの対象になることを彼は冷徹に見抜いていたにちがいない。他者への彼の冷笑とともに、他者からの笑いもまた、人間の潜在的な情念の現れであるのだと、笑いはあのシニャックの港湾画にあるような明るさとスーラの海景画にある儚さをともに体現する動きだと、フェネオンは気づいていたにちがいない。

8 笑いの悪魔性

 ボードレールは笑いについても重要な発言をしている。たとえば次のような定義をくだしている。

 笑いは悪魔的なのだ。笑いは深く人間的なのだ。人間のなかには人間自身が優越しているという考えがあり、その帰結が笑いなのである。だがじっさいのところはこうなる。笑いは、本質的に人間的であるゆえに、本質的に矛盾しているということだ。つまり笑いは無限の偉大さのしるしであると同時に、無限の悲惨さのしるしでもあるのである。この無限の悲惨さとは人間がその概念を持つ絶対的存在に比してのことであり、無限の偉大さとは動物に比してのことだ。笑いが生じるのは人間においてこれら二つの無限が衝突しているからなのだ。滑稽さ、つまり笑いを引き起こす力は、笑う側にあるのであって、笑われる側にはぜったいにな(10)

(ボードレール『笑いの本質について、一般的に言って造形芸術における滑稽さについて』(1855)第4章)

 ボードレールはパスカルの説いた二つの無限を前提にして笑いを定義している。パスカルによれば、神は偉大なる無限であり、動物や植物の自然界は自らを救えず悲惨な無限状態にある。人間はその中間地点にいるというわけだ。人間の知性は神の無限を体現し、人間の肉体は自然界の無限を体現するというキリスト教の発想がベースにある。ボードレールのこの笑いの定義で重要な点は二つある。一つは、人間は笑う側に立つし、笑われる側にも立つという矛盾した存在だという点。もう一つは、笑いは悪魔的だという点である。後者の点においてボードレールは、神は人間の惨めさを笑ったりしない、これを笑うのは悪魔だというキリスト教の通念に従っている。だが優越する偉大さが笑うとなれば、神も笑っていいことになろう。悲惨な状態の人間を笑ってもいいことになる。

 このようなキリスト教の通念の支配を破って書かれたのが、『悪の花』「反逆」所収の詩「聖ペトロの否認」である。ボードレールが当局からの断罪を恐れていた作品だ。じっさい冒頭から神は、人間の悲惨さはおろか自分のために死んでいった殉教者の悲劇にも、自分を呪う叫びにも動ぜず、むしろそれら人間の不幸を安眠剤にして、すやすやと眠り、またぞろ暴飲暴食の暮らしを思うがまま続けるのである。

 神はそうして十字架上のイエスをも笑うのだ。イエスの最大の落ち度は神を善なる偉大さと捉えた点だろう。当時のユダヤ教を支配していたのは戒律重視のファリサイ派と神殿崇拝重視のサドカイ派だったが、イエスの主張は神自身に神の動きの自由を返した点にある。つまり戒律を遵守すれば、神殿に詣でて献金をすれば神はユダヤ人のために動くとした、人間の行為優先の発想を退けて、神は神自身の意志でユダヤ人を救いにくると唱えたのである。だがユダヤ人を救いにくるというのはいまだユダヤ人イエスからの思い込みにすぎない。神にはイエスを救わないという選択肢すらある。さらには神に期待するイエスを愚弄する選択肢もある。

 ペトロはイエスの一番弟子だった。最後の晩餐のあと、イエスはペトロに向かって、お前は私の弟子であることを三度否認することになると予言し、じっさいイエスの捕縛後そうなるのである。自分の保身のために師をも裏切る人間の弱さがここに象徴的に語られる。新約聖書の有名な場面だ。だがボードレールはまったく逆に「彼はよくやった!」とペトロへの賛辞でこの詩をしめくくるのである。この賛辞は作者ボードレールの介入なのだろうか。それとも神の気ままな介入なのだろうか。

 この詩「聖ペトロの否認」でボードレールはいったい何が言いたかったのだろうか。キリスト教神は悪魔だと言いたかったのか。キリスト教信仰を汚したかったのか。そうではあるまい。あの「潜在的な炎」の偉大さを、火箭となって表出する情念の偉大さを言いたかったのだろう。それは、悪魔的、と規定するよりもむしろ、人間の道徳判断を超えた、善とも悪とも断じきれない力の偉大さと言うべきなのだろう。それこそが神であり、人間の本質なのだ、と。弟子のように下位の立場の人間にもその偉大さはあるのだ、とボードレールは言いたかったのだろう。
 バタイユが好んだニーチェの断章を最後に添えておこう。彼のボードレール論のなかでも引用されている神的な笑いの断章である。「悲劇的な人物たちが没していくのを見て、深い理解、感情、同情を覚えるのにもかかわらず、彼らを笑うことができるということ、これは神的なこと(11)」(ニーチェ、1882–84年の遺稿断章)。この笑いは反人道主義でも非道な野蛮さでもない。ニーチェは善の感情によって人間相互が結びつくことの重要性を知っていた。だがまた、それに収まらない欲望を人間が抱え持つことも知っていた。バタイユは『有罪者』(1944)の作者である。この題名は作者がどれほど善を意識していたかを逆説的に物語っている。『文学と悪』の題名も同様だ。にもかかわらずバタイユは「至高性」を欲した。ニーチェは『善悪の彼岸』(1886)を出版できたが、バタイユは善悪の枠組みを超える「至高性」を書物化できなかった。『至高性』は未完の遺作である。そうなった理由はいくつもあろうが、ニーチェよりもいっそう神的な笑いの近くにいたからなのかもしれない。アナーキーな「潜在的な炎」と「火箭」のごとき表出の近くにいたからなのかもしれない。「私はニーチェ以上に非-知の夜に傾斜した。この沼地に彼は滞留しなかったが、私は埋没するがごとくそこで時を過ごしてい(12)」(『内的体験』(1943))。バタイユは『至高性』を執筆していた1950年代においてもまだこの告白の境地にいたのかもしれない。「非-知の夜」のなかでの笑いにいまだ取りつかれていたのかもしれない。

連載第7回は、2025年1月10日(金)公開予定です。

(1) Félix Fénéon, « Certains », Art et Critique, 14 décembre 1889, in Félix Fénéon, Œuvres plus que complètes, textes réunis et présentés par Joan U.Halperin, tome I, Genève, Librairie Droz, 1970, p.172.
(2) Joan U.Halperin, Félix Fénéon, Art et anarchie dans le Paris fin de siècle, traduit de l’anglais par Dominique Aury avec la collaboration de Nada Rougier, Gallimard, 1991, p.267.
(3) Ibid., p.267-268.①のフェネオンの引用は『外部にて』紙の「歓声、怒号、痩せた笑い」の欄(1892年5月1日)に寄せられた匿名の文章である(Félix Fénéon, Œuvres plus que complètes, textes réunis et présentés par Joan U.Halperin, Droz, 1970,p.898-899)。②は雑誌『絶対自由主義誌(La Revue libertaire)』の「扇動」の蘭(1893年12月15日)に掲載されたもの(Ibid., p.932)。③も同誌の同じ欄(1894年1月1日)に掲載されたもの(Ibid., p.937)。なお、最近出版された次の資料集でもこれらの引用文を読むことできる。Félix Fénéon, « J’ai trouvé un flacon de mercure... », choix de textes anarchistes 1884-1895, Le bon voisin, 2023 (①p.112,②p.186,③p.194).
(4) Ibid., p.322-323. L’Objet d’art, hors-série, no.143, octobre 2019, « Félix Fénéon », p.21.
(5) Ibid., p.36.
(6) Baudelaire, Œuvres complètes, tome II, texte établi, présenté et annoté par Claude Pichois, coll.Pléiade, Gallimard, 1974, p.712.邦訳は『ボードレール批評2』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年、196頁。
(7) Baudelaire, Œuvres complètes, tome I, texte établi, présenté et annoté par Claude Pichois, coll.Pléiade, Gallimard, 1975, p.663.邦訳は『ボードレール批評4』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年、62頁。
(8) Ibid., p.679.邦訳は『ボードレール批評4』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年、86頁。
(9) OCXII365,邦訳は『純然たる幸福』拙訳、ちくま学芸文庫、2009年、264頁。
(10) Baudelaire, Œuvres complètes, tome II, op.cit., p.532. 邦訳は『ボードレール批評1』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年、227頁。
(11) ニーチェのこの笑いの断章については拙訳『ニーチェ覚書』(バタイユ、1945)の訳者解説「軽さと批判」を参照されたい。
(12) OCV39, 邦訳は『内的体験』江澤健一郎訳、河出文庫、2022年、70頁。

執筆者プロフィール

酒井健(さかい・たけし)
法政大学教授。著書:『モーツァルトの至高性──音楽に架かるバタイユの思想』(青土社)、『バタイユ入門』(ちくま新書)ほか多数。訳書:バタイユ『純然たる幸福』『ランスの大聖堂』『エロティシズム』『ニーチェ覚書』『呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽』(以上、ちくま学芸文庫)、『ヒロシマの人々の物語』『魔法使いの弟子』『太陽肛門』(以上、景文館書店)ほか。

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