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連載*バタイユとアナーキズム 第5回

 法政大学教授の酒井健先生による連載『バタイユとアナーキズム──アナーキーな、あまりにアナーキーな』が始まりました! 全ての「主義」に批判的であったジョルジュ・バタイユの思想に全方位から迫り、現代日本社会の「アナーキズム」思潮を根源から問い直します。 

 第5回は「頭部への否定」と題して、1970年11月25日の「三島事件」の記憶から語り出します。三島由紀夫、そしてバタイユがこだわった「すべてを否定し反転させるこの世のアナーキーな摂理」とは何か、根源から考えます。

頭部への否定

酒井健

1 三島事件

 その日、帰宅して夕刊を手に取ると、第一面の左半分に大きく縦長たてながの写真が掲載されていた。

 逆光のモノクロ写真であるため、映像の細部の識別に少し時間を要したことを記憶している。

 大きな窓から光の入る室内の光景で、乱雑な感じがして、どうしてそんな写真が第一面に掲載されるのか、理由が判然としなかった。

 だがしばらく見ていると、人の頭部らしきものが床にある。それが同じ第一面右に大きな見出し字で示された三島由紀夫の頭部であることに気づくのに私はさらに時間を要した。そんなはずはあるまいと思っていたからだ。

 1970年(昭和45年)11月25日水曜日。高校1年の私は仲間と近くの立ち食いそば屋で昼食をとっていた。月見そばに、だしに使った昆布の細切りを無料でたくさん盛ってくれるのが、うれしかった。

 カウンター越しの調理場のラジオからは、いつになく騒然とした音声が響いてくる。ヘリコプターの音らしき騒音に交じって、なにやらリポーターが実況で報告をしている。焦った声でしきりに、三島が、三島が、と繰り返していた。それが三島由紀夫のことだとは思い至らぬまま、私は店を後にした。もしかしたら、今読んでいるあの作家の三島由紀夫のことかもしれない。校舎への帰路、そんな思いが私の脳裏によぎったとき、もう三島由紀夫の頭部は肉体から切り離されていた。

 世に言う三島事件である。この日、三島由紀夫は自身の創設した武装グループ「楯の会」のメンバー4人とともに東京、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯部を訪問、総監室を占拠し、さらにバルコニーに立ち、集められた自衛隊員に向け、憲法改正のため決起するよう檄を飛ばしたが受け入れられず、総監室に戻って割腹自殺を遂げた。事前の三島の指示に従い「楯の会」の一人が日本刀で介錯かいしゃくを施し、三島の頭部はその場に切り落とされた。

2 無のはずが別の有を、有のはずが別の無を……

 この当時、私のクラスには文学好きが何人もいて、『文章読本』を谷崎潤一郎から順に読んでみようとなり、川端康成のそれを読み終わり、三島由紀夫の『文章読本』に入ったところだった。

 私が三島の文章と出会ったのは中学2年のとき、文房具屋で買った日記帳の最後の十数ページに日本人作家の名文紹介があり、そこに『金閣寺』の一節があったのである。

金閣は雨夜の闇におぼめいており、その輪郭は定かでなかった。それは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのように立っていた。

(三島由紀夫『金閣寺』第10章)

 古語の「おぼめく」が絶妙に現代に甦って息づくが、文章はさらにこう続くのである。

幻の金閣は闇の金閣の上にまだありありと見えていた。

(三島由紀夫『金閣寺』第10章)

 主人公がこの名刹めいさつ灰燼かいじんに帰せしめる直前の夜の光景である。暗闇の池の上に黒い結晶として立つ金閣の上に、幻の金閣が燦然さんぜんと浮かんで見えてくるというのだ。目の前は無であるのに、何か別の有が立ち現れてくるのである。

 クラスは違っていたが、モーツァルトの真髄をしきりに私に説く友人Hがい(1)、彼はまた三島の大ファンであり、当時連載中の『天人五衰』を追いかけていた。雑誌『新潮』が書店に並ぶ日にきまって立ち読みに耽っていたのである。その彼が私に強く勧めてきたのは第一作目の『花ざかりの森』だった。

 題辞のシャルル・クロスの詩(2)がまず素晴らしかった。本文を読んでみると、同じ16歳とは思えない文筆の高さと構想力に私はただ仰天するばかりだったが、しかし最後の一節は不思議だった。今度は昼間の風景で、辺りがよく見えているのに、何もない死の世界が暗示されていたからである。事件の翌朝、いつも聴く7時の民放FM番組のキャスターがこの文章を静かに朗読していたのを覚えている。

 ある貴婦人が、幼少時から南国の海に憧れ、その夢を果たしたのち帰国し純和風の屋敷であまのような生活を送りだしてもう40年、今では、訪れた客人まろうどに南洋の記憶を尋ねられても、「わたくしのどこかにも、そんなものがのこっているようにおみえでしょうか」と、過去の消滅をほのめかし、その客人を海の見える高台の庭へ通すのだ。

まろうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーっと退いてゆくきわに、まばゆくのぞかれるまっ白な空をながめた、なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまって、「死」にとなりあわせのようにまろうどは感じたかもしれない、いのちがきわまって独楽こまの澄むような静謐せいひつ、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。……

(三島由紀夫『花ざかりの森』「その三(下)」)

 後日、友人Hはこの文章が『天人五衰』の最後の場面と酷似していることを教えてくれた。1970年11月25日の午前10時過ぎ、三島由紀夫が自宅の出際に、来訪予定の『新潮』の編集者に残していった第26章から第30章まで140枚の原稿の最後の数枚に記された庭の場面のことである。
主人公・本多繁邦は、かつての友人・松枝清顕まつがえきよたかと綾倉聡子の恋愛の生き証人なのだが、60年のちの夏のある日、今や奈良の尼寺・月修寺の門跡もんぜきとなった綾子のもとを訪ね、清顕とのことを問うのだが、答えは本多の記憶の有を無だと否認するばかりなのである。「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」長い沈黙が流れたあと、門跡は本多を寺の南の庭へ通すのだ。

 裏山を背景に、その庭にはかえでが生い茂り、枝折戸しおりどがしつらえてあり、庭石が置かれ、すべてがしっかり有なのだが、本多は無を覚えるのである。

 これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠じゅずを繰るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞じゃくまくを極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……

(三島由紀夫『天人五衰』第30章)

 現在形で終わるのがいい。庭、夏の陽光、文章は有の現在をのせつつ、無の静けさを伝えている。

 有から無へ、無から有へ、すべてを否定し反転させるこの世のアナーキーな摂理せつりがここに見てとれる。それにこだわったのが三島であり、バタイユであったと思うのだ。

3 最後の対談から

 三島由紀夫は自決の一週間前に文芸評論家の古林尚と対談を行なっている。そのさなかの三島の言葉からとったタイトル「いまにわかります」で死後『図書新聞』(1970年12月12日号)に発表され、今日では「三島由紀夫 最後の言葉」の題名で全集に収められている。その最初のあたりで三島はバタイユについてまずこう述べている。

ジョルジュ・バタイユをぼくが知ったのは、昭和30年〔1955年〕ごろですが、僕が現代ヨーロッパの思想家でいちばん親近感を持っている人がバタイユで、彼は死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係を説いているんです。

(「三島由紀夫 最後の言葉」)

 この親近感の根本は、三島に言わせれば、具体的に今見えているものが全く別に「超絶的なもの」を指し示す点にある。古林尚がすかさず「その超絶的なものが三島さんの場合にはすぐ天皇のイメージに短絡してしまう。そしてエロティシズムはセックス抜きで、観念の高みに飛翔してしまう」と指摘するのだが、三島はこれに答えて「ぼくの場合には、バタイユから啓発されたんで、バタイユそのままではありません」ときっぱり違いを認めるのだ。そしてそのうえで、バタイユ最後の作品『エロスの涙』(1961)にある「中国人の処刑の写真」に事寄せて、こうバタイユへの賛意を述べるのである。

ところがこれ〔残酷さ〕を、バタイユはザッハリッヒ〔即物的〕なものとして扱っていません。あなたもご覧になったと思うけれど、バタイユの著作に支那の掠笞りょうちの刑の写真が出ています。胸の肉を切り取られてアバラが出ている。ひざを切られて骨が出ている。そんなふうにやられている連中が、写真では笑っているんです。痛いから笑っているんじゃないんですよ、もちろん。これはアヘンを飲まされているんですね、苦痛を回避するために。バタイユはこの刑を受ける姿にこそ、エロティシズムの真骨頂があると言っているんです。つまりバタイユは、この世でもっとも残酷なものの極致の向こう側に、もっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体制を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたわけです。ぼくもバタイユに賛成です。

(「三島由紀夫 最後の言葉」)

 『エロスの涙』のバタイユによれば、この写真を彼が初めて知ったのは1925年(バタイユ28歳)のときで、以来、彼はこの残虐な光景に取り憑かれるようになったのだが、1938年のヨーガの実践を契機に「このイメージの暴力のなかに、反転の終わりなき価値〔une valeur infinie de renversement〕を見分けるようになった」(バタイユ『エロスの(3)』)と告白している。目をそむけたくなるようなこの写真に不快や不安、さらに人道的に反感を覚えるのが人の常だろう。これは三島言うところの「ザッハリッヒ〔即物的〕」な反応なのだ。あれこれ目にみえる個物に意識がとらわれているときの人間の反応なのである。しかしバタイユ自身こう告白する。「私は、この図像の暴力から出発して、あまりに反転させられ、恍惚に達してしまったのだ」(バタイユ『エロスの(4)』)。性愛の絶頂時のように彼は、非道徳的に、善悪の彼岸の喜びを体験したのである。

 三島によればこのときバタイユは「超絶的なもの」に触れたとなるのだが、しかしバタイユから見ればヨーガの修行者においてもキリスト教神秘家においてもその宗教的体験の極限では「反転」が起きているとなる。つまり特別な存在物(神、天皇)であっても物でない何かへ逆転が起きていて、これに引き寄せられるようにバタイユの意識も物の次元から離れていくのである。

 バタイユと違って三島はこの「超絶的なもの」を天皇や神と同一視する。これはしかし彼だけでなく、歴代のキリスト教神秘家でも起きていたことなのだ。「神を見る」体験、「神と一体化する」体験と説明することが彼ら神秘家にはよくあった。この体験のさなかに「反転」が生じているはずなのに、「神」という特別な存在物をもちだすのはなぜなのか。

 それは、この「超絶的なもの」を行為の目的に据えているからだろう。「超絶的なもの」に出会う前であっても後であっても、この「超絶的なもの」を、それとの出会いを、行為の目的に設定し、明確に物のように見せているからだろう。そのようにしてさらに「超絶的なもの」を特別な存在物とすれば、その行為は格別に素晴らしいこととして正当化される。

 物の次元にいる我々多くの近代人は、物を獲得したり生産したり、物との関係に日々明け暮れしているが、じつはその対象に設定した物が自分の行為を、これに専念する自分の存在を、正当化してくれているのである。お金を稼ぐために働く。新たに知識を得るために学ぶ。この「お金」、「知識」がいちおう社会的によきこと、必要なことと認知されているため、労働も学習も正しいとされ、これらに向かう人間の存在も正しい存在と認知されている。

 「超絶的なもの」との出会いも、このように物に向かう行為として提示されると分かりやすくなり、またその物が「超絶的なもの」であれば格別に崇高な体験として価値づけされ、これにふける人間に格別な存在理由が与えられることになる。

 戦後の三島由紀夫が軍事演習からスポーツの修練まで行為に取り憑かれていたことはよく知られている。だが同時に彼は「超絶的なもの」を物体化して行為の目標に設定することの卑俗さにも気づいていたはずだ。そのような行為を完遂すればすべてよしなどとはならないことを彼はしっかり認識していたはずである。バタイユの言う「反転の終わりなき価値」を三島は三島ですでに『花ざかりの森』で披瀝していたのではないか。それがこの世の摂理であることを彼はすでに16歳のときにわきまえていたではないか。『金閣寺』の主人公も真夜中に幻の金閣と相対した後、本当に金閣を燃やす行為に出るかいなか、行為の必要性・絶対性に疑問を感じ、ひどく迷ったのちやっと行為に出るのである。そしてその後、裏山(左大文字山)の頂に駆け上がって、ゆっくりタバコをくゆらすのだ。「一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った」(三島由紀夫『金閣寺』)。この小説の最終行である。主人公はまた別の有に向かって生き続けるというのだ。

 1970年11月25日の三島自身の敢為かんいも、これだけで完結しているのではなく、同じ日の午前に『新潮』の編集者に残していった『天人五衰』の最終場面の原稿と対になっているように思えてくるのであ(5)。完遂したように見えて、そのじつ彼のこの最後の行為は反転の摂理のなかに置かれているのではあるまいか。この雑誌の読者はそう思えてしまうのだ。

 ひょっとしたら、同日発行の夕刊の写真のインパクトについても、三島はある程度想定済みで、『エロスの涙』のあの残虐な写真がバタイユにもたらしたのと同じ効果を新聞の読者に期待していたのかもしれない。あの逆光の室内の凄惨な頭部の写真から「終わりなき逆転の価値」を見分けて、即物的ではない何かを感じ取るように、善悪の彼岸に出ていくように、彼はあらかじめ夕刊の読者に迫っていたのかもしれない。

4 バタイユと斬首

 バタイユもまた行為への欲求を強く持っていた。この場合、行為とは、物の次元にある人間社会への介入である。端的に言えば、政治的行為だ。1920年代の彼は現体制の転覆を欲している。未来により良い社会の創設をめざすのが革命だとすれば、彼の政治的欲望は、革命以前、今この時の制度への否定に集中する。現体制の頭部をねとばしたい。まさに無政府的な欲求なのだ。だからこそマルクスの『共産党宣言』(1848)に対しても彼の心をとらえていたのは「公的社会を形成する諸層の全上部構造を空中にけし飛ばさねばならない」(マルクス『共産党宣言』第1(6))といったまさに即物的にして直接的な体制斬首の言葉だった。ただしバタイユが実際に街中で政治行動に出たのは、デモの参(7)と政治集会での演(8)くらいで、転覆行為を実行したことはない。文筆による政治への介入がほとんどだった。

 他方でバタイユは宗教的な欲望も強く持っていた。物の次元からの離脱である。1920年代前半にキリスト教信仰を離れた彼にとって、宗教とは、脱自の果てに神でも天使でもない非物的な聖なる気配に入っていくことだった。だが矛盾したことに彼は「宗教を創設する」(9)ことをも考えるようになる。非物的な聖性を肯定するために、物的基盤として教義や団体を形成することを考えだしたのだ。1936年創設の宗教的秘密結社「アセファル」はその試みだった。

 だがそのように形なき聖性に形ある基盤を与えると、この基盤への顧慮のために聖性の体験が束縛を受け、限定化されるようになる。教義にそぐわない体験、組織に亀裂を生む体験は排除されていくのだ。聖性はその分、俗的になる。物の次元に落とされていく。バタイユはこの矛盾に突き当たった。

 矛盾はまだあった。「アセファル」は「無頭人」という意味であり、頭部の支配を根源的に否定している。人体の上部構造への否定だが、バタイユはこれに政治的な意味合いを与えていた。西欧社会の新たな上部構造、すなわちファシズムの指導層、その独裁政権への否定である。秘密結社で行われた宗教的儀式には社会的な目的が付与され、これがこの儀式を正当化していたのだ。目的が行為を正当化するとなると、その行為は目的の制約を受けるようになる。宗教的行為も、政治という非宗教的な、世俗的目的の制約を受けるにようになる。

 だが最大の矛盾は、バタイユが、無頭人なる名前を冠する秘密結社と雑誌の主導者だったことだ。つまり頭部だったのである。これらの矛盾の解消と無への効果を期して彼はこの秘密結社の末期に自らの首をさらけ出した。供犠の儀式での斬首を望んだのだ。だが執刀者が殺人罪を負うことになり引き受けるメンバーはいなかった。

5 神の不在

 やがて1939年9月に第2次世界大戦が始まり、彼の試みはすべて灰燼に帰す。だがこれを機にバタイユの宗教的体験は純化の道に入る。彼は一人神秘的な内的体験に没頭し、その顛末てんまつを日記に記していった。この道行きで決定的なステップとなったのが新たな友人モーリス・ブランショの助言である。いまだ内的体験に外的な権威や目的を付して、内的体験を正当化しようとするバタイユに対して、ブランショは、そこに物的次元の合理的思考の介入を見て、「体験それ自体が権威なのだ」と言い切ったのである。ただし「その権威は罪滅ぼしされねばならない」とも(バタイユ『内的体験』第2部「刑苦」)(註10)。つまり体験自身のオーラが権威になり、しかし体験終了後にその権威を誇ってはならない、たとえば神の権威とみなして誇ってはならない、むしろ否定されねばならないとブランショは言いたかったのだ。

 この教示を受けた結果、バタイユの内的体験は、その理性の極限で、あの「反転の終わりなき価値」を瞬時に猛烈な勢いで生きることになる。理性の外部たる「未知なるもの」を知へ取り込もうとする動き(「未知なるもの」を既存の神概念につなげて権威づける動き)、これをさらに否定してまた生身の「未知なるもの」に接していく動き(体験のオーラ)、しかしまたこれを一つの知見へと変えていく知の動き(権威づけの再度の発端)、これらの否定の動きをバタイユは反復的に生きるようになる。『内的体験』(1943)の頂点に位置づける命題「非–知は裸にする」に続く文章である。

この命題は頂点であるのだが、次のように理解されねばならない。裸にする、ゆえに私は見る。知がそれまで隠していたものを、だ。しかし私は、見るとなると、知ることになる。じっさい私は知ってしまうのだ。しかし私が知ったものを非-知が再度裸にする。無意味が意味になっても、無意味という意味が消えていき、再度無意味になっていく(可能な限り、終わりなく続くの(11))。
                     

(バタイユ『内的体験』「刑苦」)

 バタイユは後年『内的体験』を『無神学大全』の第1巻にする構想を立てた。神がいないことを説くシリーズ本の先頭に位置づけたのである。ただしバタイユにとって神が不在とは、完全にいないことではなく、人間の心理のなかで存在と不在を際限なく繰り返す事態を指す。存在が否定されて無になり、無がまた否定されて存在になり、といった際限のない反転の動きが神の不在なのである。いや、正確に言おう、神の存在でありまた神の死なのだ。どちらとも断定できない、どこに到達してもすまされない彷徨さまよいへ、バタイユの無神学は読者を導こうとしている。

6 斬首の根源へ

 サルトルは1943年に出版されたバタイユの『内的体験』にいち早く反応し、濃密な批評文「新しい神秘家」を発表したが、それによればバタイユはキリスト教信仰のすたれた近代社会において「未知なるもの」を新たな神に定立して、彼固有の神秘的な体験によってこの新しい神に到達したとなる。サルトルはバタイユのアナーキーな反転の反復を停止させ、その一面だけを捉えてバタイユ像を打ち出してしまったのだ。

 サルトルのこの解釈は、逆に、フーコーやデリダといった新たな世代を脱サルトルへ導き、彼らをバタイユの無神学に接近させることになった。このフランス現代思想の世代にはジュリア・クリステヴァ(1941~)もいる。『斬首の光景』(1998)で彼女はこうバタイユの体験を説明する。

内的体験とは、斬首を必要にする一つの実体変化のことなのであり、さらにこの実体変化において空無の炎が立ち現れるようにするために意識を通り抜けていくことなのである。ジョルジュ・バタイユ以上に多くの危険をおかしてこのことを明示した人はいな(12)。 

(クリステヴァ『斬首の光景』)

 クリステヴァはこう語ったあと、バタイユの秘密結社「アセファル」や同名の雑誌の試みを、アンドレ・マッソンが制作した無頭人のイメージとともに、肯定的に紹介していくのだが、私としてはクリステヴァの上記の言葉を彼女以上に厳密にバタイユの内的体験に差し向けて、実体から「空無の炎」への変化を考えてみたい。

 実体変化とはカトリックのミサの聖体拝領の儀式において赤ワインがイエスの血に、パンがイエスの肉体に、変化することをいう。これは新約聖書の重要な一場面、すなわちイエスが弟子たちとの最後の晩餐においてパンを自分の肉体として、赤ワインを自分の血として、分け与えた場面に典拠している。クリステヴァの言う「斬首を必要にする」とは、そのように物の変化が既存の教義に沿って方向づけられることがないように、理性の覇権を否定するということだろう。物が空虚の炎に変わるためにはまず理性の介入を根源的に否定しておかねばならないのである。

 斬首とは第一には政治の次元で行われる人間の生命の全否定である。つまり体制側が反逆者や異端者の命を完全に消滅させて、背後の反体制勢力や異端の宗派を根絶やしにすることがもくまれている。しかし体制側の意に反して、首を刎ねられた人物が幻影となって甦り、その人物の信奉者たちを鼓舞する話が古代や中世ではまことしやかに語られ広まった。有名なのは、3世紀、パリ初代司教のドゥニが古代ローマ当局の迫害にあって斬首されたのち、自分の首を持ってモンマルトル(パリの地名で原義は「殉教の丘))を下り、しばらく歩いたのち死したとの逸話が広まった。やがて彼の終焉の地と目されるところに聖ドゥニと冠された修道院まで建てられたのである。

 だがこのような話において考えられるのは、聖ドゥニは人物としては、つまり一人の生きた個物としては消滅したが、その空虚が残存者たちの心に何か別の有を出現させていた。つまり根源的な実体変化が起きて、物ではない何か、炎のような何かを生じさせていた。であるのに、周囲の信奉者たちはこれを既存の実体に基づいて、つまり生前のドゥニに基づいて、挿話を作ってしまったということなのではあるまいか。実体変化としては不十分な事態が生じていたと思われる。

 1939年以前のバタイユは、そのような斬首の限定的な実体変化のあいだを彷徨った。クリステヴァの言う「空無の炎が立ち現れるようにするために意識を通り抜けていく」長い旅路だったのである。彼の青春初期の中世研究では、騎士の叙任式で行われるコレ(colée)、すなわち首筋を平手で、あるいは剣で叩いて、戦士への人格変化を期する儀式に彼は出会ったが、これも斬首の限定的実体変化と言えるだろう。雑誌『ドキュマン』に彼が披瀝する図像にも似たような傾向が見出せる。たとえばケルト貨幣の馬の図像の横に数珠のように刻まれた球体もケルトの人頭崇拝の名残であろうし、5世紀エジプトのグノーシス系石片護符に刻まれる「鴨の頭の執政官たち」や「無頭の神」もそうだろう。マッソンが描く無頭人の図も右手に炎を、左手に剣を持たされている。神話の露骨な形象なのだ。

 しかしこうした旅路の中でバタイユに根源的な示唆を与えた教えもあったのである。たとえばフロイトの「死への本能」だ。1930年代初頭からパリにいた岡本太郎は、彼の周囲の前衛芸術家たちの間で「精神分析の問題が強い関心を集めていた」と証言し、とりわけフロイトの『快原理の彼岸』(1920)、その中に示された「死への本能」の与えた影響をこう告白している。

 私は“生”だけに賭けて、ぐらつきどおしだった。“死の本能”を、生きることと同時につかんだとたんに、抑圧されたもの、そして私を不自然に押しとどめていたものが、逆に自分をつき進めてゆくエネルギーとして感じられるようになった。
 私自身の解釈かもしれないが、死に向かってこそつき進まなければならない。私はニルヴァナ(涅槃ねはん)とかキリスト教的楽園というような、究極的なハーモニーなどを望んではいない。生きる限り、生と死の矛盾、その解決、統一を無視したドラマに身をぶつけていきたいの(13)

(岡本太郎『呪術誕生』「死の本能 ― フロイト『快不快原理を超えて』」)

 岡本太郎の描いた《傷ましき腕》(1936)に対するコメントはバタイユに見出せないが、苦しげに腕を折り曲げた人物が失った頭部に赤いリボンの花を咲かせる矛盾こそフロイトから得たエネルギーの発露の表現であったろうし、それは当時のバタイユが共有していた人間の生への見方でもあったろう。無への動きと有への動きの相克である。
さらにまた当時のフランスの前衛たちに与えたハイデガーの影響も見逃せない。『存在と時間』(1927)の「死への存在」にもまして『形而上学とは何か』(1929)の次の言葉は衝撃だったのではあるまいか。

不安の無の明るい夜の中で、実存者の本源的な開示が現れる。すなわちそこに現れて存するのは、もはや虚無ではなく、存在そのものなのであ(14)

 (ハイデガー『形而上学とは何か』)

 不安に陥ると、人は、もはや通常の昼間の生活でのように周囲の実存者たちを個物として識別的に見て取れなくなる。実存者が一様に無の夜に沈むのだ。だがそのとき実存者たちは実存の生々しい姿を呈するようになる。「明るい夜」とは、そのような個物の識別が消えた闇が実は識別的個物によって隠されていた実存の有り様の顕在化でもあるという矛盾を示した言葉なのだ。有(個物としての実存者)が無(その識別の不在)に転じ、その無がまた新たな有(生々しい存在様態)を出現させているのである。バタイユにも、そして三島にも通底する見方がここに語られていると私には思えてならないのである。『内的体験』の「非-知は裸にする」のテーゼと『天人五衰』の月修寺の庭の光景に通底する見方が、である。

連載第6回は、12月6日(金)公開予定です。

(1) 拙著『モーツァルトの至高性』(青土社、2022年)の第1章「個人的体験から」で言及している友人Hのことである。
(2) かの女は森の花ざかりに死んで行った/かの女は余所(よそ)にもっと青い森のある事を知っていた」(シャルル・クロス「小唄」堀口大學訳)
(3) Bataille, Les Larmes d’Éros, OCX627.
(4) Ibid.
(5) この点については拙著『「魂」の思想史』(筑摩選書、2013年)第6章「大和魂の根源へ」の末尾でも触れておいた。
(6) マルクス『共産党宣言』大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波文庫、1984年、54頁。
(7) バタイユは1931年に民主共産主義サークルに加わり、その機関誌『社会批評』に「消費の概念」、「国家の問題」、「ファシズムの心理構造」といった重要論文を次々寄稿した。1934年2月6日の右翼諸団体が引き起こした騒擾事件に際しては、これに対抗する2月12日パリでの左翼諸派による大規模デモにバタイユは友人のレリスらとともに参加している。
(8) 1935年にはバタイユはブルトン派のシュルレアリストと大同団結して反ファシズムの知識人共闘組織「反撃」を立ち上げ、1936年1月にはパリにあるピカソのアトリエ(《ゲルニカ》が制作された大きなアトリエ)で政治集会を開き、演説もおこなった。この集会に参加しバタイユの言動とその情念に感動したのが岡本太郎である。彼は以後バタイユに接近し、秘密結社「アセファル」にも参加するようになる。
(9) バタイユはガリマール版全集第6巻に収められた草稿群「無神学大全のプラン」のなかで秘密結社アセファルとともに「宗教を創設する」意図のあったことを告白している。さらに「宗教の創設とそれに要する努力は、《宗教》が求めているものに逆行する。我々ができることといったらせいぜい宗教を追い求めることであって、宗教を発見することではない」とも断言している(OCVI371)。
(10) Bataille, L’Expérience intérieure, OCV67. 邦訳は『内的体験』江澤健一郎訳、河出文庫、2022年、120頁。
(11) Ibid., OCV66.邦訳は同上書、118頁。
(12) Julia Kristeva, Visions capitales, Éditions de la Réunion des musées nationaux, 1998,p.150、邦訳は『斬首の光景』星野守之・塚本昌則訳、みすず書房、2005年、236頁。
(13) 岡本太郎『呪術誕生』(『岡本太郎の本 1』)、みすず書房、1998年、24頁。
(14) Martin Heidegger, Was ist Metaphysik? , Gesamtausgabe I band 9 Wegmarken, Vittorio Klostermann, 1976, S.114. 邦訳は『形而上学とは何か』(増補改訂版)大江精志郎訳、理想社、ハイデガー選集1、1979年、52頁。なお仏訳はBifur, no.8 ( le 10 juin 1931)のHenri Corbin訳が初出である。

執筆者プロフィール

酒井健(さかい・たけし)
法政大学教授。著書:『モーツァルトの至高性──音楽に架かるバタイユの思想』(青土社)、『バタイユ入門』(ちくま新書)ほか多数。訳書:バタイユ『純然たる幸福』『ランスの大聖堂』『エロティシズム』『ニーチェ覚書』『呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽』(以上、ちくま学芸文庫)、『ヒロシマの人々の物語』『魔法使いの弟子』『太陽肛門』(以上、景文館書店)ほか。

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