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連載*バタイユとアナーキズム 第2回

 法政大学教授の酒井健先生による連載『バタイユとアナーキズム──アナーキーな、あまりにアナーキーな』が始まりました! 全ての「主義」に批判的であったジョルジュ・バタイユの思想に全方位から迫り、現代日本社会の「アナーキズム」思潮を根源から問い直します。 

 第2回は、「現代のアナーキズムからアナーキーな中世へ」と題し、バタイユとともに、中世の教会建築や騎士道の精神の奥深くに潜り込み、その根底に存在する「アナーキーな情念」を探っていきます。

現代のアナーキズムからアナーキーな中世へ

酒井健

1 絶滅政策は狂気か

 前回の冒頭で私は『ニーチェについて』(1945)の序文を引用してアナーキズムに対するバタイユの批判を紹介した。国家にしろ、個人にしろ、独善的な発想に導かれて一方的に他者の生を侵害する態度を彼はアナーキズムとして非難していた。このときバタイユの念頭にあったのはナチスの秘密警察(ゲシュタポ)の所業である。このゲシュタポのターゲットは対独抵抗運動(レジスタンス)に与するフランス人はもちろんのこと、もっと広くユダヤ人すべてに及んでいた。ゲシュタポはナチスの掲げるユダヤ人絶滅政策の手先になっていたのだ。

 一民族の存在を一様に否定し、強制収容所に連行し、全員虐殺する。この政策のおかげで第2次世界大戦中に、500万とも600万とも言われるユダヤ人が犠牲になっていった。ここには理性のかけらもないと人は思う。反人道、非文明、野蛮。裁かれるべきは、ナチスの指導層の狂気であり、これに賛同した当時のドイツ国民の非理性だと人は思いがちである。だがバタイユは違う。もっと根源的に、人類の断ちがたい傾向をそこに見てとっていた。そもそも「人種差別」(racisme)なる言葉では狭いというのだ。

 結局我々は、人種差別という言葉にだまされていると見てよいのではあるまいか。たしかにこの言葉は便利であって、この言葉に我々が代えるべき表現「他者恐怖症(phobie des autres)」や新造語「異質恐怖症(hétérophobie)」は、具体的なもの、簡単に理解できるものを何ひとつ直接的に意味できずにいる。しかし明らかなのは、人種差別が、人類に内在する根源的な異質恐怖症の一つの特殊な様相だということだ。我々とて、この異質恐怖症の普遍的な法則を免れることができずにい【1】

バタイユ「人種差別」(1951)

 人は生来、自分とは異質なものを恐怖する傾向を持ち、この恐怖心に駆られて差別に走り、虐殺を行うまでに至る。異質恐怖症なる名称からは、精神の病を、つまり理性の欠如を連想しがちだが、ここではさらに「人類に内在する」もう一つの傾向を見ておいたほうがいい。それは、対象を認識する、という人類の最も根源的な特性だ。バタイユはこう定義している。

 認識するとは次のことを意味する。既知の事項に関係づけること。つまり一つの未知の事柄を別の既知の事柄と同じものだと捉えることであ【2】

バタイユ『内的体験』(1943)第3部第III章「ヘーゲル」

 まだ知っていないことを、すでに知っていることに関係づけて同一化し、この未知のものを捉える、あるいは捉えた気になる。これが認識の基本だとバタイユは見る。この既知の事柄には知識もあるし、経験則もある。そして先入観や偏見も含まれる。ユダヤ人に対する歴史上の差別的見方が一個の先入観になり、それがすべての未知のユダヤ人に画一的に適応されていったのがユダヤ人絶滅政策の根本だろう。

 ユダヤ人を異質なものと見て恐怖し、どのユダヤ人をも恐怖する心理のなかに、「認識する」という知的な働きが介在して絶滅政策になったのだ。狂気とか非理性でくくれない理性の同一化の働きがそこには見出せる。そしてこれもまたナチス党員だけ、当時のゲシュタポだけとはいえない、人類に内在する傾向であり、我々の事柄でもあるのだ。

2 全部否定あるいはアナーキズムの知的側面

 前回の連載で私はアナーキズムの原理主義化、観念化の問題を提起した。つまり、政治の局面であれ社会道徳の局面であれ、アナーキーな否定の情念は本来、既存の支配原理を否定する情念であったはずなのだが、いつしかこの支配原理の否定それ自体が原理として神のごとく崇拝されるようになってしまうのだ。原理主義に対抗するアナーキーな情念が、敵対する原理主義の根本の在り方に染まってしまう180度の方向転換である。

 今回ここで指摘しておきたいのは、この否定の情念に「認識する」理性が絡んでくる、より複雑なアナーキズムの面である。アナーキズムの知的な側面と言ってもいい。対象への一つの知識に基づいて、これを対象すべてに関係づけて、対象すべてを否定していく全部否定のアナーキズム。それは現代の我々の日常に頻繁に見出せる傾向だろう。ある青年が、一人の他者たる職場の上司から抑圧的な言葉を受けたのを発端に、その上司を否定的に捉えるだけでなく、社会に生きるすべての他者にその否定的な見方を適応し同一化して、たとえば繁華街に凶器をもって繰りだし、話したことも見たこともない未知の人々を手当たり次第に殺害していく。そんな事件が頻発している。ここには未知なるものを既知なるものに結びつけて「認識する」理性の悲劇的帰結が見てとれる。

 認識が悪いと言っているのではない。もしもこの理性の働きを全面的に否定して、その消滅を欲するならば、それもまた、アナーキズムの知的働きの奴隷になることを意味する。『内的体験』のバタイユはこのあたりの事情をよく心得ていて、さきほどのヘーゲルの章でこう述べている。

 いかなる点においても認識は私自身と別個ではない。私は認識なのである。それが私という実存なのだ。だがこの実存は認識に還元されえない。というのも、そんな還元が求めているのは、認識されたものが実存の目的になってしまい、実存が認識されたものの目的ではなくなる事態なのだか【3】

バタイユ『内的体験』前掲書(1943年)

 私は認識するために生きているのではない。生きるために認識しているにすぎないとバタイユは言いたいのだ。これはしかし、認識を軽視することとは違う。それどころか片時も認識と切り離せずに生きているとバタイユは強調を付してことわっている。

 理性的に生きることをバタイユは人間の可能性として重視する。認識とその成果は、誰にあっても、生きることの必要条件なのだ。バタイユから見て、人が生きることとは、そのまま、他者とともに存在することを意味する。認識の成果、例えば法はそのためにある。前回の連載の冒頭で引用したアナーキズム批判をめぐる彼の文言「普通法の違反者を擁護する俗悪な教説には腹が立つ」を想起してほしい。

 ただしバタイユがこのような見地に達するのにはかなり時間がかかった。とりわけ若い頃の彼は、否定の情念に溺れるあまり、全部否定に潜む認識の介在に無自覚だった。認識への軽視によって認識の奴隷になるアナーキズムの罠に彼もまた陥っていたのである。

 古文書学校を卒業しパリ国立図書館の司書になって1年たったころ、バタイユは幸運にもレフ・シェストフ(1866–1938)から私的に教えを授かる機会を得たが、西欧近代を向こうに回して果敢に背理の哲学を説くこの孤高の不合理主義者すらも面食らうほど、若きバタイユは激しい否定の情念に駆られていた。後年の彼の回想によれば「彼(シェストフ)は哲学研究に対する私の度を超した嫌悪にショックを受けていた」。さらに続けて「だが今日私は、彼に耳を傾けて学んだことを思い出して、感動に襲われる。人間の思考への暴力は、思考の完遂でないのだったら何ものでもない。彼は私にそう説いていたの【4】」。

 最初から人間の合理的思考を否定していてはダメだ。合理的思考を極めよ。そのとき思考しえぬものが見えてくる。シェストフはそうバタイユに教えていたのだろう。若きバタイユにはうまく読みとれずにいたが、古文書学校時代に彼を魅了してやまなかった中世の文化も、彼にそう語りかけていた。矛盾を呈しながらも、静かに、こう説いていたのだ。生の魅力とは、知の奥の果てから、その成果の内奥の深みから、人を誘って牽引けんいんする、と。その中世の魅力を追いかけてみよう。バタイユが接していながら十分に全幅を見てとれずにいた中世のアナーキーな情念を、その文化所産から少しく辿ってみたいのだ。彼の思想を導く根底的なものも見えてくるはずである。

3 ベルナルドゥスの教え

 バタイユがパリ古文書学校で学んでいたのは1918年11月から1922年2月までのこと、21歳から24歳までのまさに青春時代のことである。前回の連載で、この時代をともにした同僚アンドレ・マッソンの追悼文を引用したが、その中にはまたこんな証言が記されている。

 彼(バタイユ)が古文書学校に入学したのは、ランスの大聖堂を訪れて、そしてまたレオン・ゴティエの『騎士道』を読んで発見したロマンティックな中世に憑かれていたからである。彼は、《叙任式》前夜の騎士の精神状態で入学試験の準備をしていた。言葉の探究に情熱を燃やし、古典の文章の構文には軽蔑心に満ちていた彼は、ラテン語からフランス語への変化の途上にある半ば野蛮な言葉に惚れ込んでいた。『聖女ユーラリの歌』は、原典予習のときの彼のお決まりの呪文だった。そしてまた、その確実な記憶力で苦もなく暗記した文献学の授業のあれこれの長い列挙文を、彼は、くぐもった声で、うっとりと朗誦するのだっ【5】

アンドレ・マッソン「追悼、ジョルジュ・バタイユ」(1962)

 若きバタイユにおいて中世への関心は、教会建築、騎士道、言葉の三つのジャンルにまたがる。ロマンティックな中世、古典ラテン語の構文への蔑視、中世フランス語の「半ば野蛮な言葉」への好みなど気になるところだが、まずは中世の人自身が自分たちの時代をどう見ていたのか、その自覚を紹介しておこう。シャルトルのベルナルドゥス(1128年頃没)の有名な言葉である。

 我々は巨人の肩に乗った小人のようなものだ。それゆえ、巨人よりも多くのものを、より遠方のものを、見ることができている。ただしこれは、我々の視力がいいからだとか、我々が身体的に卓越しているからではなく、巨人の身丈の偉大さによって高みに持ち上げられているからなのであ【6】

ソールズベリーのヨハネス『メタロギコン』(1159頃)に引用されたシャルトルのベルナルドゥスの言葉

 この場合、巨人とは古代人、つまり古代ギリシア・ローマのとりわけ理性的文明を担った人々を指す。小人たる「我々」は彼ら古代人の偉大さをしっかりわきまえ、尊敬しているというのだ。若きバタイユとは違う姿勢である。そしてその巨人の文明の上に乗っているからこそ、「我々」は古代人よりも多くのものを、遠くのものを、見ることができるとベルナルドゥスは謙虚に自分たちの特性を述べている。ここにすでにアナーキーな批判意識の静かな表明が読みとれる。つまり古代人を盲目的に崇拝せずその文化所産を支配原理にしない批判的な見方、さりとて自分たちを絶大視し支配原理に昇らせようとしない自己批判の意識である。

 ベルナルドゥス自身、そのような姿勢で学生に対していた。彼は、シャルトル大聖堂附属学校の古典学の教師であり、まずは「古典作家を咀嚼そしゃくしたうえでの真の模倣」を厳しく指導したのだが、これは「先人を真に模倣した者のみが、後世の者により真に模倣されるに値する者とな【7】」との信念に拠る。次々に、より高い堅固な肩が作られ、その上に後人が乗ってさらなる視界が開かれる、まさに支配なき「差異と反復」を彼は願っていたのだ。

4 聖母マリア信仰を脱構築する

 これは当時の教会建築にも言えることだった。ベルナルドゥスが堂内の教室で教鞭きょうべんを取っていた時代、すなわち12世紀の初め、シャルトルの大聖堂はロマネスク様式の大伽藍を誇っていた。「ロマネスク」とは「ローマ風の」、つまり古代ローマの建築に似ていて異なるという曖昧な意味である。19世紀初めイギリスとフランスの好古学者がほぼ同時に編み出した用語【8】。じっさい、中世の人々は古代ローマ時代の建築遺構から半円形アーチを学んで模倣し教会堂を建てていったのだが、それらはどれも、全体に不調和な形といい、堂内の薄暗い雰囲気といい、古代ローマ時代の教会建築(その多くは簡素で明るいバシリカ様式)とは趣を異にしていた。シャルトルの大聖堂も、司教フルベルトゥス(在位1006–1028)によって、全長250メートルに及ぶ巨大な地下聖堂(クリプト)が築かれたのである。

図①
シャルトル大聖堂クリプト(11世紀)。筆者撮影

 これは、この大聖堂が聖母マリアの聖遺物(876年にフランス国王によって奉献されたイエス出産時のマリアの産褥衣なる絹の布地)のおかげで巡礼地として人気を博していたことによる。司教フルベルトゥスは巡礼者を地下へと導いたのだ。そうするために彼はさらなる策を打つ。地下聖堂拡大に際して、ケルト時代の大地母神信仰の名残とされる古井戸を取り込み、その水のおかげで彼自身、麦角ばっかく中毒から治癒したと喧伝けんでんし、さらに夢の中に現れた聖母が胸をはだけてその豊満な乳房から彼に母乳を含ませたとも。彼の口から溢れ出たその白い液体が今も残ると、巡礼を誘発したのである。しかも、幼児イエスを膝の上に抱き、目を閉じて瞑想するケルト伝来の聖母子像を地下に祀りながら、である。具体的なご利益やそのための物質(布地、井戸水、母乳)とともに、地底の、内側の、夢幻と瞑想の生の世界へ、フルベルトゥスは巡礼者をいざなった。豊穣祈願や病気平癒の願いからやってきた彼ら巡礼者は、地下聖堂で宿泊するなかで、この不確かな生と交わっていたのである。

図②
シャルトル大聖堂クリプトの古井戸。筆者撮影
図③
シャルトル大聖堂クリプトの「地下聖母」。マリアの閉じた眼はケルトの瞑目を表す。筆者撮影

 ベルナルドゥスも当然、シャルトルの聖母マリア信仰に無関心ではいられなかったはずだ。古代人の肩は、その彼により広い視野を与えて、聖母マリア崇拝を根源的に理解することを可能にした。

 彼自身が乗った巨人の肩、それはプラトン(前427–前347)の世界創生論である。「自然について」と副題が付されたプラトンの『ティマイオス』、正確に言えば、古代ローマ帝国末期にカルキディウスによってギリシア語原典からラテン語に翻訳された『ティマイオス』前半部分(53C3まで)とカルキディウスによる注釈は、ベルナルドゥスに重要な見方を提供した。とりわけ「父(イデア)」が、自らの模像を種子のようにいくつも「母(受容体)」に送って「子」(個々の地上の存在物)を生成するという見【9】、このなかでもとくに「母」が、重要だった。

 そもそもプラトン自身、この「母」には説明に苦慮している。デリダがプラトンのアポリア(難問)として一冊の書物『コーラ(Khôra)』(1993)を上梓したほどだが、ともかくプラトン自身にとって、それは「捉えどころのない厄介な種類のもの」(49A)だった。呼び方も次々に変えている。「あらゆる生成の、いわば乳母うばのような受容者」(49A)、「すべてのものの印影の刻まれる地の台」(50C)、そして「いつも存在している「場」(コーラ、Khôra)」(52A)といったぐあいに。プラトン曰く「これを、何か、目に見えないもの・形のないもの・何でも受け入れるもの・何かこうはなはだ厄介な仕方で、理性対象(イデア)の性格の一面を備えていて、きわめて捉え難いものだと言えば、間違っていることにはならないでしょ【10】」(51A~B)。これを私的に言い換えれば、川のイデア(モデル)の模像を受けとってセーヌ河を、山のイデアの模像を受けとってエトナ山を、海のイデアの模像を受けとってエーゲ海を産出する「母なる受容体」とはいったいいかなるものなのか、ということなのである。

 カルキディウスはこれをあえて「質料」だと言い切った。古代人にとって質料とは4元素(土、水、火、大気)、すなわち地上の事物の原基となる物質を意味していたが、カルキディウスは4元素にすら分化していない根源的で無限定の広がりを考えていた。ちなみに彼は、「質料」という言葉を、プラトン自身の術語ではなくアリストテレスの術語のギリシア語「ヒュレー」(hylē)に典拠しつつ、そのラテン語訳として「シルア」(silua)を用いてい【11】。「ヒュレー」も「シルア」も、もともと「森林」を意味する言葉である。4元素とは別に森林こそ地上の定めなき生の基体として古代人に意識されていたということだ。とりわけ、古代ギリシア・ローマ文明に先立つヨーロッパ最古層のケルト文明においてはそうだった。

 シャルトルは、もともと、このケルト文明を担った一族、カルヌテス族の重要な聖地だっ【12】。大地を母として信仰するケルト・ドルイド教の一大拠点だったのである。その後、キリスト教が西欧世界に入ってくると、ケルトの信仰拠点はどこもキリスト教化されていった。そのケルトの重要な場の上にまるでこれを覆い隠すように教会堂が建てられ、大地母神信仰は聖母マリア信仰に塗り替えられていった。ベルナルドゥスが古代人の肩に乗って目にした光景とは、古代人のあずかり知らぬ信仰の重層的な眺めだった。聖遺物、巡礼者、教会堂といった「存在事物」と、それにつながるかたちで、つまり「ともに存在する」ありかたで、底辺に定めなく広がる「質料」の広大さだったのだ。両層の関係は、どちらの支配も許さないアナーキーな相互刺激の関係だと言っておこう。これはシャルトルだけにとどまらない。母なる質料はラテン世界に無数に立つ教会堂の底流だったのである。そしてそれはまた、バタイユが雑誌『ドキュマン』時代(1929–1931)に異様な物体や人体の映像とともに繰り出す「低い質料」にも、晩年の『エロティシズム』(1957)の恋人たちの「連続性」にも、さらに小説『わが母』(遺作)の、息子を性の交わりへいざなう恐ろしき母性にも貫流すると言ったら、人は驚くだろうか。

5 二人の建築工匠

 もうしばらく中世の教会堂を見ておこう。イタリア・ルネサンス人の目からである。

 ラファエッロ・サンティ(1483–1520)は一般に画家として有名だが、37歳で早逝するまでの最後の7年間はローマ教皇レオ10世(在位1513–1521)に仕える建築工匠でもあった。彼はさらに古代ローマの復興事業の総監督に抜擢ばってきされ、遺跡の実地踏査にあたってい【13】。遺跡といえば聞こえはいいかもしれない。彼らルネサンス文化人からすれば文化財破壊の傷痕である。北方からローマに侵入し略奪の限りを尽くし、最後にはローマ帝国を滅ぼし、その上に王国まで築いた蛮族を彼らは一括してゴート人(あるいはドイツ人)と呼んで憎悪していた。ゴート人がその後中世に残した(と彼らがみなす)建築、つまりゴシック建築も、彼らからすれば、すべて野蛮、非理性、非文明の産物である。その論拠は、建築の構造と美にとって最も重要な理性的な要素(幾何学性、比例関係、対称性)が欠落していることだ。その意味で古代ギリシアの建築原理を古代ローマに伝えた建築家ウィトルウィウス(前80/70〜前15)の『建築十書』は彼らイタリア・ルネサンス文化人にとって建築の聖書であり、ラファエッロもその原典復刻に携わっていたのである。要するに彼らの視点は、既知事項に同一化できないものへの「異質恐怖症」であり、そこからいまだ見ぬ対象をも丸ごと否定していく「認識」のアナーキズムだった。死の前年に教皇レオ10世に宛てて書かれたラファエッロの書簡もそのようなゴート人蔑視一色に染まっているのだが、しかしゴシック建築の尖頭アーチを問題にしだすと、ふと彼は逡巡するのである。野蛮一辺倒では片づけられない中世の精神に触れて、彼は一瞬たじろぐのだ。アナーキズムが、その原点のアナーキーな情念に遭遇した瞬間と言っていい。

 一方ドイツ人らは、今もなお彼らの様式が多くの国々で存続していますが、あら仕上げの、はりを支える持ち送りとしてはますますもって不適当な、うずくまるなにがしかの人像、そして理解しがたい他の奇怪な動物や人像や葉飾りをしばしば装飾として施します。とはいえこの建築(様式)にもある程度の存在理由があります。というのは、それは手を加えていない自然木の枝を折り曲げて束ねて、尖頭アーチを作ったことから誕生したからです。この発明が軽蔑しきれないものであるとはいえ、やはり構造的には弱いのです。なぜなら、ウィトルウィウスがドーリア式オーダーの起源について記述している通り、円柱代わりの、鎖で束ねられたけたで建てられ、棟木や屋根をのせた小屋のほうが、重心(中心)が二つに分かれる尖頭アーチよりもずっと加重に耐えるからです。しかし、数学的根拠によると、半円アーチがさらに一段と加重に耐えます。そのすべての弧線が一つの中心点に引っ張られているからです。それに尖頭アーチは、加重に弱いだけでなく、円という完全な形を好むわれわれの眼には優美さに欠けると映じます。自然それ自体が円以外ほとんど他の形は求めていないのを眼にされるでありましょ【14】

ラファエッロ「ローマ教皇レオ10世宛て書簡」小佐野重利訳

 ラファエッロは既知事項へ撤退していく。数学的構造の建築原理を説くウィトルウィウスへ、そして造物神は円と球の幾何学のイデアをもとに自然界を創造したとする『ティマイオス』のプラトン【15】。しかしその直前に彼は一瞬、中世の尖頭アーチにほだされる。そこにもう一つの自然があることに気づき、心を動かされている。ロマネスクの半円アーチの肩に乗って新たに尖頭アーチを編み出したゴシックの人々の精神が、決して理性も円も軽視することなく、むしろ尊重しながら、森林の樹木のあのアナーキーな生命感に忠実であろうとしたことに彼はここで瞬時思いあたっているのだ。この瞬間のラファエッロは、あの「母なる受容体」の説明に苦慮する『ティマイオス』のプラトンに近かったのかもしれない。だが私としては、若き日の彼の涙を想起する。ルネサンスの先達でありながら「質料」の画家として異人であった老レオナルドのアトリエを彼ラファエッロが初めて訪れたときのことである。古代復興運動の発祥の地フィレンツェに戻ってきてこの老大家は、しかし、古代に発する「線の美学」にいまだ従えず、輪郭線を何度もスフマートでぼかしながら、喪に服する貴婦人の肖像を描いていた。この女性をその周囲と背景の自然になんとかつなげようと苦心していたのである。この未完の《モナ・リザ》を紹介されたとき、若きラファエッロは、その深い美しさに感動するあまり、キャンヴァスの前にただ立ち尽くし、さめざめと泣くばかりだったという。

図④
ランス大聖堂(13世紀、フランス)、階廊席(tribune)からみた尖頭アーチ。柱頭には樹葉が豊かに彫り込まれている。その中にときおり奇怪な生き物が姿を見せる(La cathédrale de Reims, éditions la goelette, 1993)

 次にゴシック時代の建築工匠が残した中世の証言を見ておこう。証言と言っても、言葉は少なく、ほとんどがデッサンである。その建築工匠の名はヴィラール・ド・オヌクール。正確な生没年は不明だが、13世紀、北フランスで教会建築に携わり、同業者へのいわばマニュアルとして一冊のデッサン集を残した。今日それは『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』と呼ばれている。

 ここで注目したいのはそのなかの第43番の図版だ。二体の裸の男性像が並び、その隣に、いわゆるグリーン・マン(葉男)の顔が描かれている。この人と植物の異様な混合表現は中世の教会堂に散見する図像であり、異教すなわちケルトやゲルマンの自然崇拝の名残とされている。「シルアヌス(森の神)」とラテン語で名称が彫り込まれた図像もあるほどだ。前者の二つの裸体像については20世紀オーストリアの研究者がこう説明する。「ヴィラールは古代の彫像を模写して裸の下絵を描き、これをゴシック風の線で図に仕上げたの【16】」。古典古代の均斉のとれた男性像を模倣しながら、彼は「比較的小さい頭」、「長い脚」に仕上げてゴシック的な変容を表したというのだ。その根本のモチーフこそ、私に言わせれば、右端のグリーン・マンが明かしている。正五角形の幾何学性、左右の対称性を踏まえながら、そこから出ていこうとするエネルギーが感じられる。森林の樹葉から力を受けて古代から出ていくのが自分たちの時代の美学なのだとヴィラールは語りかけている。日本の研究者によれば「例えていえば、ウィトルウィウスはまさに、その本源にあった意味において古典主義者だったのであり、ヴィラールはゴシックの本質を築くロマン主義者そのものだったのである。前者は格の条理主義にこだわり、伝統に固執し、後者は感覚の自由と造形の新奇を求めて夢見を拡げる。建築制作における二人の基本的な差異がここにあったと認められよ【17】」。

図⑤
『ヴィラール・ド・オンヌクールの画帖』(13世紀)、第43番の図版(Carnet de Villard de Honnecourt, édition Stock, 1992)

6 森の中で愛する人を切り砕く騎士

 トルクァート・タッソ(1544–1595)はイタリア・ルネサンス末期の詩人。彼もまた、中世とルネサンスの違いに自覚的だった文化人だが、前者を一様に蔑視し後者を絶大視する先人の姿勢には染まらなかった。むしろルネサンス人は中世から脱することで大切なものを失ったのではあるまいかと疑問に駆られていたのである。それはたとえば、中世十字軍の騎士を主人公にした一大叙事詩『エルサレム解放』(1581)の一場面にうかがえる。その騎士タンクレーディの精神は、もはや森林の聖性と共存する中世の騎士の精【18】ではなく、この聖性を異質なものとして恐怖する、それゆえに重大な過ちをおかすルネサンス人の、いやそれ以上に、より深刻なかたちでこれを継承した西欧近代人の精神なのである。じっさい晩年のフロイトが、「死への欲動」を披歴する『快原理の彼岸』(1920)のなかで、この場面を感動とともに紹介したことの意義は大きい。不快や不幸を反復せざるをえない人間の傾向、彼言うところの「反復強迫」の深い例証として、フロイトはこの場面に分け入っていく。

そのような運命特性のもっとも感動的な詩的表現を、タッソはその幻想的な叙事詩『エルサレム解放』において与えた。主人公のタンクレーディは、自分の愛するクロリンダを、彼女が敵方の騎士の武具を着て戦ったため、それと知らずに殺してしまう。彼女を埋葬した後、彼はある不気味な魔法の森の奥に入りこんでゆく。そこは十字軍の軍隊すらおびえてしまうような森であった。そこで彼は、背の高い木を切り砕くのだが、木の傷口からは血が流れ、魂がその木のうちに封印されていたクロリンダの声が、一度ならず愛する人を傷つけたといって、彼をなじるのであっ【19】

フロイト『快原理の彼岸』須藤訓任訳

 たまらなくなる一節である。森林に響くこのクロリンダの声こそ、中世人の精神なのだ。人間一人ひとりの可能性を称える自己満足的な近代人にとって、森は木材の調達場所か、立ち入る必要のない危険で無益な暗部でしかない。だがそれゆえにこそ、意識されないまま繰り返し近代人の心を襲ってくる情念があるのではなかろうか。それは個人の壁を尊ぶ近代人には死をもたらす情念と映るかもしれないが、「ともに在ること」を、「愛すること」を、本質においてかなえる情念でもあるのだろう。フロイトを継承してバタイユはそう考えていた。彼が湖に思いをはせて愛を語った次の一節も、そう読める。

 私の心に一番よく浮かぶ愛のイメージは、湖のイメージである。というのも湖は客体でありながら、けっして物体として分離しえないからだ。じっさい湖の水は流動していて、その水面は大空を反映し、湖底の泥土は、目には見えない優しさを湖に与えながら、湖を大地の深みへつなぎ、その大地は地球の長期の変動に応じている。他方で湖畔では岸辺の岩塊が大気の光の中に消えていく。愛の真実はすべて、これらの静謐な局面のうえに宙吊りになっており、そこで我々はこれらの局面の限界を見失っていくの【20】

バタイユ「死すべき存在の愛」(1951)

 融合や合一、連続性は、バタイユが愛を語るときの常套句である。これをロマンティックな思想家の世迷言よまいごとと捉えるのは今でもよく聞かれる解釈だ。だが私には、切実に現在時を生きて思索した人と見えてしまうのである。大がかりな人種差別に、核戦争の可能性にも、近代人の「異質恐怖症」とアナーキズムの帰結を見てとって、これに対峙させるかたちでアナーキーな否定の情念を展開した思想家。異質なものと同質なものの境界線、敵味方の分断線、個々の「存在者」を区切る輪郭線。近代人はこのようなリミットの自分側を盲目的に愛する。バタイユは違う。「限界リミットの支配」が消え、「ともに在ること」が望まれる地平へ近代人の意識を導こうとした。そのような角度から彼の道行きを今一度辿りなおしたいと思っている。

図⑥
ハルシュタット湖。オーストリア。初期ケルト・ハルシュタット文明の発祥の地。原生林、山々、大空が呼応し、湖に反映する。ケルト文明の拠点はこのように自然の深さ・豊かさを感じさせるところが多い。バタイユの心に浮かぶ湖のイメージもこのような景色なのかもしれない。ゴシック様式の教会堂の奥にケルトの人々が岩塩を採掘した洞窟がある。筆者撮影

連載第3回は、9月6日(金)公開予定です。

【1】OCXI98、邦訳は『戦争/政治/実存──社会科学論集1(バタイユ著作集14巻)』山本功訳、二見書房、1972年、79頁。
【2】OCV127、邦訳は『内的体験』江澤健一郎訳、河出文庫、2022年、229頁。
【3】OCV129、邦訳は『内的体験』江澤健一郎訳、232頁。
【4】OCVIII563。なお、バタイユとシェストフの関係については拙論「若きバタイユとシェストフの教え──「星の友情」の軌跡」(『バタイユと芸術──アルテラシオンの思想』青土社、2019年所収)を参照のこと。
【5】André Masson, « Nécrologie : Georges Bataille » , Bulletin de bibliothèques de France, 1962, no.9-10, p. 475.
https://bbf.enssib.fr/consulter/bbf-1962-09-0475-001
【6】ソールズベリーのヨハネス、『メタロギコン』甚野尚志・中澤務・F.ペレス訳、『中世思想原典集成8・シャルトル学派』平凡社、2002年、648頁。
【7】同上書、649頁。
【8】拙著『ロマネスクとは何か──石とぶどうの精神史』ちくま新書、2020年、32–45頁。なお以下の述べられるシャルトル大聖堂の聖母マリア信仰に関しては219–226頁を参照のこと。
【9】「それはともかくとして、差し当たってのところでは、われわれは三つの種族を念頭に置かなければなりません。すなわち、「生成するもの」と、「生成するものが、それの中で生成するところの、当のもの」と、「生成するものが、それに似せられて生じる、その元のもの(モデル)の三つがそれです。なおまた、受け容れるものを母に、似せられるもとのものを父に、前二者の間のものを子になぞらえるのが適当でしょう」(50C〜D)(プラトン『ティマイオス』種山恭子訳、『ブラトン全集第12巻』岩波書店、1975年、80頁)。
【10】プラトン『ティマイオス』(同上書、81頁)。
【11】「彼(プラトン)はその存在を、あるときは「母」と、またあるときは「乳母」と、ときにはすべての生成の「母胎」と、またときには「場」と呼んでいる。後代の人たちはそれをヒューレーと呼び、われわれはシルウァと呼ぶ」(カルキディウス『プラトン『ティマイオス』註解』土屋睦廣訳、西洋古典叢書、京都大学学術出版、2019年、337頁)。
【12】シャルトルというフランス語の地名(Chartres)はカルヌテス族のラテン語綴り(Carnutes)に由来する。
【13】詳しくは拙著『ゴシックとは何か──大聖堂の精神史』ちくま学芸文庫、2006年、154–159頁を参照のこと。
【14】小佐野重利・姜雄編『ラファエッロと古代ローマ建築──教皇レオ10世宛書簡に関する研究を中心に』中央公論美術出版、1993年、14頁。
【15】ヴァチカン宮殿のラファエッロの壁画《アテナイの学堂》(1509–1510)には半円形アーチの中央にプラトンとアリスとテレスが描かれているが、そのプラトンが手に持つ書物は『ティマイオス』である。ラファエッロがこの世界創成論を尊敬していたことがうかがえる。
【16】H. R. ハーンローザーの解釈。藤本康雄『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖に関する研究』中央公論美術出版、1991年、95頁。
【17】藤本康雄『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖に関する研究II』中央公論美術出版、2001年、198頁。
【18】バタイユは1949年『クリティック』誌発表の論考「中世フランス文学、騎士道徳と情念」で、中世ゴシック期初期、12世紀後半の文学者クレティアン・ド・トロワの最後の未完の作品『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』の冒頭の場面、すなわち騎士が森のなかに樹木と共存しつつペルスヴァルの眼前に立ち現れる場面を、キリスト教以前の聖性の出現と捉えて、こう述べている。
「そのような視点でこそ、クレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァル』の次の一節は読まれるべきだと私は思っている。その一節では、春のある日、原始林のなかで生きる若い主人公が、「よろいをまとい──完全に武具を身に着けた──5人の騎士たちのやってくるのを目にする。しかも大きな音──彼らの武具がたてる大きな音をともなって。というのも──カシの木の枝とクマシデの木の枝が──彼らの武具にぶつかっていたからだ──騎士たちすべての鎖帷子くさりかたびらが打ち震えていた。」……主人公の若者は素朴だったので「彼らは天使で、その騎士長は神だと思ってしまう。それほどに騎士長は美しかったのだ。この若者はひれ伏して、崇拝の気持ちを表した。──あなたは神さまなのですか──いいえ、とんでもない、若者よ──では、どなたさまなのでしょうか──騎士なのです」。現実の威信なくしては、理解できない一節かもしれない。しかし文学の表現が、秘められた記憶に導かれて、現実の次元を乗り越えさせてしまうのだ。じっさいこれらの騎士たちの威光は、ペルスヴァルの目には、かつてゲルマンの諸部族のなかの、騎士への通過儀礼を経た若者たちが体現しえた──儀式で体現せねばならなかった──非人間的で聖なる印象を想起させているのである」(OCXI504、邦訳は『神秘/芸術/科学──社会科学論集2(バタイユ著作集15巻)』山本功訳、二見書房、1973年、272–273頁。
【19】『フロイト全集第17巻』岩波書店、2006年、73–74頁。
【20】OCVIII499。

執筆者プロフィール

酒井健(さかい・たけし)
法政大学教授。著書:『モーツァルトの至高性──音楽に架かるバタイユの思想』(青土社)、『バタイユ入門』(ちくま新書)ほか多数。訳書:バタイユ『純然たる幸福』『ランスの大聖堂』『エロティシズム』『ニーチェ覚書』『呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽』(以上、ちくま学芸文庫)、『ヒロシマの人々の物語』『魔法使いの弟子』『太陽肛門』(以上、景文館書店)ほか。

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