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連載*バタイユとアナーキズム 第4回

 法政大学教授の酒井健先生による連載『バタイユとアナーキズム──アナーキーな、あまりにアナーキーな』が始まりました! 全ての「主義」に批判的であったジョルジュ・バタイユの思想に全方位から迫り、現代日本社会の「アナーキズム」思潮を根源から問い直します。 

 第4回は「内的体験のアナーキーな次元」と題して、バタイユ『内的体験』の底流にある「原理否定」のアナーキーな情念を剔出します。ニーチェからシェストフへ、シェストフからバタイユへ、さらにバタイユから私たち読者へと流れる「アナーキーな情念」を徹底的に考えます。

内的体験のアナーキーな次元

酒井健

1 アナーキーをどう捉えるか

 「アナーキズム」という言葉は日本語では通常「無政府主義」と訳される。主義になる以前は「アナーキー」であり「無政府」となるわけだが、本稿ではより根源的に「無原理」、つまり支配的な原理への否定と捉えている。

 第1回の連載で触れたように、この「アナーキー」(anarchy)なる英語の語源はギリシア語の「アナルキーア」(ἀναρχία, anarkhia)にあり、これは元を正せば「欠如」つまり「〜がない」を意味するギリシア語の接頭辞anと「原理」を意味するarkhê(アルケー)の合成語なのである。つまり「原理がない」ということなのだ。

 私は単に語源にこだわってこう述べているのではない。原理を否定するアナーキーな情念に、バタイユをはじめとするフランス現代思想の重要な動機があると思っているからなのだ。そしてもちろんそこに、つまり支配的になった原理を次々否定していく情念に、アナーキズムの源流があると私は思っている。

 今回は「アナーキー」をどこに見るか。どの次元にこの否定の情念を差し向けるのか。「原理」に対してなのか「政治体制」に対してなのか、この違いから話を始めよう。否定する対象の違いをまず見ておきたい。

2 マラテスタの定義

 エッリコ・マラテスタ(1853-1932)。筋金すじがね入りのアナーキストである。全生涯をアナーキズム運動に捧げ、出身のイタリア本国ではむろんのこと西欧各地で活動し、投獄され、追放され、それでも執筆を続けて、重要な足跡を残した。

 彼は英語「アナーキー」に当たるイタリア語「アナールキ(1)」を題名にした小冊子を1891年に出版していて、その冒頭でこの言葉を次のように定義している。

 アナールキアはギリシア語に由来し、正確に言うと「統治体がな(2)」ことを意味する。すなわち強権の構成体なしに、統治体なしに、民衆が民衆自らを支配する状態を意味す(3)

(マラテスタ『アナールキア』)

 マラテスタもギリシア語にさかのぼって「アナーキー」を説明しているが、これを「統治体がない」状態と捉えていて、もっと根源的な「原理がない」状態、「原理を否定する」動きとは理解していない。彼は、民衆を上から支配する統治体を否定して、民衆自身が自らの生活を営む状態を「アナーキー」と定義している。

 彼はまたこの「統治体」を「国(4)」とも言い換えて、国家への否定をアナーキズムだと説明している。

 アナーキスト(我々はその一員なのだが)は「国家」という言葉をよく用いてきたし、今も用いている。この言葉をアナーキストは、行政、立法、司法、軍事、財政等の体制の総体と理解しているが、この場合、これらの体制は、民衆自身の事件の管理を、民衆自身の行為の決定を、民衆自身の安全の保障を、民衆から奪って、これらの管理・決定・保障を少数の人間にゆだねてしまうのである。しかもこの少数の人間は、独裁制の越権行為によるにせよ、あるいは代議員制への権力委託によるにせよ、万人を支配する法の作成権利を握っていて、さらにその法を遵守するように民衆を強いる強制権をも握っていて、必要とあらば万人に向けて武力を行使するのである。
 この意味で「国家」なる言葉は「統治体」を意味している。あるいは、こう言ってよければ、「国家」とは、統治体に具現されるこのような現実を言い表す抽象的で非人称的な名称なのである。この点でこそ「国家の廃絶」だとか「国家なき社会」といった表現は、アナーキストが表現しよう欲する構想に完全に合致している。すなわちその構想とは、強権に基づいたあらゆる政治秩序を破壊することであり、自由で平等な人々の社会を創設することである。つまり社会的責務を成就させるための利害の調和と、万人の自発的協力とに基づいた社会の創設であ(5)

(マラテスタ『アナールキア』)

 マラテスタにとって統治体は民衆社会の悪なのだ。独裁政権でも、合法的な選挙に基づく民主主義政権ですらも悪なのである。どのような政治体制であろうと、統治は民衆社会を抑圧するゆえに、悪なのだ。善は、その反対の社会、つまり統治体なき社会、言い換えれば民衆自身による、民衆自身のための民衆社会である。民衆自身が自由かつ平等な立場で、自律的に、司法・立法・軍事等を担う社会である。

 このようにアナーキスト社会を善、それ以外の既存の社会を悪とする構想をマラテスタは生涯貫いて肯定し(6)。たしかにこの構想を実現する実践に関しては、つまり悪であるところの強権社会を破壊する手段に関しては、若い頃と晩年のマラテスタでは異なる。無差別テロを容認する立場から、これを否定する立場へ彼は変化する。しかし統治体を悪とみなしてこれを否定する彼の情念に変化はなかっ(7)

3 アナーキーなフランス現代思想

 フランス現代思想は、このように善悪の対立を無批判に設定する立場を批判した。この対立図式が近代西欧の思考の支配的な原理になっていたからである。

 私は先ほど「原理への否定」を「アナーキー」なる言葉の意味だと紹介したが、フランス現代思想は単なる「原理への否定」とは異なる。当然とみなされ、無批判に前提にされている原理を明るみに出して、これを相対化していくのである。バタイユをはじめフランス現代思想の推進者たちは、たしかに、激しい批判の言葉を西欧の支配的原理に浴びせてきた。が、しかし全面否定していたのではない。当の原理の支配に亀裂を入れて、その外部を見せようとしてきたのである。

 『善悪の彼岸』(1886)を書いたニーチェはフランス現代思想の先駆者であり、彼もまた善悪の見方を無化せずに、ときに尊重すらしながら、その彼方の提示に努力を傾けた。そうして善悪の此岸しがんと彼岸の間を定めなく彷徨さまよったのである。とりわけ1880年代のニーチェ、キリスト教批判を語り出す彼はそうだった。「神の死」を宣告する狂人が登場するあの有名な断章(『悦ばしき知』(1882)、第125番の断章)で、この狂人は神を求める必要性を広場に集う近代市民に向けて必死に叫ぶのである。ニーチェの立場はどこにあるのだろうか。

 フランス現代思想の推進者たちの文章は難解だとよく言われる。その理由としてニーチェのように主張が確固としていない点があげられよう。アナーキーな否定の情念が、肯定的に繰り出された彼ら自身の主張に対しても差し向けられるのである。支配的原理がない、まさにアナーキーな思想世界なのだ。「分有」(パルタージュ)なる概念を提示して登場したジャン゠リュック・ナンシー(1940–2021)にしても、「分有」が絶対的に正しい存在の見方だと主張しているわけではない。絶えざる否定の流れの中にこの概念を浮かべただけだ。

4 ナンシーの見方

 ナンシーは1983年発表の論文「無為の共同体」で、「内在主義」(immanentisme)という言葉を使って、近代西欧の基本的な考え方を批判した。

 1789年のフランス革命以来、フランスだけでなく西欧全般において「自由、平等、博愛」はあるべき人間の本質として肯定されてきた。自由な人間、平等な人間、全ての人を愛する人間。これが人間の本質的な姿として提示されたのである。そしてこの人間像を頂点に仰ぎ、そのもとに社会を築き、その体制のなかにいること、つまりこの人間像を拝する社会を建設しその中に内在することが求められるようになったのだ。皆が自由で平等で愛に満ちた社会が、めざすべき社会として、すなわち善として、尊ばれるようになったのである。マラテスタの考える民衆の自律的社会もそのような社会の一つだろう。

 だがそこには重大な欠点がある。この「自由、平等、博愛」とは別の人間性(例えば子供らしさ)を尊ぶべき価値として提示する人が否定されてしまうのだ。その社会の外部にそういう人がいる場合、この人は人間的でないと批判され敵視される。社会の内部にいると、白眼視され、ついには排除されたり、よくてもその社会への同質化が強要されたりする。同時にまたこの社会内の同質的な人々の間でも、この理想的な人間像への近さの程度によってくらいづけがなされ、それにともなって差別が生じ、ひどく遠い人間は監獄や病院に送り込まれたりするのである。

 「ところで人間の人間への内在こそが、つまり優れて内在的である存在だと絶対的にみなされた人間こそが、共同体を考えるうえでつまずきの石になっているのである。このような人間たちによる共同体にならねばならないとあらかじめ想定された共同体は、人間の本質の完成というこの共同体自身の本質をそのまま全面的に実現していかねばならないのである。〔…〕だがそうなると、経済のつながり、テクノロジーの実施、政治上の融合(社会体の中での融合にしろ独裁者の下での融合にしろ)が、それら自体でこの共同体の本質を代替的に表現するようになる。いやむしろこの共同体の本質を必然的に体現して、実現していくようになるのである。この共同体の本質が、経済、テクノロジー、政治の局面で影響力を及ぼして、それぞれの部門の本質的な営為になっていくのである。これこそまさに我々が「全体主義」と呼んできたものなのだ。あるいはむしろ「内在主義」と呼んだほうが適切かもしれない。もしもいくつかの特定の社会形態や体制にだけこの「内在主義」なる言葉を差し向けるのではなく、むしろ様々な民主主義とそれらの脆弱ぜいじゃくな法的枠組みを包含ほうがんする我々の時代の全般的な地平をこの「内在主義」なる言葉に見るならば、であ(8)

(ナンシー「無為の共同体」)

 ナンシーはもはや近代西欧に出現したどの国家も内在主義に陥っていたと見ている。じっさい国民の自由・平等・博愛を尊ぶ民主主義国家も、ゲルマン民族の自由・平等・博愛を尊ぶナチス・ドイツも、労働者の自由・平等・博愛を尊ぶ共産主義国家も、それぞれそのような理念のもとに成員が自国に内在することを善とし、外部の国家を悪とみなしてきた。そうして戦争や領土紛争を繰り返し、たとえ互いに同盟や条約を結んでも自国の利害と安全を第一に重視してきた。第二次世界大戦(1939–1945)の反省を踏まえて設立された国際連合の、その頂きの安全保障理事会なるものの欺瞞、とりわけ常任理事国のあの「拒否権」を発動するエゴは今日誰しも知るところだろう。

5 存在論のほうへ

 ともかくナンシーからすれば、本質的人間像を設定して共同体を作る発想それ自体が、西欧の「躓きの石」なのである。言い換えると、近代西欧が尊んできた有益な行為、つまり作品や製品を作る生産的な行為、目標を立ててそれを実現していく目的論的行為が、「内在主義」の共同体の原点にあるということだ。簡単に言えば、共同体を新たに作るという発想を問題視すべきだというのである。

 そして意識を差し向けるべきは、我々が「存在している」という現実なのだとナンシーは説く。我々の根本の「在り方」、つまり内につねに過剰な生命力を抱えていて、それを満たせずにいる在り方、たとえ目標を達成してもそれに留まれず、これを超えていこうと欲する在り方。今の自分に満足できず、そこから出ていこうとする脱自の在り方。我々はそもそもこの在り方を外にさらして互いを刺激しあいながら、そうして互いに脱自を誘発しあいながら共に存在しているとナンシーは見るのである。「分有」(パルタージュ)という言葉で彼が形容する「共存在」の在り方だ。

 小難しい哲学者の世迷言よまいごとに聞こえるかもしれないが、じつに日常的な事態を語っているのである。どの人間からも発している存在感を想起してほしい。誰しもみずからが意図していない雰囲気がおのずと出ているものである。それが魅力になって人をきつけることもあろうし、不快に思われて遠ざけることもあろう。しかし近づけるにしろ遠ざけるにしろ、相手を刺激しているのであり、それに応じて相手からも何か独特の雰囲気が出てきたりするのである。これは自分が発する表情や身振り、声や言葉についても言えることだ。自分が意図する限界を超えて何か余分なものがそれらから発出していて、他者との予期せぬ相互関係が生じているのである。自分の身から発出しているのに、自分の意図以上である何か、理性ではうまく説明のつかない力、存在感とか生命力とでも呼ぶしかないオーラが、人間同士の間で交錯し、何がしか分有されているのである。

 この存在の在り方は、努力して物を作る生産的な在り方ではないし、目標に向かう目的論的な在り方でもない。我々は何か行為をする以前にすでに自分から自分の意図しない力を自分の外へ向けてさらけ出しているのである。そのような生命力の脱自を露呈しあいながら人は存在しているのである。ナンシーはそう見る。言い換えれば、生産的以前、目的論的以前の事態を人間同士生きているのである。ナンシーの言う「無為」とはこのことを指す。そして彼の言う共同体とは、形成される物ではなく、つまり「体」を成さず、むしろ共同性と言ったほうが適切な、曖昧な現象であり傾向なのだ。

 そして彼ナンシーに言わせると、20世紀までの共同体論はどれもこの原点の存在論を無視した、いわば有為の共同体論だった。作品製作と同じ創造的な発想によって、このような無為の存在の在り方に気づかず、気づいても抑圧してきたというのである。この点にこそ共同体論の停滞の原因があると1980年代のナンシーは見ていた。事情は21世紀の今日でも同様だろう。「ホモ・ファーベル」優先の時代に今の我々もいるのである。

6 バタイユの蹉跌

 ナンシーのこの論文「無為の共同体」はバタイユ論の体裁をとっている。それというのも、ナンシーから見て、バタイユが近代西欧の創設的共同体をいくつも生きてその限界に突き当たった思想家、言わば近代共同体論の蹉跌さてつを体現する生き証人だったからである。

 じっさいバタイユは、近代民主主義はもちろんのこと、極左政治集団から宗教的秘密結社まで、ファシズムから共産主義まで、シュルレアリスムから実存主義まで、「共同体を作る」という近代西欧のプロジェクトと間近に接し、ときには自らその試みに出て「躓き」を味わった。そしてナンシーが強調するには、バタイユがそうして最後に辿り着いたのが、出発点の「恋人たちの共同体」だった。その途次で「無形の共同体」や「脱自のコミュニカシオン」を語って、近代西欧の彼岸を垣間見はしたものの、バタイユは結局『眼球譚』(1928)の男女の恋愛関係へ、非社会的で狭い世界へ、例えば『エロティシズム』(1957)やそれに関連するテクストとともに舞い戻ってきて、もはや共同体を考える姿勢を失ったとナンシーは批判するのである。存在論の地平に立ち返って、無為の共存在へ意識を差し向けることはなかったというのだ。

 しかしどうだろうか。最初期のエロティックな小説『眼球譚』(1928)以前にバタイユはすでに近代の外へ、内在主義の善悪観の外へ、出ていたのではなかったか。もちろんそこに留まることができず、その後の彼は「共同体を作る」近代的構想へ彷徨いでることにはなるのだが、しかしその足跡はアナーキーな否定の情念に翻弄される道行きだったと言える。それは「ホモ・ルーデンス」の道行きだったと私は見ている。

7 再びシェストフへ

 本連載では毎回のごとくレフ・シェストフが登場するが、私から見て、シェストフは、バタイユの思想の方向性に影響を与えたキー・パーソンだったのである。実際に生きて、バタイユと言葉を交わした重要人物としてロール、コジェーヴ、ブランショなどきらびやかな名前が次々に浮かぶが、「最も」と形容したくなるのは、バタイユが言葉を発する舞台の裏で暗闇に紛れて生息するがごとくの目立たない二人の人物、すなわちバタイユの父親とシェストフなのである。前者は近代の彼岸を生きた人としてバタイユの記憶の中で生々しく生き続け、後者はその彼岸をたくみに説いた思想の師として彼の精神の中に揺曳ようえいしていた。言い換えれば前者がアナーキーな情念とその見えざる視界を、後者がアナーキーな思想の歴史と展望を、バタイユに舞台裏から断続的に教示して威嚇していたのである。

 シェストフは、1921年11月パリに出てきてからしばらくして、若きバタイユに出会い、その意欲と知性を見込んで自著の翻訳を彼に長女タチアナとの共訳で託した。シェストフがロシアで出版した第二作目の著作『トルストイとニーチェにおける善の観念』(1900)がそうして原文のロシア語からフランス語におこされ、1925年に出版になったのだ。これは、バタイユにとっては、フランスの片田舎で発行した小部数限定の小冊子『ランスの大聖堂』(1918)を別にすれば、自分の正名の付された最初の単行本だった。

 その内容はシェストフらしく既存の定説を覆すアナーキーな主張に貫かれている。キリスト教作家の大御所として名高いロシアの小説家トルストイに善への不信を見てとり、「神の死」の哲学者ニーチェに善へすがる姿勢を見ていくのだから。ただしともに神と善を心底信じていたわけではなく、むしろ深い疑問に駆られていたとシェストフは説く。問題なのはそれを告白するかどうかの違いである。

 ニーチェが信じない地点でトルストイもまた信じていない。だがニーチェはそのことを隠しだてしない(彼は別なことを隠している)。対してトルストイは自分の読者に空虚を、あの心の空虚を語らずにすますことができると思っている。彼はまさにこの心の空虚の上にあのような輝かしい説教の文学作品を打ち立てたのだ。
 ニーチェとトルストイのいったいどちらが正しいのだろうか。自分の疑いを隠したままで教えを人々に説き、それで彼らには十分なのだと期しながら、師につきまとう疑問が彼らに明らかにならないことを願っている姿勢と、全く逆に、公然と語るべきだとする姿勢の、いったいどちらが価値あることなの(9)

(シェストフ『トルストイとニーチェにおける善の観念』第9章)

8 内的体験をどの次元に見るか

 ニーチェは自分の内面を正直に語ったとシェストフは見る。その切り口としてシェストフは「内的体験」なる言葉を持ちだした。その一節は、バタイユが翻訳フランス語とはいえこの「内的体験」という表現(expérience intérieure)を活字にした最初の事例として注目される箇所なのだが、それはともかくシェストフは、アロイス・リールら新カント派の大学教授が込めた意味とは異なる意味でこの言葉を用い(10)。すなわちニーチェの内面の告白を、この世を超越した普遍性の思想体験と捉える19世紀末ドイツのニーチェ解釈を覆す意図でこの言葉を用いたのである。少々長くなるが、バタイユだけでなく、フランス現代思想においても重要な意味を持つ文面なのでその一節を引用しておく。

 読者は想起する。恐ろしい病のせいでニーチェがいかなる仕事をも、いやそれだけでなく、いかなる社会をも、断念せざるをえなくなったことを。彼はたった一人で過酷な発作に苦しみ、自身の思索を短い断章に筆記することしかできなくなったのだ。このような例外的な状況で、《善》の力は深刻な試練を受けることになる。はたして哲学者たちが述べるように、《善》は一人の人間の全生活に取って代わることができるものなのだろうか。ニーチェの哲学はこの疑問への回答なのだ。アロイス・リールのようなドイツの大学教授たちは、《ニーチェの著作はありふれた著作ではなく、内的体験であり、生きられた書なのだ》と認めてはいるものの、しかしそうしながらニーチェの著作からその意義と重要性を剥奪はくだつしているのである。とりわけ、ニーチェの著作が《一人の思想家の内的体験》でしかない、《内的体験の役割をする思索》でしかないと彼らが主張するときには、そうなのだ。ニーチェはしかし彼らよりはるかにしっかりと自分の作品の根源を認識していた。じっさい彼は、根本的な問題について、他ならない彼自身の関心事であった問題について、つまり道徳の問題について、これは彼自身の運命に関わる個人的な問題なのだと言っているのである(原註、『悦ばしき知』第315番の断章)。明らかなのは、ニーチェにおいて重要だったのが《内的体験の役割をする思索》ではなかったということだ。たしかに彼は一人の哲学者、つまり自分の感情を理解できる一人の人間ではあったのだが。ニーチェの《内的体験》は他者たちの関心から独立した抽象的な問題に関係していたのではない。我々すべての人間の生活が形成される問題にこそ関係していたのだ。病気が彼を苦しめ、彼は心ならずも不活動を強いられ、孤独を余儀なくされていたのである。はたして、このような病気とそれに続く状況が、一人の思想家の内的体験を形成しうるだろうか。たとえそうだとしても、いったいそれはどんな場合においてなのか。どんな生が形成されるというのだろうか。ニーチェに起きたことは何百万の人においても起きるし、しばしば我々の目にするところですらある。しかもこの何百万の人はニーチェと同じように自分の不幸に反応することだろう。だが彼らは沈黙する。他の人々によって設定された原理、つまり彼らの苦しみを何一つ知らない人々によって設定された原理に対して反抗の声をあげるすべを知らないし、またあえてそうしたりしないから(11)

(シェストフ『トルストイとニーチェにおける善の観念』第8章)

 ニーチェの病は梅毒だったという説がある。ニーチェ自身は決して病名を明らかにしなかったが、「彼は別なことを隠している」とシェストフが一つ前の引用文でほのめかしているのはこのことだろう。その苦しみは「しばしば我々の目にするところですらある」とする訳文を若きバタイユはいったいどんな気持ちで綴ったのだろうか。彼の父親も梅毒で苦しんでいたのである。

9 彷徨う自分をさらけだす

 だが重要なのは病気の種類ではない。病気そのものである。病気は人間の意志と理性にかかわらず、その外から我々に襲いかかってくる。善と悪の道徳原理とは無関係に、自然界の気まぐれが運命となって我々に到来して、罹病りびょうの不幸になっていくのである。ニーチェは病の発作に苦しみながらもペシミストにならず、「運命愛」、「大地への愛」の教説を語った。この大自然の気まぐれを否定的に捉えるキリスト教の道徳や世界観を批判しながら、「善悪の彼岸」や「永遠回帰」を説いた。これらの教説を披瀝ひれきするニーチェについてシェストフはこう述べる。「彼のさまざまな認識は、彼の内的体験に由来する。あの恐ろしい体験に、である。彼はこの内的体験のおかげで次のような確信に至った。すなわち、病人はペシミストになる権利を持たないのであり、偉大なる作家たちは自分の内面のけがれに復讐しているのであり、皆が神を崇拝するところには結局、一匹の《あわれな生贄の動物》しかいない、という確信であ(12)」。既存の道徳律を虚偽とみなして突破していく、意気軒昂いきけんこうなニーチェだ。

 しかしその一方でニーチェは周期的に回帰する病の発作を恐れ、善悪の此岸に舞い戻って《善》の力にすがりもしていた。「ニーチェは、救いを見出しうるような──自分を苦しめ続ける恐ろしい事態から逃れうるような──別の避難所を探し求める。彼は《善》の方へ大急ぎで向かうの(13)」。シェストフは同じような趣旨で、あの有名な狂人の登場する『悦ばしき知』第125番の断章を引用している。神のいない地平の恐ろしい光景と、それゆえに神を求める必要のあることを狂人に語らせる断章である。のちのバタイユが重視し、ことあるごとに引用する断章だ。

 このようにしてシェストフがニーチェの「内的体験」として際立たせたかったのは、善悪の此岸と彼岸、神の存在と不在の間を彷徨うニーチェ、この二つの間の限界領域を定めなく往還し、その事情を自分の実体験として語ったニーチェだった。言い換えると、シェストフは、ニーチェとともに、プラトンから新カント派にまで至る観念論の系譜上の「内的体験」を実存の次元で甦らせたかったのだ。つまり先験的に存する普遍的理性と人間個々の知性の呼応という観念論的な意味合いから「内的体験」を引き出して、新たに、個々の人間の、それでいて誰にも生起しうる限界体験の意味合いをこの言葉に注ぎ込みたかったのである。人は誰しも、情念が高まると、神と善の限界を超えていき、この世界の豊かな生命力と交わりだす。しかし情念が減じ生命力が衰退すると、神と善のほうへ舞い戻って、これを自分の支えにしたくなる。このような実存の揺れ動きをシェストフは「内的体験」なる言葉に込めたかったのだ。ハイデガーが『存在と時間』(1927)でキルケゴールを持ち出しながら実存の思想を開始する以前のことである。シェストフは無神論的実存思想のさきがけだったと言えよう。より正確に言えば、シェストフは「我々すべての人間の生活が形成される」地平に立って、神がいるともいないとも断言できない実存の状況をニーチェに見出して、この先人と共振した思索者だったということだ。

 ナンシーの存在論はハイデガーの実存的な存在論に骨子を負うている。彼の「共存在」も「分有」も、存在者の存在様態を実存の在り方として強調した『存在と時間』のハイデガーの試みの一帰結、いや新たなヴァリエーションと言えよう。この点についてはブランショの「無為」の概念とともに稿を改めて語りたい。ともかくも、シェストフが明かした人間存在の限界線上を彷徨うニーチェ、それを告白して読者に自分の実存をさらして刺激し、脱自を誘発するニーチェこそは、ナンシーの「無為の共同体」の先駆者と言えるだろう。共同体という言葉も存在論もニーチェが残したテクストには希薄だが、しかしそこには他者との脱自的共存を欲する情念が露呈している。バタイユが1943年に出版した『内的体験』はまさにこのようなニーチェへの応答であり、彼との共同性をさらに読者に向けてさらけだして、読者をも招き入れようとした書だと言える。「私の中で、交わりたいという欲望が生まれるのは、私をニーチェに結びつける共同体の感情からなのである。決して孤立した独創性からではな(14)」。このように読者に向けて告白するバタイユの『内的体験』の舞台裏には、1925年の翻訳書のシェストフが潜んでいる。「原理否定」のアナーキーな思想の師が彼を背後から見つめている。そうしてニーチェからシェストフへ、シェストフからバタイユへ、さらにバタイユからその読者へ、アナーキーな情念が流れて「無為の共同性」が生きられているのではあるまいか。

連載第5回は、11月1日(金)公開予定です。

(1)Anarchia、イタリア語。
(2)senza governo、イタリア語。イタリア語のgovernoをここでは統治体と訳した。
(3)Errico Malatesta, L’Anarchia, https://www.mauronovelli.it/malatesta_l_anarchia.pdf
邦訳では『無政府主義論』(翻訳者名なし)、黒色戦線社・名古屋無政府主義研究会共同出版、1974年(1930年初版本の復刻版)、9頁。
(4)Stato、イタリア語。
(5)Ibid., p.8–9、邦訳では同上書、13頁。
(6)晩年、マラテスタはムッソリーニ政権下のイタリアで隔週誌『思考と意志』を創刊し、毎号健筆を振るった。その第2年次第7号(1925年5月16日発行)の論文「一人の哲学者…あるいは神学者によって評価されるアナーキズム」の中でアナーキズムを善悪の道徳の視点からこう定義している。
「アナーキズムは社会的不正義に対する道徳的反抗から生まれた。
 自分が暮らさざるをえない社会の風土の中で自分自身、圧迫を覚え、他者たちの苦痛を自分の苦痛のように感じ、しかも人々の苦しみの大部分が、自然的にしろ超自然的にしろ峻厳な掟の不可避な結果ではなく、人間の意志に依存する社会的現実に由来し、人々の努力によって除去しうると確信する人々が存在するとき、アナーキズムへ通じる道は開かれる」(Errico Malatesta, ”L’Anarchismo giudicato da un filosofo…o teologo che sia”, Pensiero e Volontà, Anno II, numero 7, p. 154-155, in Errico Malatesta, Scritti, volume III, edizione del “Risveglio”, 1936 (reprint in 1975), p. 171)。
(7)「マラテスタは1876年、23歳の時にロシアのアナーキスト、ピュートル・クロポトキン(1842–1921)とフランスの社会主義者ポール・ブルース(1844–1912)とともに共同綱領《事実によるプロパガンダ》の原案に同意したが、そこで彼らはこう考えていた。すなわち、社会をアナーキスト革命に近づける行為であるならば、たとえそれがひどく暴力的であっても、いかなる行為も容認される、と」(John Merriman, ”L’anarchisme dans les années 1890”, in Félix Fénéon/ critique, collectionneur, anarchiste, sous la direction d’Isabelle Cahn et Philippe Peltier, Musée du Quai Branly, 2020, p. 85)。
 1932年7月22日にマラテスタは逝去するが、その直前に書かれた手記には無差別テロを批判する言葉が見出せる。
「《社会は今後も個人の領域に干渉しすぎる傾向にあるるだろう》(Rienzi)
《社会》だって? なんで《統治体》と言わないんだ。もっと正確に言えば《他者たち》だろう。だがそれでもその他者たちがさほど強くなく、統治体でもなかったのならば、悪いことなどほとんどしやしない。爆弾を投じて通行人を一人殺した男は、自分は社会の犠牲者なのだから社会に反逆したのだと言ってのける。だがこの哀れな通行人は言うにちがいない。《しかし私はその社会なのでしょうか》、と」(Errico Malatesta, Articles politiques, textes traduits, réunis et présentés par Israël Renof, coll.10/18, Unions générales d’éditions, 1979, p.25)。
(8)Jean-Luc Nancy, La Communauté désœuvrée, Christian Bourgois éditeur, 1986, p. 15–16、邦訳は『無為の共同体』西谷修・安原伸一朗訳、以文社、2001年、7-8頁。
(9)Léon Chestov, L’Idée de bien chez Tolstoï et Nietzsche (philosophie et prédication), traduit du russe par T.Rageot-Chestov et G.Bataille, Vrin, 1949, p.164-165、邦訳は『善の哲学―トルストイとニーチェ』植野修司訳、雄渾社、1975年、196頁。
(10)シェストフはこの言葉の典拠を明らかにしていないが、文面から推しておそらくアロイス・リールの研究書『フリードリッヒ・ニーチェ 芸術家と思索者』(1897)の第1章「書かれたものと個人性」(Die Schriften und die Persönlichkeit)の次の一節にある文章と文言(太字)からの引用だろう。
《Nietzsche ist der persönlichste Denker. Aus eigenster Erfahrung hat er das Wort geschöpft, dass jede Philosophie bisher „das Selbstbekenntnis ihres Urhebers war und eine Art ungewollter mémoires“, dass es „an dem Philosophen ganz und gar nichts Unpersönliches giebt“. Mihi ipsi scripsi! für mich selber schrieb ich es, ruft er aus, sobald er ein Werk vollendet hat. Er selbst sei in seinen Schriften, er selbst ganz und gar — „ego ipsissimus‘‘. Seine Bucher sollen daher auch keine gewöhnlichen Bücher sein ; es sind Erlebnisse, die „erlebtesten“ Bücher, Erlebnisse freilich eines Denkers: Gedanken als Erlebnisse.》(Alois Riehl, Friedrich Nietzsche Der Künstler und der Dencker, Fr.Frommanns Verlag, 1897, p. 15)
(拙訳)「ニーチェはきわめて個人的な思想家である。彼は自分の体験から、これまでの哲学はすべて「その著者の自己告白であり、無意志的な回想録のようなもの」であり、「哲学者について非人称的なものはまったく存在しない」と表現した。Mihi ipsi scripti !(それらは私に向けて書かれたのだ!)。彼は作品を完成させるとすぐに「これは自分のために書いたのだ」と叫ぶのである。自著の中で彼は彼自身なのである。完全に彼自身なのである──ego ipsissimus《最も自己的な我》に──なっているのである。彼の本はありふれた本ではない。それらは体験であり、最も「生きられた」本であり、もちろん思想家の体験であり、体験としての思索なのだ」。
 リールは「体験」なる意味でErfahlungも用いているが、むしろ積極的にErlebnisseを用いている。バタイユはこのドイツ語をフランス語で「内的体験」(l’expérience intérieure)と訳したのだ。蛇足だが、バタイユの『内的体験』にある「イプセ」(ipse)なる概念はこのニーチェのego ipsissimus《最も自己的な我》(『人間的な、あまりに人間的な』「序文」1)にルーツがあるのかもしれない。
(11)Op. cit., p. 143–145、邦訳は前掲書、『善の哲学―トルストイとニーチェ』植野修司訳、雄渾社、169–170頁。なお邦訳では「内的体験」は「心的体験」と訳されている
(12)Ibid., p. 149–150、邦訳は同上書、176頁。
(13)Ibid., p. 143、邦訳は同上書、168頁。
(14)Georges Bataille, L’Expérience intérieure, OCV39、邦訳は『内的体験』江澤健一郎訳、河出文庫、2022年、70頁。

執筆者プロフィール

酒井健(さかい・たけし)
法政大学教授。著書:『モーツァルトの至高性──音楽に架かるバタイユの思想』(青土社)、『バタイユ入門』(ちくま新書)ほか多数。訳書:バタイユ『純然たる幸福』『ランスの大聖堂』『エロティシズム』『ニーチェ覚書』『呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽』(以上、ちくま学芸文庫)、『ヒロシマの人々の物語』『魔法使いの弟子』『太陽肛門』(以上、景文館書店)ほか。

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