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連載第8回 『ケアの贈与論』

現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理。明治大学教授の岩野卓司先生が「贈与」の思想と「ケア」とを結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。

第8回では、「フロイトの介護論」と題し、『トーテムとタブー』を読み直すことから始めます。フロイトの議論と、マルセル・モース『贈与論』とをつなげることで、「ケアの両面性と贈与の両面性」が浮かび上がってきます。

フロイトの介護論

岩野卓司

幽霊の怖さ

 昔、ある本で原爆と幽霊とではどちらが怖いかという話を、読んだことがある。核兵器は大量殺戮どころか、人類の破滅までもたらす可能性があり、考えてみると怖くなる。しかも、そのことについて科学的根拠もある。それに対して、幽霊は存在するのかどうかもわからない。その存在は科学的に証明されてはいない。しかし、正体がわからないから怖い、という意見もある。

 幽霊を信じるのは、迷信だと言う人もいるだろう。しかしそうは言っても、やはり多くの人が幽霊を怖がる。確かに、宗教や呪術への信仰が強い、古代人や先住民たちのほうが幽霊への恐怖心は強いだろう。だが、宗教心が薄らいだ現代でもなおも幽霊を怖がる人はよく見かける。幽霊が怖い理由のひとつには、「恨めしや」の言葉で語られるように、幽霊が恨みや憎しみと結びついたネガティブな存在だと見なされていることが挙げられる。幽霊がみな天使であったら、だれも怖がらずに友達になっているだろう。だが、ふつう幽霊は悪霊や鬼であったりする。どうして、生者が死者になった途端、恐ろしい存在になってしまうのだろうか。

 これについて、精神分析学のフロイトはひとつの答えを用意している。幽霊が恐ろしい存在であるのは、僕らの心の奥底の敵意が幽霊に投射されているからである。つまり、僕らが死者の幽霊を怖がるのは、この死者への僕らの無意識の敵意が、恐ろしい幽霊というかたちをとってあらわれるからなのである。

愛する者のケア

 無意識の敵意を理解するために、『トーテムとタブー』の一節を読んでみよう。これは愛する者を一生懸命看病したが先立たれてしまった者たちの例である。

 妻が夫を亡くしたり、娘が母を亡くしたりしたとき、後に残された者は、自分の不注意や怠慢のせいで愛する者が死んでしまったのではないのかという痛ましい疑念──われわれはこれを「強迫呵責」と呼んでいる──にとらわれることがよくある。心細やかに病人を看病したことを思い出しても、言われるような罪もないと事実に即して否定しても、この苦痛は終わることはない。この苦痛は、喪の悲しみがどこか病理的であることを表している。それは、長い時間をかけることでしだいに消えていくものなのであ(1)

 これは、多かれ少なかれ家族のケアをする者に訪れる疑念であろう。一生懸命に愛情をむけ細やかに心を配り介護した者でも、自分が至らなかったから愛する者は死んでしまったのではないかという苦しみに苛まれる。もっと一生懸命介護すべきだったのにとか、もっと注意深く看病すべきだったのにとか、自分の心のなかで自分を責め立てるのだ。相手への愛情が強ければ強いほど、呵責の念は胸に迫ってくると言えるだろう。この呵責の念をどう考えていくべきであろうか。

 フロイトは呵責の念を精神分析の視点から解釈している。こういった呵責の念をどう否定しても否定しきれないのは、それ相応の正当な理由があるからである。もちろん介護において怠慢や不注意があったというわけではない。しかし、そこには無意識の動機が見いだされるのだ。

 やはり喪に服する人のなかに何かがある。それは自身には意識されない願望、死を不満としないし力さえあれば死を招き寄せたであろう願望である。愛する者が死んだあと、こういった無意識の願望を抱いたことへの呵責の念があらわれるの(2)

 やさしい愛情の背後には敵意が存在する。これは家族のように愛情のきずなが強ければ強いほど、その背後にある憎しみの気持ちは強いからである。介護において愛する人に心から尽くしても、その死後に呵責の念にとらわれるのは、介護者が心の底で抱いた殺意について無意識は彼らを容赦なく責め続けるからである。相手の死を望む無意識の願望が、死後に仮装したかたちで今度は当人に向かってくるというわけである。

 これをフロイトは「人間の感情の動きのアンビヴァレン(3)」と呼んでいる。これは何も特別なものではない。誰にも見られるものなのである。僕らの愛情には両面があり、愛情は裏側の面の憎しみと組になっている。愛情においてふだん憎しみを感じないのは、意識が憎しみを抑圧しているからであり、組になっているもうひとつの面を完全に失っているからではない。愛する人と喧嘩したあと、相手への憎しみが収まると、自責の念がこみあげてくるのは、愛情の下で再び抑圧された憎しみが無意識のうちに自分に向かってきて攻撃するからである。こういった愛と憎しみのアンビヴァレンツは、感情の動きが激しくなればなるほど強くなる。つまり、相手への愛情が強ければ強いほど、愛情のもうひとつの面である憎しみも強くなるのだ。介護というケアにおいては、看病する方が相手に強い愛情をそそげる。だがその反面、何かひとつ躓きの石があると、この強い愛情が強い憎しみに変わる。そしてそれが、暴力となってあらわれる場合もあるだろう。

 誰もが無意識のメカニズムにおいて、こういう両義性を生きている。どんな人でも、ふだんは否定的な感情を無意識に抑圧している。だから、無意識に潜む殺意というものは、決して異常なものではない。フロイトのエディプス・コンプレックスの理論によれば、誰もが幼少期に異性の親への近親相姦の願望と同性の親への殺意をもっているのだが、実際にそれらを実行する者は極めて少ない。ソフォクレスの『オイディプス王』では、主人公のオイディプスは運命の悪戯から知らないうちに父を殺し母と交わるのだが、フロイトによれば、この作品が現代に至るまで多くの人の心を揺さぶるのは、誰もが幼少期に抱いた願望が実現されているからである。しかし、このコンプレックスは無意識へと抑圧され、実際にはたいていの人はオイディプスにはならない。

 それと同様に、強い愛情が存在するところには、無意識のレベルで強い憎悪も併存しているが、それが殺人に至るケースは稀である。愛情をこめた介護においても同じである。しかしながら、フロイトを援用すれば、僕たちは誰でも潜在的に殺害者であることを自覚すべきである。この意味でケアは潜在的には大変危険な行為にほかならない。ケアから「不安や心配」を取り除き、「充足や喜び」のみを見ようとすると、この危険を覆い隠してしまう。本当は、二つの面はつねに二重になっているのである。

 だから、ケアにおいて自責の念にとらわれるのと、人が幽霊を怖がるのには、同じ理由がある。両方とも、無意識における敵意が原因なのである。それまで愛情をもって看病していた愛する人が死んだあと、幽霊になってこちらに危害を加えるという強迫観念にとらわれるのは、相手の死を無意識のうちに願った敵意が、相手の死後、仮装したかたちで自分のほうに向かってくるからである。一生懸命に看病した相手が死んだあと、良心の呵責を覚えるのも、無意識のなかに潜む殺意が、相手の死後に自分を攻撃し続けるからである。それは、幽霊のかたちをとるか、あるいは自責の念となるかどうかの違いなのである。

ケアの両面性と贈与の両面性

 ケアにおいて贈与は重要な役割を果たしている、とすでに述べた。介護する者は、介護される者に贈与やサービスをするのだ。それはしばしば、「無償の贈与」と言われる場合もある。家族が世話をする場合はその傾向が強い。

 ところで、ケアは両面的な性格をもっていた。そうであるならば、ケアの両面性は贈与ともかかわりをもっているのではないだろうか。たしかに、平川克美は父親の喜ぶ姿を見たくて料理を一生懸命つくったことから、贈与は相手に喜びをもたらすためのものであり、それによって自分も喜びを受けとると考えていた。最首悟も人は自発的に人のために何かをすることにいちばん喜びを感じると主張していたから、ここでも贈与は人を喜ばせることで自分も喜ぶことだろう。ケアの肯定的な面は、贈与と喜びを結びつけていた。それはその通りだと僕も思う。

 しかし、贈与は喜びをもたらすだけであろうか。たしかに、喜びをもたらす面もあるだろう。サンタクロースは、イヴの晩にプレゼントを子供たちに与えることで彼らに喜びをもたらしてくれる。記念日に愛する人にプレゼントを渡すのも相手を喜ばすためだろう。賄賂のような不当な贈与も相手にプレゼントを贈り歓心をかうことで自分も利益を得ようとすることだろう。

 だが、贈与はそれだけではない。もっと危ない面がある。贈与の人間関係においては、贈与する者が受け取る者に対して優位に立つのである。日常の貸し借りを考えてみても、受け取った者は贈与した者に対して負い目を持ち続け、お返しをしないとこの負い目は解消できない。北米の先住民の風習にポトラッチというものがあるが、この風習ではある部族の首長が別の部族の首長に贈り物を贈ったら、受け取ったほうの部族の首長はそれを屈辱と感じて対抗の贈与を相手におこなう。ここでは贈与とは、相手を辱めることでもあるのだ。だから、贈与が相手を喜ばせ自分も喜ぶという主張だけでは、見方がまだ不十分と言えるだろう。
『贈与論』の著者マルセル・モースは、贈与の両面性に気づいていた。彼は、ゲルマンの諸言語において贈与(Gift)という語が二つの意味を持つこと、に言及している。

 与えられたり渡されたりしたものが表す危険を、とても古いゲルマン法やとても古いゲルマン諸言語ほど感じさせるものはたぶんない。このことは、これらの言語全体におけるgiftという語の二重の意味が説明してくれる。この語は、一方では贈与を意味し、もう一方では毒を意味している。私たちは別のところでこの語の意味の歴史について論を展開した。不吉な贈与、毒に変わる贈り物や財産のテーマは、ゲルマンの伝承において基本的なものなのであ(4)

 ゲルマンのgiftはある真実を告げている。贈与は毒でもあるのだ。本来は相手に富をもたらし、そこから人間関係が生まれるはずの贈与が相手に不幸をもたらし、与えられた富が毒に変わってしまうのだ。モースが挙げる例のひとつは、ゲルマン神話『ニーベルンゲンの歌』に基づいて創作された、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』のなかで、ラインの黄金を手にした者が破滅し、ハーゲンによって与えられた酒盃が英雄ジークフリートの死を招く原因となるという話である。もうひとつは、北欧神話『エッダ』の英雄の一人フレイズマルがロキに対して、悪意からの危険な贈り物を受け取る前にお前を始末すべきだったと嘆く話であ(5)。モースはこういった贈与の危険性が現代の僕らも縛り続けていると考えてこう述べている。「ゲルマンとケルトの、おびただしいこの種の民話や物語はいまだ私たちの感性に取り憑いているの(6)」。現代の僕たちもなお毒としての贈与に縛られているの(7)

 ただ、モースは贈与の毒においても、悪意ある意図について考えているが、それだけでなく、無意識における悪意にまで広げて、贈与について考えるべきだろう。不吉な贈り物は、善意からでもそこに隠されている無意識の悪意に由来する場合もあるだろう。そういったとき、善意からの贈与が、本人の意図とは裏腹に、相手を潰したり破滅させたりすることにつながるのだ。贈与の両面性については、モースにフロイトを接続する必要があるのではないだろうか。

 愛情と敵意は、表と裏の関係と言えよう。これは贈与と毒の関係と同じである。愛情も贈与も一元化して美化できない。どんなに理想化しようとも、無意識のうちの敵意が織り込まれているのである。贈与や愛情の両面性は、ケアの両面性につながっている。フロイトが愛する者への献身的な介護に見つけた、相手の死を願う欲望は、贈与を特徴づけている毒や敵意と軌を一にしているのだ。ケアの両面性の根本には、この贈与の両面性が存在している。だから僕らは、汚い危ないものを避けずに直視しなければならないのだ。

連載第9回は、11月29日(金)公開予定です。

(1)S. Freud, »Totem und Tabu«, Studienausgabe, Bd.IX, S. Fischer, 1974, SS. 350–351, 「トーテムとタブー」門脇健訳『フロイト全集12』岩波書店、2009年、80–81頁。
(2)Ibid., S.351, 同、81頁。
(3)Ibid., 同。
(4)M. Mauss, Essai sur le don. Forme et raison de l’échange dans les sociétés archaïques, puf, Quadrige, 2007, pp. 208–209,『贈与論』森山工訳、岩波文庫、2014年、386–387頁。
(5)Ibid., p. 209, 同、387頁。
(6)Ibid., 同。
(7)贈与と毒の両義的な関係を踏まえて、ケアと関係の深い語であるホスピタリティ(歓待)が実はオスティリティ(敵意)と密接な関係がある事実は、注意すべきだろう。客人をもてなし多くのものを贈与する歓待は、語源的に敵意と深い関係がある。バンヴェニストによれば、古代社会では、個人と個人、クランとクラン、王と王のあいだで客人歓待の制度があり、お互いに招かれ招いて贈与交換をしていた。ところが、ローマ時代に国家という体制が成長すると都市の内と外を区別することが重要なった。この影響のもとでラテン語のhostisがもともと「客」の意味だったのに「敵」の意味をもつようになってきた。このhostisはゴート語のgoasts(客)やスラブ語のgostĭ(客)に対応する言葉であり、これが形骸化して「敵」の意味に変わってしまったのだ(É. Benveniste, Le vocabulaire des institutions indo-européennes, 1. Économie, parenté, société, Minuit, 1969, pp.92–95,『インド゠ヨーロッパ諸制度語彙集1 経済・親族・国家』蔵持不三也ほか訳、言叢社、1986年、85–89頁)。このバンヴェニストの解釈を踏まえて、デリダはそれに完全には同意してはいないが、次のように述べている。「客もしくは敵として受け入れられる異邦人(hostis)。歓待(hospitalité)、敵意(hostilité)、歓待敵意(hostipitalité)」(J. Derrida, Anne Dufourmantelle invite Jacques Derrida à répondre de l’hospitalité, Calmann-Lévy, Petite bibliothèque des idées, 1997, p. 45, 『歓待について』廣瀬浩司訳、ちくま学芸文庫、2022年、83頁)。意味の変換が生じても、元の意味が失われたわけではない。デリダの言葉が示すように、ホスピタリティとホスティリティは密接な関係にあるのだ。
*訳文・訳語に関しては既訳と一致しない場合もある。

執筆者プロフィール

岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

↓ 第1~7回の記事はこちらから


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