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The Fugitives 〜後編〜



崖の中腹。
まずはGPSで位置を確認し、
この先どうやって鹿を追うかを思案する。

ここまで、過酷な崖のアップダウンを繰り返してきた。
毎週末のように鹿を追って歩いている私でさえ
全身に相当な疲れが溜まってきている。
115メートルの崖を、鹿を回収しに海まで降りたのと同様、
あるいはそれ以上の疲労感だ。
山を歩きつけていない二人は
私より随分若くはあるが、そろそろ限界だろう。

比較的楽に歩ける、傾斜の少ないルートを考える。
しかし、やはりそれは崖の上にしかない。
何度目になるのだろう。
我々は再び険しい崖を登り始めた。



崖を見上げる。
青空との境目が見える。
きっと頂上に違いない。
あそこまで行けばこの苦行も終わる。
もう少しだけ、もう少しだけ。
自分を鼓舞しながら
一歩一歩を踏みしめる。
そしてついに目標の場所に
重い体を引きずり上げた瞬間。
頭上には次の稜線が見える。
単なる棚のような地形で、
本当の頂上はまだ先だったのだ。

「崖あるあるだから」と笑い飛ばす。
疲労困憊の二人が力無く笑う。
地形図をチェックすると、20メートル標高を上げれば
傾斜は急に緩くなる。
そこに到達したら、休憩して昼食をとることを告げる。
急に晴れ晴れとなる二人の表情に
こちらが思わず笑ってしまう。
腹が減っては戦にならぬ、とはまさにこのこと。
再び戦うには、食べなくては。
その為に、まずは登る。


長い長い20メートルの標高差を登りきり、
久しぶりに荷物を下ろす。
時間は13時。
6時間歩き続けた後のランチ。
コンビニのパンがとてつもなく旨い。
何と言っても、地面が平らだ。
それだけで、神に感謝したくなる。
「平らって最高!」
他愛もない言葉で、ゲラゲラ笑う。

普段の当たり前が、山では本当に特別だ。
ちょっとしたことが、いちいち嬉しい。
嬉しい、と思えることは幸せだ。
山に入ると幸福感を感じる閾値が限りなく下がる。
坂を登り切れば、やったぜ!と思い、
風が止まるだけで、よっしゃ!と喜び、
空気を吸うたびに、うめー!と感嘆する。
当たり前が当たり前でなくなった瞬間、
目の前にはたくさんの幸せの種が落ちている。
きっとそれは、アスファルトの道を歩いているだけでは
見えないものなのかもしれない。



チャージ完了。
再び集中力を高め、鹿が濃いと思われる斜面を
ゆっくりと歩き出す。
最初に鹿を撃ったポイントに近づく。
鹿が好きな地形だし、相当に時間もあけた。
別の群れが入っていても
おかしくないと考えていた。
しかし、斜面を横切り反対側の谷まで出ても、
鹿に遭遇することはなかった。

どうも、我々が歩いているエリアからは
既に鹿は出て行ってしまったようだ。
でも今日は何としても鹿を獲りたい。
どうしたものか。
思い浮かんだのは、歩き出して10分で
鹿を撃った前日のポイント。
大きな雄は見ていないが、確実に鹿はいるだろう。
何も獲れずに帰るよりは、
メスでもいいからSの為に仕留めたい。
日が暮れるまでの残り時間を考え、
一旦車に戻ってそこに移動して
日没直前の一番いい時間帯をピンポイントで狙う、
そんな作戦もありだな、と思う。
山を下る方向に進路を変えた。



しばらく行くと、カメラマンのHが
谷を挟んだ斜面に鹿の群れを見つけた。
狩猟同行三回目にして
私が見つけるより先にだ。
スポーツカメラマンとして培ってきた
目の力が為せる技か。

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鹿は全くこちらを気にする様子はなく
夢中で草を食べている。
ここからでは望遠レンズであっても
写真を撮るには遠すぎる。
近づくのにかかる時間は推定1時間。
山を降り、車で別ポイントに移動するよりは
時間は短いだろう。
ならば、今目の前に確実にいる鹿に
賭けたほうがいいのではないか。
プランを変更し、谷を大きく回り込むルートを歩き出す。
坂を登る途中で顔を上げると
さっさと逃げて行く鹿のシルエット。
一体何をやっているのだろう。
二兎を追うもの一兎も得ず、とはこのことか。
すごすごと元来た道を折り返す。



下って行くと、谷向こうの、より低い斜面に
また別の群れがいる。
立派な雄もいるではないか。
距離計を取り出す。
測れるのは最長350メートルまでだが
反応はなし。
ということは、それ以上、ということだ。

私の銃では、全くもって撃てる距離ではない。
獲れない鹿を見ていても仕方ない。
諦めてどんどん山を降りてく。
しかし鹿は動かない。
我々の動きが見えていない訳はない。
500メートル先でもさっさと逃げられるのに
今はなぜ動かないのか。
理解ができない。

鹿とほぼ同じ高さまで下ってきたところで
横方向にトラバースしやすい場所を見つけた。
撃てなくても、巨大な雄の写真だけでも撮れれば
この辛い山行が無駄にはならないだろう。
鹿から丸見えにもかかわらず
出来心で、一直線に近づく方向に歩いてみた。

一体何がどうしたのか。
鹿はそれでも草を食べ続けている。
斜面の端まで来て、一応木の陰に身を隠すように座る。
三人で小声で話していても
鹿は一向に気にするそぶりも見せない。

再び距離計で測定すると220メートル強。
銃弾のドロップ率はどのくらいになるのか、
未知の世界だ。
本来、射撃場できちんと練習もせずに
鹿を撃つことは許されないと思っている。
しかし、220メートルという距離は
私の銃では射撃場でテストすることはできない。
150メートルでのドロップ率は20センチなので
まずはその倍くらいで撃ってみようと思った。
木の枝の股に銃の先台を乗せる。
リュックの上に座り、さらに上着などで高さを微調整する。
遠距離射撃のため、銃も体もぶれないように
時間をかけてきっちりと固定する。
一番立派な雄に狙いを定め、ゆっくりと引き金を引いた。

一瞬動きを止める鹿達。
しかしまた草を食べ出す。
当たっていないのは明白だが、
それにしてもなぜ逃げないのだろう。
どういうことなのか、理解はできないが
事実、群れはそのままそこにいる。

さらに上を撃ってみる。
それでも群れは動かない。
一頭の雌鹿が、のこのこと開けた場所に出て来た。
久しぶりに全身がきちんと見えている。
Sを振り返り、
「メスなら撃てるかもだけどどうする?」
と聞く。
少し悩んだ後、Sは、やはり雄が良いという。
やはり確認して良かった。
肚を決め、銃を下げ、雄の全身が見えるのをひたすら待つ。

しかし、呑気に草を食べ続ける鹿達は動かない。
解体にかかる時間を考えると
そろそろ仕留めないと厳しい。
木々の間から一番大きく背中が出ている雄をめがけ
1メートルほども上を撃つ。
すると今度はかすったのだろうか。
ようやく逃げ始めた。
奥だけにではなく、手前にも来てくれ、と祈る。

その願いが通じたのだろうか、
何頭かが坂を下りてこちらの方向に走り出した。
あるいは谷の地形に音が反響し、
銃声がどの方向から聞こえて来ているのかが
全く分かっておらず、どちらに逃げたらいいのか
混乱していたのかもしれない。

群れの先頭を走る雄の全身が見えた。
木の股に銃を固定できる角度ではない。
不安定ではあるが、より自由度の高い
膝撃ちの態勢に瞬時に変える。
スコープの中に捉えた雄の動きが
ゆっくりに見え、そこに同調していく。
距離を考え、頭の少し上に照準を合わせる。
そして鹿が立ち止まった。
理由は分からないが、外す気が全くしなかった。

見事にひっくり返る雄。
四肢が空を向いて痙攣している。
そのままずりずりと、少しだけ斜面を滑り落ちて止まった。
距離を測ると160メートル、
狩猟を初めて4年間、今まで仕留めた中で
最も距離のあるショットだった。



後で見せてもらったが、
この日もHは鹿が撃たれた瞬間を
写真に記録していた。
立派な角を振りかざし、
前を向いて歩いて来た雄.。
一瞬、完全に真後ろに頭が向き、
次の瞬間は地面に崩れ落ちている。
直径12ミリ、重量約20グラムの弾頭は
160メートルの距離を飛んだ後でも
巨大な雄鹿の首を捻じ曲げる力があるのだ。

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倒れた雄の元に急行するが
きつい坂を下り、沢を渡れるポイントを探し、
かなり時間がかかってしまった。
急がば回れとの言葉通り、直線距離より
歩きやすさを優先してルートを選ぶ。
斜面の下から回り込み、ようやく鹿と対面を果たす。
フルサイズの雄。
体重は130キロといったところか。
偶然かとは思うが、弾は綺麗にネックに入っていた。


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Sに私のナイフを渡す。
止め刺しの方法はこれまで何度か伝えてきたが
最終的に簡単なおさらいをし、あとは見守る。
数秒の静寂。
ズブリとナイフが突き立てられる。
私がすぐに替わり、
そのナイフを切り返して喉までを切る。
 

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どす黒い色をした濁流が噴出する。
鹿の喉を切り裂くたびに、
こんなに血が出るのものなのか、と思う。
今回も血は綺麗に抜けているはずだ。

無言で鹿のそばにしゃがみ込み
目を見つめているS。
Sの希望の通りに撃った雄。
力強く走っている姿と
のけぞり倒れ、痙攣する姿を見届け、
胸に突き刺したナイフの感触も手に残っている。
これは、Sの獲物だ。
きっと心の中で、彼と対話をしているのだろう。
人生初の体験のはずだ。
邪魔はしたくない。
しばらく私も黙り、少し距離を置く。



頃合いを見計らい、解体の準備を始めた。
大きな雄を吊ることができそうな木は
鹿へのアプローチ中に当たりをつけていた。
そこまでの30メートルほどを
三人がかりで引きずる。
べらぼうに重い。
やはり巨大雄は、子供や雌とは別の生きもの。
吊り上げる時、内臓を抜く時、頭を落とす時、
全ての過程で巨大さと重さを体感してもらう。
この辺りで日が暮れてしまい、
あとはヘッドライトが頼りだ。

貴重な変形角の頭蓋骨は
頭骨標本にしようという話になる。
下顎の皮をむいてタンをとるが
素晴らしいボリュームであった。

毛皮は持ち帰りたいとのこと。
自分で皮をなめすのは相当に大変で、
現実的には業者に出すことになるが
それなりに値段はする。
しかし、店のベンチシートの座面カバーとして
鹿の毛皮を使いたいというのだ。
Sが店で狩猟の話をする時、
やはり何かしらの現物があったほうが
説得力は増すだろう。

嬉しい提案をいただき、
時間をかけて可能な限り丁寧に皮を剥く。
毛皮を剥ぐ時に一番酷使するのは
ナイフを持つ右手ではなく、皮を掴む左手だ。
筋肉から剥がすように強く皮を引っ張り、
境目に軽くナイフを当てていけば
皮に肉がつかない。
この時、左手の握力を使うのだ。
しかも、引っ張るだけでどんどん剥がれていく
仔鹿の皮と違い、大きな雄の皮はタフだ。
その為、毛皮を利用しない時には
皮にナイフでどんどん穴を開けながら
その穴に左手の指を引っ掛ける。
しかし毛皮をなめすとなるとその手は使えない。
私はこの猟期で、左の握力が随分鍛えられたが
SとHにとっては苦痛だろう。
しかしどんな作業にも終わりは来る。
後脚側から皮を剥いでいき、前脚を切除、
最後に首の肉とつながっている部分を切り離し
絨毯のように大きい、一枚ものの毛皮が取れた。

作業の邪魔にならないよう、
また毛の中にはたくさんのダニが潜んでいる為
少し離れた雪の上に毛皮を敷いて放置し、解体を続ける。
脊椎の隙間にナイフを入れ、上半身と下半身を切り離す。
更に上半身からネックを外す。
ロースやヒレを熟成肉に仕上げるのなら、
それぞれの肉を骨から外すのではなく、
サドルという、脊椎と肉をひとかたまりの状態で
持ち帰るのがベストだ。
大きな雄の場合、その重さは相当なものになるが
男三人いればなんとかなるだろう。
バラ肉とサドルの境目は金ノコで切り外す。
この時も雄の骨の硬さに驚く。
仔鹿や雌ならあっという間に切れていくのに、
全く刃が進まない。
この根気のいる作業をSが買って出る。
ありがたくお任せし、
Hと私は骨盤から二本の後脚を取り外す作業に取り掛かる。

長時間に渡る解体作業。
鹿を追って歩いている時には寒さは感じないが
手先を動かしているだけでは体は冷える。
尿意を催したHが中座する。

すると暗闇の中から叫び声が上がった。
「大変です!毛皮がありません!」
犯人の察しはすぐについた。
キタキツネだ。
毛皮は相当に重い。
まだそんな遠くまで持っていかれてはいないはずだ。
引きずられた形跡を追い、
毛皮を取り返して来るようHにお願いし、
Sと私は粛々と解体を続ける。

しばらくしてまたHの声が聞こえてきた。
「ありました!」
そして「ウォォォリャー」といった具合に大声をあげている。
毛皮を取り返し、キツネを叱り飛ばしているのだろうか。
或いは悔しがるキツネをからかっているのかもしれないな、
などと思っていたが、後で聞いてみたところ、
毛皮を咥えたキツネと対峙した時に恐怖感を覚え、
本気でキツネに戦いを挑んでいたそうだ。



解体を終え、肉を伸縮性の高い特殊な肉袋に入れる。
Sは背負子に前脚二本を背負い、
腰から伸ばしたロープの先に
バラとネックを入れた袋を引きずる。
Hは二本の後脚を片手に一つずつ引きずり
腰で鹿の頭蓋骨を引く。
私は毛皮とサドルと解体道具、銃を背負う。

体重が一気に増え、
一歩一歩が雪に沈む。
ゾンメルスキーの私はまだましで
疲れ切ったSとHにとっては最後の試練だ。



そして、21時。
全ての肉、毛皮、頭蓋骨を、車まで運び切った。
14時間、13キロメートルの行程。
しかもただの13キロではない。
四つん這いになって崖を登り、
尻で滑りながら降りる、を繰り返しての13キロだ。
この達成感は何物にも変えられない。
ハイテンションで叫びまくる。
抱き合ってお互いを祝福する。
一生の想い出となる、
かけがえのない一日を分かち合えたことに感謝する。



「獲れないならそれでもいい。しっかりと山を歩きたい。」
と言っていたS。
ここまでしっかりと山を歩く経験は、私でもそうそうない。
希望通りの立派な雄を仕留めることもできた。
これ以上の体験は、望んでもできないのではないだろうか。
翌日から襲いかかる絶望的な筋肉痛でさえ
Sの脳内では達成感の喜びとして変換されるだろう。

かたや私は、単純に喜んでばかりはいられない。
午前中に撃った鹿には、今期初の逃亡を許してしまった。
技術の未熟さ、読みの甘さ、覚悟の不足が
露呈した結果となった。
次にこの山域に入り、
後脚を引きずっている小さな雄を見つけたら
それは私の獲物だ。
必ず仕留め、責任を取ろう。
そう、心に言い聞かせる。
鹿がどこまでも逃げようとも、
負けずにどこまでも追うのだ。



しかし、翌日。
我々は、鹿の執念の逃げ足を
思い知る羽目になる。

獲ったばかりの肉を食おうと
いそいそとSの店に足を運ぶHと私。
すると、なぜか曇っているSの表情。
開口一番、出た言葉は、
「ミキオさんに謝らなくてはならないことがあります。」
それは毛皮のことだった。

ダニだらけの毛皮。
車に積み込む時には大きな黒ビニールに入れ、
硬く口を縛っていた。
翌日にはすぐに、なめし業者に冷凍便で送らなくてはいけないが
それまで家や店には入れてはダメだと説明していた。
Sはその通り、毛皮の入ったビニール袋を
店の外に置いておいた。
翌朝、早起きしたSの父親が息子のために気を利かせ、
店の裏にあった黒いビニール袋をゴミに出し、
気付いた時には時既に遅し、
業者に回収されていたのだ。

鹿の毛皮を有効活用できなかったことや
あの長時間の苦労が無駄になったことを
本気で悔しがっているS。
しかし善意からの行動ゆえ、
父親に怒りをぶちまけることはできない。
感情が全く整理できていない
なんとも言えない表情が、
少々不謹慎かもしれないが
Hと私の笑いを誘う。

最期の最後。
あの雄鹿は見事に私たちの手をすり抜けていった。
天国から、彼の高笑いが聞こえているような気がした。
その笑いが伝播したのだろうか、
私たちも、
前日の猟ではあまり使わなかった腹筋がつるくらいに、
笑い続けたのだった。

※写真は全てHiroaki Okawaraさんにご提供いただきました。

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