不動の鹿
「いやぁ、ようやく獲れましたわ」
満面の笑みを浮かべる
狩猟仲間のT。
罠に大きなオス鹿がかかったと聞き、
私は高速を飛ばしてTの手助けに駆けつけた。
しかし、肝心の鹿が見当たらない。
「分からないでしょ?
あの斜面、よく見てください」
笹薮を丹念に見ていくと、
100キロを超えるオス鹿が
きちんと頭を上げたまま寂然と座っていた。
それも、たった30メートルほどの距離に。
見事に気配を消し去るものだ。
今までもこうして幾多の鹿を
見逃してきたのだろうと思う。
近づいてみると、
左前脚には4ミリのワイヤーロープが
しっかりと巻きついている。
Tが前日にかけたくくり罠にかかったのだ。
まずは落ち着いて作戦を練る。
どうやってとどめを刺すか。
その後、どの木のどの枝に吊るして解体するか。
最短の時間で効率的に綺麗な肉をとるための
動線と段取りを決めていく。
自分を殺す算段を立てている人間たちを、
鹿は微動だにせずに見つめている。
怒りや恐怖があるようには見えない。
瞳には、ただ静けさだけがたたえられていた。
その姿が目に入る度に複雑な気持ちになる。
一体どんな気持ちなのだろう。
もし自分が動けないままに殺される立場だったら、
あそこまで泰然自若としていることは可能なのだろうか。
鹿は悪あがきすることなく、
既に運命を受け入れたのだろうか。
これから我が身に起こることを
大きな生命の輪廻として俯瞰しているようにも見える。
常に無数の命が断たれると同時に
別の命に引き継がれていくことで恒常性を保つ
「山」や「森」といった総体としての命。
死を覚悟した鹿は自身を一個体としてではなく、
山という大きな生きものの細胞の一つとして
捉えているのではないか。
あまりに落ち着き払った鹿のありように
混乱さえ覚え、色々な思いが交錯する。
そして、段取りが全て決まった。
最初に角を固定する。
頭を振り回されて
鋭い角で突かれたら命に関わる。
Tが、鹿を刺激しないようにそろそろと近づき、
棒の先に投げ縄状のワイヤーロープを付けた保定具を
ゆっくりと角に引っ掛ける。
鹿は大人しいままだ。
角にかけたロープを
罠を取り付けていたのとは別の木にかけ、
強く引っ張って結ぶ。
これでもう頭を動かすことはできない。
次に止め刺しを行う。
そのためにTが準備してきたのが
長い棒とナイフを組み合わせた槍。
ナイフの柄には2つの穴が開けられており
棒の先にネジで固定できるようになっている。
ナイフ作りの名人である
我々の狩猟の師匠が設計し、作ってくれたものだ。
銃で鹿を倒した場合は
鹿は力尽きて横倒れになっており、
首の付け根、胸骨の上のくぼみあたりから
ナイフの刃を入れ、
心臓から肺へと伸びる太い動脈を突く。
確実に鹿を絶命させ、
同時に心臓が動いている間に放血が行われ
肉に血の匂いが残らない。
しかし今、鹿は胸を下にして座っている。
また、角を前方に強く引っ張っているため
首は地面についたまま長く伸ばされている。
これでは首の付け根に
真正面から槍を刺すのは無理だ。
そこで、斜め左から
体の中心にある心臓を狙うことにする。
ピンポイントで心臓を貫くように
Tが慎重に角度を探る。
たまに刃が体に触れてしまう。
それでも鹿は動かない。
ようやく狙いが定まった。
一閃。
深々と胸に槍が突き立てられる。
鹿は跳ね上がるように一瞬だけ立ち上がり、
すぐに膝から崩れ落ちた。
傷口からは、水道の蛇口をひねったように
一筋の赤い血が勢いよく噴出する。
息が荒くなり、もがき始める鹿。
苦しいのだろう。
横倒しになり、四肢が空を蹴り上げる。
必死に息を吸おうとしているのか、
たまに全身がビクッと震え口が大きく開く。
生涯最後の瞬間に、
こんなにも苦痛を与えてしまうとは。
「早く楽にしてあげる」というセリフが、
人間が自分の罪悪感を
単に誤魔化すための言葉であることを知る。
楽になる前に、やはり鹿は徹底的に苦むのだ。
例えば仮に、鹿が自分のミスで谷へ滑落し、
動けずに苦しんでいるような状況下であれば、
「早く楽にしてあげる」
といった理屈が成り立つかもしれない。
しかし今、目の前で七転八倒している鹿に
その運命を与えたのは間違いなく我々だ。
苦痛に満ちた断末魔は
我々が意図的に作り上げたものに他ならない。
心が痛む、という陳腐な言葉では到底表現しきれない
心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。
しかしこれが狩猟だ。
命を獲って食す、という行為だ。
殺す側は、殺される側の苦しみから
目をそらしてはいけない。
それが死に逝く者へのせめてもの礼儀。
この残酷な光景を深く心に刻み付けるのが
ハンターとしての義務だ。
呼吸が浅くなり、
その間隔が徐々に長くなっていく。
槍で突いてから5分あまり。
ようやく鹿は動かなくなった。
いつもは銃で仕留めるため、
倒れた鹿の元に駆け寄った時には
鹿は大概虫の息で、絶命していることも多い。
十分に生きる力を残した鹿が
死んでいく過程を見つめ続けることは今までなかった。
本当に辛く、心が冷えきり、
喉がカラカラに乾いていた。
そして私は、解体の過程で
再び自分の浅はかさを知ることになる。
罠にかかった左前脚を外していた時。
肩甲骨付近の筋肉が断裂していることに気づいた。
太い血管も切れていて、
筋膜に沿ってずっと奥の方まで鬱血が見られた。
鹿は自らの力で筋肉を裂き、
血管を引きちぎってまで
果敢に抗い続けたのだ。
鹿は決して自分の運命を
潔く受け入れた訳ではなかった。
私たちの前で鹿が動かなかったのは、
立ち上がる力も残されていないまでに
戦い抜いた後だったから。
動かないのではなく、動けなかったのだ。
ぐちゃぐちゃに傷んだ肉と
ドス黒い血の塊が
鹿が生きようとした凄まじいまでの執念を
雄弁に語っていた。
最後の最後まで命を燃やし続け、
決して決して諦めてはならない、ということ。
またひとつ、鹿に教えていただいた。