食費をなくす⑨食費はなくならなくてもいい
2024年3月15日に3回目の狩猟期間が終了し、現在は2024年6月8日。今年で狩猟免許更新なので、昨日は午前中に診断書を書いてもらいました。この町の町医者さんはそういった診断書を書き慣れているのか、僕と妻をいっぺんに診察室に入れて、「アヘンなんか手に入れたら逮捕されるやんなぁ」とか「医者も診断書いるんやでぇ」「てか、何もないね、大丈夫やね?」とか、なんにも悪いこと言うてないのになぜかセクハラ感を感じるトークで妻とだけ談笑して、僕とはひとっことも交わすことなく1人1,000円で診断書を書いてくれました。ものの1分くらいで2,000円を稼ぐとはええなあ、と素直に思いました。とりあえず3回目の狩猟期間が終わり、4月からは「有害鳥獣駆除」という名目で村に一つだけ箱罠を設置し、管理しています。以前から村の農家さんに「冬の狩猟期間よりも、稲を食べにくる時期がいちばん困るから、狩猟期間以外にも獲ってほしいんやけどなぁ」と言われていたこともありますが、自分的なモチベーションとしては、今期もイノシシが獲れなかったからであり、箱罠であっても6月までに獲れたらまだ脂も乗っていて、美味しく食べられると聞いたことが原動力になっています。
そうです。今期も、イノシシが獲れなかったんです。獲れなかったことにより、獲るための方法をまたひとつ知ることができました。それにより、来期はぜったい獲れるという自信がつきました。と、いうことを繰り返しに繰り返してもう3年が経ちました。獲れなくて、獲れる方法を知り、また獲れなくて、また獲れる方法を勉強する。獲れるまで、獲れる方法ばかりが増えていく。こんなことでは、ただでさえ不器用なのにさらに拍車のかかった不器用となり果て、一生獲れずにその人生を終えていくのではないか。それは本当にそうで、どんどんどうしていいのかわからなくなり、いつの間にか獣道の上を堂々と歩いている。歩きやすいなぁとか思いながら。悲しい。
とはいえ、なんでこんなに獲れもしないイノシシを獲りたいのか。それはきっと、イノシシの肉を自給して食べたいから。今年は鹿はたくさん獲れて美味しくいただいているけど、それだけじゃやっぱりもたない。何がもたないかというと、肉の実質的な量ではなく、食べたいと思えるキャパシティ的にもたない。鹿肉は本当に美味しいんだけど、人が持ちうる“鹿肉食べたいキャパシティ”は、はっきり言って大きくも小さくもないと思われる。だから、頻繁に食べるとやっぱり飽きてくるというのが普通というもの。家族も僕も、毎日が鹿肉だとそりゃもたないし、鶏肉も豚肉も好きだし食べたいし牛肉は高いけど、ここっちゅう時はまだ買おうとする姿勢が残っている。そこでやっぱり狩猟免許を持っている限りは、せめて鹿肉だけでなく猪肉もいただけるようになりたい。猪肉を確保できる状態になることで、鹿肉で牛肉をまかなえ、猪肉で豚肉をまかなえる。加えてアナグマも捕獲し、気づけばスーパーで肉を買わなくて済む。肉を蓄え、野菜を育て、やがて食費は0円に。みたいな状態をめざして狩猟をはじめて、2024年3月で3年が経った。41歳の春だった。今期最後の罠を確認するとき、宝くじの最後の1枚を確認するときとほぼ同じ感覚だった。なんか違うと思った。今の自分の狩猟は、大金を得るために宝くじに浪費しているようなもんではないかと思えていやになった。本当に大事なことは、血眼になってイノシシを追うことではない。与えられた時間で狩猟を行い、さずかった山の恵みをありがたくいただくこと。そのことが僕には安心・安全な食生活に思えるから、鹿や猪を捕獲する。獲るためでなく、食べるために狩猟をする。たとえ獲れなくても、仕方ないねと他の食べ物を食べる。食費ゼロをめざして、一攫千金ジャンキーハンターにはなってはいけないのだ。ただでさえいろんなものを犠牲にする狩猟行為(獲物の命とか、家族との時間とか)。気づけばいとも簡単に食べたいより獲りたいが勝ってしまう狩猟行為。捕獲頭数なんてどうでもいい。命をかけてやってきてくれた獣たちの恵みを、どれだけ余すことなく家族の幸せにつなげられるか。そのための狩猟行為であることを、ずっと心にとめておきたい。
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