かわいそうと思うくらいなら狩猟しないほうがいいって言うけど、かわいそうと思いながらも狩猟してしまうことのほうが人としてよっぽど自然じゃね? 〜ハンターライターの狩猟暮らし〜
こんにちは、ハンターライターのふじわらゆうきです。
狩猟は、命を奪う行為です。狩猟の話題になったときによくあるのが、「動物を殺すときにかわいそうと思わないのか」というもの。
狩猟1年目のとき、初めて獲れた雌鹿の重さに圧倒されて、一人では車に乗せられず、父親に駆けつけてもらいました。狩猟には縁もゆかりもない父に、こんなお願いをするのは正直気がひけましたが、平日の朝だしそのとき急に頼れるのは父以外にはいなかったんです。四肢を縛られた鹿を見た父は、開口一番に「かわいそうに…」と言いました。それを聞いて、ちょっとイラッとした自分がいました。家族という近しい関係もあるかもしれません。でも、それ以上に「お前もほとんど毎日肉食うてるのに、なにを今さら「かわいそう」やねん」という気持ちがブワッと湧き上がってきたのです。と同時に、「かわいそうだと思うくらいなら、狩猟なんてしないほうがいい」という考えを、自分に言い聞かせていたのもまた事実でした。
狩猟2年目、3年目の猟期を迎えるにつれ、最初の1頭目を殺めたときよりも、正直「かわいそう」という気持ちは薄れていったように感じます。でもそれは、命を軽んじるようになったのとはまた違います。それは、「かわいそう」という気持ちを持ち合わせていながら、獲物を殺めるその時に「かわいそう」という感情のチェックボックスからチェックをはずせるようになった感覚かもしれません。何が言いたいかというと、「かわいそう」という気持ちを完全に捨て去ったわけではないということです。
話は戻りますが、「かわいそうだと思うくらいなら、狩猟なんてしないほうがいい」って、そもそもどういうことなんだろう?狩猟をはじめた当時のぼくは、この考えを美徳とまではいかないけれど、肝に銘じていたように思います。要は“「かわいそう」を捨てようキャンペーン”を自分の中で実施してたんです。なんとなーくですが、「あきらめません、勝つまでは」みたいな使用方法と似ているような…。でも、「かわいそう」って思いながら狩猟をすることって、そんなに悪いことなんか?って最近よく思うんですね。なんつーか、わざわざ感情を押し殺してまでやることかなーって。
1月くらいに獲れる雌鹿はおなかの中に子鹿がいることがとても多いんです。これをみてやっぱりかわいそうって思うし、もしこんなことを自分の家族がされたら本当にいたたまれない。でも胎内で子を育てる母鹿は強く、その生命力に毎回圧倒されてしまい、そこでは恐怖も感銘もリスペクトもぜんぶ入り混じった気持ちになります。そんななか、殺めて、捌いて、お肉にして、いただきます。そして、めちゃくちゃ美味しく感じるんです。
3頭か4頭で動いていても、1頭が罠にかかった瞬間に他の鹿たちはたちまち逃げていきます。でもすこし離れて罠にかかった鹿の様子をみていることもあるんです。これもまたいたたまれず、胸をしめつけられる思いになります。でも、捕獲し、殺めて、捌いて、いただき、すっげー美味しいと思うんです。「鹿のロースト、サイコー!」って言いながら家族で食べるんです。矛盾しまくりです。でも、それでいいんじゃないかな?人ってそんなもんじゃないかな。そこも人のいいところというか。(いや、わるいところか?笑)
かわいそうも、おいしいも、かわいいも、にくたらしいも、ぜんぶ持ったまんま狩猟をする。どんな感情も捨てずに、自分が思ったことをぜんぶ受けとめながら狩猟をする。いい面もわるい面も携えて、矛盾しまくりのありのままの姿で獣と対峙する。ぜんぶの感情をもって山に行きたい、そんなことをよく思う今日この頃です。
さて今回は、かわいそうと思うくらいなら狩猟しないほうがいいって言うけど、かわいそうと思いながらも狩猟してしまうことのほうが人としてよっぽど自然じゃね?というお話でした。最後まで読んでいただきありがとうございました。