ただ行き、ただ見て、マタギと出会う。
高校生の頃、東日本大震災が起きた。テレビでは毎日、被災地の様子が映し出されていた。しかし、当時香川県に住んでいた僕は、その様子を見てもほとんど何も思っていなかった。どこか遠い土地で大変なことが起きている、とわかってはいたものの、自分には何の関係もないし、できることもない。無意識のうちに別の世界の話だと思い、スパッと切り分けていたのだと思う。
ただ、あのときのことを今思い出すと、少しだけ記憶の音が異なるような、無音に近いのだけど何かがざわついているような、そういうイメージが湧いてくる。完全に無関心というわけではもちろんなく、当たり前に、心に突き刺さる何かがあったのだと思う。きっとそのときの自分はこの小さなざわつきを感じとり行動する力がなかったのだろう。大変そうやねと友達や家族と会話する以上になにかすることもなく、やがてテレビが日常に戻ったのと同時に、僕もやはり日常に戻った。
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大学生になり大阪に移り住んだ。はじめての一人暮らしに慣れてきた頃、宮城県出身の友達から震災の話を聞く機会があった。その子は「毎年、3月11日の14時46分にその時のことを思い出し、地元のことを想う」と言っていた。
同じ歳のその子のことばを聞いて、テレビの向こう側でリアルに生きていた人たちがいることを強く実感した。そして震災から数年経ちテレビではほとんど映されなくなった今でも、震災の影響は続いているのだと知った。僕は現地に行かなければと思った。何ができるわけでもないのだけど、ただ行って見てみたかった。ここで自分の気持ちを無かったことにしたら、僕はきっとずっと何かを無視し続ける人間になると思った。
結局僕は、大学時代に東北を3度旅した。最初は仲の良い友達と2人で電車旅。その次はまた電車で1人旅。電車では分からないことだらけだったので最終的に歩き旅もした。歩き旅は東北全てを回れたわけではなく、基本的には歩きで、放射線のあるところは温泉で知り合った優しい夫婦に車に乗せてもらって、福島のいわきから出発し、岩手の盛岡まで行った。お金と気力が尽きて途中で帰ってしまったのだけど(無計画過ぎる)、本当に辛くてたのしい旅だった。歩き旅中に更新していたnoteはこちら。
何度行っても、どんなふうに行っても、何かが分かるわけではないし、変わるわけでもなかった。でも、確かに言えることは「どこか遠い土地」だった東北が、旅をするごとに少しずつ近くなっているということ。その感覚は、じわじわと心が温かくなるような感覚で、今も僕を優しく包み込んでくれているような気がする。僕が今でも「旅をする」ことが好きな理由は、きっとここにあるのだと思う。
話は逸れたけれど、そんな東北旅の中で、松橋旅館というマタギの宿に泊まった。その宿でマタギを知ったことが僕の人生を大きく変えることになる。
松橋旅館は秋田内陸縦貫鉄道の比立内駅から山あいの集落を徒歩10分ほど歩いたところにある。はじめて比立内駅から降りたとき時刻は17時過ぎだったと思うのだけど、あたりは真っ暗で、シンプルに怖かった。Googleマップを見ながら宿まで歩いて行った。
宿に着いて諸々の説明を受けたあと「マタギの話を聞かせてほしいです」と言うと、ごはんの後に話しましょうか、ということになった。
松橋旅館では、マタギの松橋利彦さんが山で採ってきた山菜やきのこが、女将の悦子さんによって調理され朝夕の食卓に並ぶ。当時の僕は初めて見て食べる山菜料理にめちゃくちゃ感動していた。特に「みずのこぶの浅漬け」を恐る恐る口にしたときの感情は忘れられない。未知を体験して身体に取り入れるというのは、旅の醍醐味の一つだ。
そんなごはんの後、利彦さんからマタギの話、そしてここでの生活のことを聞いた。そこで利彦さんとお話したことを、ここに詳細に書けるほどはっきりとは覚えていない。ただ、こんな山奥の、夜になると灯りもほとんどないような場所で宿を経営し生活していること、食材を山から採ってくるという動物としての強さ、そして利彦さんの優しくて鋭い目。全てが魅力的で、そのイメージは今でも脳裏に鮮明に焼きついている。興奮醒めやらぬその夜、いつかまたここに行きたいと思った。
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マタギの宿に泊まって2年が経った。その間、自分のやりたいことをとにかくやってみた。コピーライターになりたいと思って宣伝会議の講座を受けたり、小説を書いてみたり、陶芸家になりたいと思って職業訓練校に行くためのデッサンの練習をしてみたり、いろいろ。
でも、全部長くは続かなかった。結局どんな選択肢の先にも「マタギ」があったからだ。いつかあの土地に行きたい、住んでみたい。今思えばどの選択肢も、結局そこに行くための経由地のような気持ちで取り組んでいたような気がする。これはもう覚悟を決めて「今」あの場所に行くしかないんじゃないかと思った。どうすればマタギになれるのかなんてもちろん分からない。でも、とにかく松橋旅館で働かせてもらえればなんとかなるんじゃないか。
今考えるとなんとも身勝手で、危ういなあと思うのだけど、当時の僕の心は「やっと覚悟できた」と思って晴れやかだった。大学院に行くのに必要なTOEICの試験は受けず、狩猟免許の試験を受けた。研究をしながら、ボクシングのジムに通って山に入るための身体を作った。マタギになるために準備することは、何をするよりも心地よく楽しかった。
松橋旅館で働かせてもらいマタギになる、と(勝手に)決めてから半年後、僕は大阪から秋田に行った。電車で比立内駅に行き、歩いて松橋旅館まで行く。その道中、どれだけ拒否されても引き下がらないし、絶対にOKをもらうまで帰らないんだと自分に言い聞かせていた。断られたら他に道はなかったからこそ、何を言われてもとにかく食い下がるつもりだった。
旅館に着いて、館主の利彦さんに挨拶をする。すると利彦さんは「前に来たことある?」と聞いてくれた。
「えっ、おぼえてくれてるんですか!」
「人があんまりこないからなあ」
「はあ…ありがとうございます」
2年前に一度来ただけの人間を覚えてくれていることに驚いて、面を食らってしまった。なんというか、僕は敵陣に乗り込むような気持ちで来たのだけど、温かいお部屋でお茶を出されてしまったような、そんな雰囲気になってしまった。
その後も、お客さんは僕ひとりだったので、ごはんを食べさせていただきながら僕が当時来た時のことをお話ししたりして、終始和やかな時が過ぎていった。この後「住み込みで働かせてください!」だなんて、逆に言えない空気感というか、とにかく場が温か過ぎる。
でも、僕はこれをお願いしにきたし、そのために準備もしてきたのだ。ただ旅館に泊まりに来たわけではない。言わないと、言わないとと思っていると、利彦さんが「なんでまたここに来たの?」と聞いてくれた。
そこで、利彦さんの話を聞いてマタギのことが忘れられなくて、ここに住み込みで働かせてもらいながらマタギを学ぶってできないかなと思ってきたんです、というようなことを言った。なんだかヌルッと言っちゃったと思った。
利彦さんは「ああそうかあ。でも人を雇う余裕はないんだよな」と言った。絶対に引き下がらないと覚悟を決めていたのに、そのときの利彦さんの優しい口調や、それまでの温かい空気感もあって、「そうですか。どうしたらいいでしょうか」とやすやすと引き下がってしまった。
すると、利彦さんは地元の先輩移住者の方や、市役所職員の方を旅館に呼んでくれて、僕がどうすればここに住めるのかの緊急会議を開いてくれた。夜9時くらいだったと思うけど、ほんとみんな温かいな。その時の話し合いで、仕事を見つけて移住すれば利彦さんが山に連れて行ってくれることになって、仕事を見つけないとな、という話になった。家は市役所職員の方が見つけておくから任せてということだったので、お任せした。本当にありがたい。
そして、幸運なことにたまたまその翌日からマタギツアー(観光客にマタギの風習についてガイドしながら、観光名所を巡るツアー)なるものをやっているという話になり、よかったらきますか?と誘われた。
僕は利彦さんに、どれだけマタギになる覚悟があるのかテストされるんじゃないかと思って、その後3日間くらい秋田にいるつもりだったのだけど、どうやらマタギの世界はそんな殺伐としたものではないらしい。(そのツアーに)いきます!と即答し、とりあえず夜も遅かったので寝ることに。
なんやかんやで仕事さえ見つければ、利彦さんと山に行けることになったのだから、これはもう成功だ、と思ってフカフカのお布団でぐっすり寝た。なんだろう、世界は温かいな。
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