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その感情は二度と帰ってこない。
先日、村上春樹のブッククラブに参加してきた。課題図書を決めて、その本をみんなで読んでくる。そして話す。ただそれだけなのだけど、とてもとてもたのしかった。主催のTさんは、「本って、映画みたいに同じ時に読んでその感想について喋るということをしづらいじゃないですか。」と言っていた。そうなのだ。大学生のときに村上春樹の本にどっぷりハマった僕は、それを誰かに話したくて話したくてうずうずするのだけど、絶対に嫌がられるし、それを越えてうまく喋れるような技術もないから、はまったかなり序盤で諦めてひとり村上春樹沼に潜っていったことを思い出した。
ひとりで本の世界に浸ることほど素晴らしいことはない。でも、みんなと感想を言い合うこと、というより、みんなの感想を聞くことがこんなにも素晴らしいものだとは知らなかった。それぞれが全然違う読み方をしていて、気になった箇所も、その箇所の解釈も違う。違うことがおもしろい、たのしい。話が脱線して自分の話になるのもすごくいい。ほんとめっちゃよかった。
今回の読書会では「女のいない男たち」という短編集の中の「木野」という小説をみんなで読んだ。この小説を貫いているテーマは、「傷つくべきときに傷つかなかった人」である。主人公の木野が妻に不倫される。木野は妻が不倫相手と性行為をしている現場を目撃したものの、何かを言うわけでもなく、その場を離れてしまう。その後、月日が経って妻と会った時にも、怒ったり、泣いたりするわけでもなく、淡々と離婚話を済ませる。そのような主人公が後に「自分が深く傷ついていること」を自覚するシーンがある。
ブッククラブの中でも傷つくということについて各々が自分の体験談を喋る時間があった(自然とそういう話をする流れになる)。自分もどんなことがあったかなあと思い出そうとしていたのだけど、そのときに思い出すことができなくて、話は流れてしまった。ただ、やっぱり何かあるんだよな、と思ってずっと考えていたのだけど、ひとつ思い当たることがあった。
それはこどものころに、「そのときにしか感じることのできない感覚を大事にすべきだった」ということだ。「傷つくべきときにちゃんと傷つく」ということとは少しずれるけれど、似たようなことだと思う。
僕的に小学校3年生くらいの野球部に入ったくらいのときから、大学3年生くらいまでの間、ごっそりとなにかが抜け落ちている感覚がある。それがまさに「そのときにしか感じることのできない感覚」だ。そのときの自分が、ガツンと感動したことや心が動いたことはたぶんたくさんある。でも、それについてもっと深く知ろうとしなかったし、それをやろうとしなかった。そんなことをしても無意味だし、無駄だと思ったからだと思う。小さい時の僕は、今の僕よりも漠然と就職することとか社会にでることに繋がりそうなことを選んでいた。たとえば理系のほうが文系よりも就職に有利そうみたいなこと。そんなこと、ほんとうにどうでもいいことなのに。
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