Hundreds Colorsです。
今回の「学び直し」は自戒を込めて少しまとめました。
組織開発や企業文化の統合、learning developmentとかの仕事をしていると、「あなたの言っていることは正しいが、冷たく感じるんだよね」
と言われることがある。
この瞬間から、「フレームワーク」というものを知っていても封印することにした。
もっと強くなるために「学び直し」をしようと、ビジネススクールで2年間学び直したわけだが、途中から強くなろうとすること自体をやめた。
そんな時に、山口周さんの「なぜ世界のエリートは美意識を鍛えるのか」を一気に読んだ。
何が常に正しいかではない、のである。
一般的にある議論として、「日本の学校教育はダメだ!」とか「前は、〜だったから今もそのようになるはずである」と言うのことが耳に入ることがある。
まぁ、私にとっては、一つの論調として興味深いトピックである。
簡単に表現すると「ものさし」が変化しつつあるということだ。
当たり前だが、企業での教育は、それ以前に学校教育の影響を少なからず受けていると見えることがある。
日本の教育が伝えたもの:サイエンス
日本でよく見られるビジネスや初等&中等教育を、「サイエンス」に紐付けて考える。
結論からいうと、私は日本を含めて多くの学校教育は「強くなるための教育」であると思っている。「弱さ」を表現して他者とつながり合う教育はあまりみられない、とも思う。
なぜ、教育が強くなるために使われることがあるのだろうか?
第2次世界大戦が終わり、日本が経済的に立ち直る時期において、「機動性」が求められた時期があったのだろうと思っている。
例えば、「工業」とか「ものつくり」と言うことを振り返ると、「限られた情報を使って、いかに決められたゴール地点に到達するか」が最も重要なこととされたのだと思う。
そのため、多くのビジネスパーソンがゼロからイチを生み出すよりは、物資を社会に供給するためにどんどん「再生産」することが必要だったのだろう。
この前提で考えるとき、次世代人材を作る役割である学校教としては、「ある程度自明であることは考えるよりも頭の中に覚えたほうが合理的だから、「暗記」とか「知識の詰め込み」ということが必要になる。
要するに、ある程度決められたことをレールに乗って制限時間内に進む感じ。
つまり、Railすることである。
この思考はビジネスを加速させるためのオペレーションとしてはとても優れている。極端な話、目的をあまり考えなくても、1つの企業で安泰に稼ぐことでき、ある程度昇進し、定年まで勤めて、家族を養うことができた時代があった。
学校教育で個人の評価をするならば、「強さ」は平均からどれだけポジティブに遠くに飛べたかを示す「偏差値」で計測しやすい。そして、これは平均的なゾーンにいると安心感を持つと言われる日本人にとっては相性がいい。
教育の文脈でいうと、モノサシとしてサイエンス優勢と言えるのではないだろうか?
そこから少しずつ、何かが転換しつつあるのも事実ではある。
2019年の終わり頃、アメリカから「株主資本主義が限界」にきていて、次の段階へ行くのだ!と言うニュースが飛び込んできた。
歓迎である。
誰もが薄々感じていたことなのではあるが、実際にニュースと知ると何かが前進したと思う。
何が見えるか、何を見ようとしたか?:アート
次に、アートを考えることにする。
どうも、人間はサイエンスが優勢であっても、「合理的に失敗することがある」ようだということ。論理的には正しい関係性なのかもしれないが、理不尽な結果になると言えばわかりやすいだろうか?
山口さんの書籍のタイトルにあるように、世界のエリートと言われる層は美意識を学ぶために芸術を観るということになっている。
サイエンスというレールに乗っていたが、どうも近頃はサイエンスで解決するのが難しい課題が増えてきたのではないだろうか?
例えば、二酸化炭素の排出量や貿易協定の問題のように、どのように問題点を捉え、ルール形成をしていくのかが問われるようなことである。
経済活動をする上で、損得は離れることができない。
アートという点で捉えると、「美意識」としてどんな「価値観」を大切にしているか、目の前の絵画などをどのように解釈できるか?ということを考えることになるのだと思う。
これは、決められた正解もないし、その有無があるのかすらわからない。
全く現代のビジネス活動と似ている。
ESGとかSDGsとか「世の中がこう流れているから合わせる」という表面的なことは立ち行かない。
【考えたこと】左脳での論理思考もいいが、右脳での感情思考になりたい
サイエンスとアートについて考えた時、頭に浮かぶ書籍がもう1冊ある。
原丈人さんの「公益」資本主義である。
私がもっとも共感したのは、企業が持つリソースやネットワークを使って社会課題を解決するために、今よりももっと稼ぐのだ!というような内容である。
株主のために企業は事業をするのではなく、そこにある美意識は「一人も取り残されない社会を資本主義という仕組みを使って解決に近づく」というものであると思う。
サイエンスとアートを行ったり来たりして考える人になろうと思う。
だから、最近は論理的に考える左脳思考は封印して、自分や相手が大切にしている気持ちや概念を感じようとしている。
これは、これで修行みたいなもの。
最近、何かに向き合う自分になろうと思って、お寺で座禅を始めたのである。
私には、「アート」の領域を増やすことが喫緊の課題である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?