同意と合意:多様性のなかの社会統合
note投稿に寄せて
このnoteは、私が様々な機会に作った習作をネットの海に放り投げることで、自己満足することを目的に作られています。
あくまで「習作」として、自分なりにそれなりに満足する出来のものを放り投げられるようには心掛けているので、何らかのリアクションをくれるととても喜ぶかもしれません。
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同意を契約論的概念として、合意とカントの美学的概念として区別を与えてみると、コンセンサス理論を深めることができるのではないか、という実験的なレポート。2021A「ドイツ言語文化論」(足立先生)のレポートです。
特にロールズのあたりの議論が怪しい、レポートの最終締切に迫られて書いたために孫引きを放置したままになっている、そんなレポートです。文献表にページ数の記載漏れも見つけてしまいました。しかしいつの日か、論文のタネになっているかもしれません。面白いことを書けたとは思うので、パブリックスペースに公開して、私はのどかに、花開く日を待とうと思います。
表記上のおことわり
・句読点を「,」から「、」に修正するのが面倒だったため、そのままになっています。慣れてください。
・強調の記号を本来は〈斜体〉と〈傍点〉、〈太字〉で区別していましたが、noteの仕様上できない(または至極面倒くさい)ので、太字で統一しています。慣れてください。
・noteも註釈がつけられるようになっていました。めでたい。
Ⅰ
言語の多様性を説明するうえで,「言語の混乱」に依拠するやり方は神話的である。ハーバーマスによれば,近代は,世界像の統一的な機能を果たしていた伝統的世界像が解体され,世界像の分散化と合理化が進行していく過程であった。現象学者の言を借りれば,客観的な世界は存在論的に前提とされるのではなく,間主観的に現れるものである。近代的世界観は,多様で主観的な世界の解釈が,相互主観的にコミュニケーションを通じて共有された生活世界を中心に,その合理化によって諸機能がサブシステムとして分離,自立していったものなのであった(Habermas, 1981)。
多様性とは,まさに世界観の多様化,そしてそれを認めることである。多様性は何かの性質というよりも,また世界観の一つというよりも,世界観そのものに関わっている。誰か一人が多様性を認めないと言っても,現に多様性はそこにあるのであり,多様性そのものを否定することとしては起こり得ず,多様性の否認はしばしば少数者への抑圧を含意することになる。こうした道を選ぶことなく,現にある多様性のなかで安定的な社会統合を図ること,その基盤になるのが,同意consentないし合意consensusの理論であった。
英語のconsent〔同意〕とconsensus〔合意〕はともにラテン語のconsentireを語源としておきながら,両者とも明確に異なる古典的概念を持っている。前者は「他者が提案したり望んだりすることに,自発的に同意agreementしたり容認acquaintanceしたりすること」(OED, “consent, n.”)という意味で14世紀から用例がみられる一方,後者は初出が生理学にあり,「意見の一致agreementであり,複数の人々の集合的に一致した意見」(OED, “consensus, n.”)という意味での用例は1861年がその初めとされる。しかし,その歴史の浅さも相まって,「『コンセンサス』概念について,コンセンサスはない」(曽根,1983)と言われるほど,「合意」は多様な使われ方をしている。本稿では,同意と合意の距離を改めて測りなおすことで,多様性のなかでの社会統合の基盤に十分な「合意」概念を再定義する可能性を示したい。
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「同意」は広く法学でも用いられるように,契約論の系譜に位置付けられる。例えば,ロックの社会契約説は,政治社会の起源を個々人の同意に基礎付けるものであった。
社会契約説に由来する「同意」概念は,自由な個々人が自らにおいてそれを是認することであり,これによって政体は正統性を持つようになる。「同意」は支配の学としての「政治学」から出現したという側面を持ちながら,垂直的な支配服従契約を批判する文脈で登場した術語であり,個人と共同体の関係を根源的に捉えなおそうとする概念であった。
一方で,「合意」概念は,カントが美学の領域について著した『判断力批判』のなかにその系譜をみることができる。カントによれば,人があるものを美しいとするときに働く判断は,真や善にあるような論理的判断から区別された趣味判断であり,それは内的な感覚器官を通じた私的な感情によるものである。そうした判断は理性にもとづかないため必然的な普遍的賛同が得られないはずなのに,人は趣味判断にある普遍性と必然性を言い立てる(Kant, 1790: §35)。とはいえ実際,人の美的感覚はどこかで一致をみせる。カントは,私的な感情に基づく趣味判断が他者に伝達可能であるのは,人間に構想力と共通感覚の能力が備わっているからであり,これによって趣味判断に客観的に規定的な根拠を与えることなく,エゴイズムの克服がなされると説明する(Kant, 1790: §34-39)。
趣味判断が依拠する私的な感覚を普遍的に伝達可能なものとするためには,共通な感覚に洗練させる必要があり,感覚に伴う偶然性を限りなく除去していくことが必要となる。
ここでアレントのカント解釈を参照すると,彼女は『判断力批判』を政治哲学に置き換えて説明している。アレントは,共通感覚について次の様に論じている。「私たちは他者のために,自分の特殊な主観的条件を克服しなければなりません。別の言い方をすれば,非客観的な感覚の内の非主観的要素とは,間主観性です」。続いて彼女は,「こうしたことが必要なのは,私が人間であり,人間の仲間の外で生きられないから」であるとして(Arendt, 1982=2009: 124f),「共通感覚」に対して,私的感覚から区別される「共同体感覚gemeinschaftlicher Sinn」を読み込んでいった(Arendt, 1982=2009: 133)。
アレントは,判断力が私的な領域を超えた共同体のなかで発揮される限りにおいて「他者との潜在的な合意」(Arendt, 1968=1994: 298)にかかるものとして考えており,そうした判断は普遍的ではなく,共同体内部の他者とのあいだで共通に持たれるものとして捉えた。すなわち,ここでの「合意」とは,私的空間から区別された公的空間,公共性において人々が間主観的に共通に持つことになる共通感覚sensus communisに関わっており,支配と統治の正統性に関わる「同意」とは対照的な概念なのである。
ただし,「合意」はこの意味に限られない。アレントのカント解釈に基づく「合意」は,個々人の人間悟性に基づく判断によって成立する一定の状態を指すものであるが,そこからやや離れて「共感」とも言うべき,集団における一体感や凝集性を強調するアプローチも可能である(曽根,1983)。これは,シュミットに代表される立場であり,若干の検討を要する。シュミットは国家を「人民の特定の状態,しかも政治的統一の状態」であると措定したうえで,国家が政治的統一の状態に到達するのは,人民の「直接的な自同性(unmittelbare Identität mit sich selbst)の状態」と,「同一性と代表(Identität und Repräsentation)のこの決定的な対立」によってであると整理する(Schmitt, 1928=1974: 240)。シュミットによれば,この前者の「治者と被治者の一致」こそが民主制の原則であり,民主制が採用する代表制は現実においてよくみられるものであるが,それは議員と選挙人が全人民の代表として行動することによって実現されているのである。
さて,シュミットは代表制を可能とする人民の同一性について,まず近代民主制の成立期には宗教において,やがて国民Nationという,「さまざまな諸要素,すなわち共通の言語,共通の歴史的運命,伝統と追憶,共通の政治的目的および希望」によって統一の意識が持たれるようになって獲得される「同一の国民に属しているという感情」を基盤として実現されていくと説明する(Schmitt, 1928=1974: 268)。この種の同一性を背景とした「合意」は,その実現のために少数者の排除を必要とすることになる。シュミットは国民的同質性が存在しない状況における解決策として,少数者を平和的に分離ないし同化するか,暴力的に排除することを提案する(Schmitt, 1928=1974: 269)。しかし,これは本稿が射程とする「多様性」に対して抑圧的に働くもので,認めがたい提案である。1970年代以降に登場した多様性のなかの社会統合を図る諸理論は,どこかでシュミットを批判的に意識することを免れず,同一性ではなく個々人の判断に基づく合意によって,その自同性を確保しようとするものである。さらに言えば,同意と合意の区別において,ロールズは社会契約説的な「同意」に依拠しながらカント/アレント的な「合意」の側面も有しており,ハーバーマスがロールズに加えた批判はカント/アレント的な「合意」の態度の貫徹を求めるものでありながら,彼もまた「同意」とのあいだで揺らぎをみせていくというものであった。次節ではその含意を,簡単にではあるが明らかにしていく。
Ⅱ
ロールズが『正義論』で展開した〈公正としての正義〉の構想は,「社会契約という伝統的な考え方を一般化しかつ抽象度を一段と高めた,正義の理論のひとつ」(Rawls, 1971→1999=2010: 5)であった。ロールズが正義の諸原理に負荷するものは,「おのれの利益の増進を気づかう合理的な人びとが対等な者どうしとして——社会的・自然本性的な偶然性によってどれほど有利・不利となるかが,誰にも知らされていないという条件のもとで——同意すると考えられる」原理である(Rawls, 1999=2010: 28,強調引用者)。ロールズはこの原理を確定するための理論的な手続きとして,「原初状態」と名付けた初期状態を措定する。原初状態では,合理的な諸個人が熟慮と討議に基づいて正義の諸原理を選択する。しかし,諸個人が各々の特定の属性や価値観のもとで討議を行ったとしても,異なる利益を持つ諸個人がエゴイズムに陥るのみで,社会の基底構造について合意をすることはできない(Rawls, 1999=2010: 184; 184f)。したがって,「原初状態」の諸個人は,誰も自分の属性や価値観を知らないという「無知のヴェール」を被ったままに,正義の諸原理を選択することになる。原初状態における合意は,各人の差異をその当事者が知らないままになされるので,どのひとりの個人の観点から考察しても,熟慮の結果到達するところは同一であり,かつその論証も同一である(Rawls, 1999=2010: 188)。また,ロールズによれば,原初状態において自分が相対的利益を得ることは他者に是認されず,また他者が特別な相対的不利益を被ることを受諾する根拠も存在しないため,平等な分配が支持される(Rawls, 1999=2010: 244)。そして,当事者は自分の境遇を知らず,起こりうる情況がどのようなものであるかわからない以上,その選択はゲーム理論に基づいて最小利得を最大化する行為選択をすることになる(Rawls, 1999=2010: 207-215)。ここではカント/アレント的な「合意」がみられ,個人の偶然性を限りなく排除したもとで,自分を他者の立場に置き換えてもなお支持される判断をもって,共通感覚として正義の諸原理を構想していくのである。加えてロールズは,「原初状態で選択される諸原理が〈正義に関する私たちのしっかりした(熟考された)確信〉と合致するかどうか,あるいはそれらの確信を無理なく拡張したものであるかどうかを調べる」手続きとして,「反照的均衡」を導入する(Rawls, 1999=2010: 28f)。こうして導かれた諸原理は,適理的——理に適った条件——であるとともに,直観——現実において不偏・公平な判断と信じられるもの——からも支持されるものとして,すなわち多様性の状況において誰もが同意可能なものとしての地位が担保されることになる。この意味で,〈公正としての正義〉構想は,社会契約説の系譜にあった。
ロールズは,「原初状態」で正義についての基本的な原理が採択されたのち,それが立憲,立法を通じて社会制度として具現化されていくなかで,無知のヴェールが徐々に剥がされることで現実世界への移行を示した。この四段階系列によれば,上位の原理の枠内で下位の制度が設計されていき,現実社会,やがては個々人の利害対立をも踏まえたうえでより高い諸原理の実効性を担保できる(Rawls, 1999=2010: 266ff)。しかし,無知のヴェールがすっかり剥がされた状態,つまり諸個人が多様な利害や価値観を有することが自覚されている状態において,一部の人は正義の諸原理を支持しないかもしれない。むしろ,現実は多様な価値観が存在しており,正義にかなった社会制度の安定性は疑わしいのではないだろうか。このような問題に対してロールズは理論的展開をみせ,『正義論』で示した〈公正としての正義〉が一つの包括的教義であるとしつつも,他にも哲学上・道徳上・宗教上の様々な包括的教義が存在し,それぞれが適理的で,並立するという立場を取るようになる(宇佐美,2019: 40,Political Liberalism参照)。すなわち,どの教義も熟慮と内省によって導かれ,他者に対する理由づけがなされた末に安定的になるに至った,「合意」に根差した同意可能な水準を満たしたものであるということである。そして,正義にかなった社会制度は,そうした諸教義が共通部分としてもつ「重なり合う合意overlapping consensus」であるというのである(宇佐美,2019: 41)。
ところが,ハーバーマスはこの「重なり合う合意」を疑問に付すことで,ロールズの「政治的リベラリズム」を批判する。ハーバーマスによれば,ロールズが多元主義批判に応答している点は評価されるが,「重なり合う合意が定着する以前には,本来なら非党派的判断形成を可能にするはずの,間主観的に共有される公共的パースペクティヴ」ないし「市民が共同の公共的協働のうちで政治的構想を発展させ,また正当化できるための『道徳的観点』が欠如している」(Habermas, 1996=2004: 104)。重なり合う合意は,それぞれの包括的教義から指示されるとしても,その根拠は教義内部で完結しており,偶然的な境遇,非公共的な理由づけを脱することができていない,いわば「同意」の格しか得られていない。したがってハーバーマスは,「協議を介して妥協にいたる当事者の場合なら,それぞれ別の根拠からその結論に同意しうるが,論証への参加者たちの場合は,もし合理的に動機づけられた了解へと到達するとしたら,同一の根拠によって到達せねばならない。このような正当化の実践は,公共的かつ共同で到達される合意を土台にするものなのである」として,複数の一人称を超えるような「間主観性」——これは,「そこに居合わせるあらゆる人」の観点を求めるカント/アレントよりも厳しい——を要求するのである(Habermas, 1996=2004: 107,強調引用者)。
ハーバーマスがこのような厳しい「合意」を要求するのは,彼が『コミュニケイション的行為の理論』において,人々がコミュニケーションを通じて相互了解を得るための条件かつ帰結として考えていたのが,世界観の解釈を共有すること,すなわちコミュニケーションの前提として機能するメタ的な共通感覚=生活世界を持つことだったからであったといえる(Habermas, 1981=1986-1987: [下] 25f)。さらに言えば,『コミュニケイション的行為の理論』こそが,多様性の時代に「普遍」のリアリティが揺らいでいた時代において,客観的に合意されうる内容を模索するものであった。
個人の理性という近代の観念に依拠するのではなく,日常の発話実践に普遍的に見いだされるある種の理性を以てすれば,限定的な意味ではあるにせよ社会の全体像を描きだすことが可能であり,そのように普遍化された図式から市民的公共圏の形成を規範的に基礎づけることができるかもしれない。この意味で,ハーバーマスは,カント/アレント的な「合意」論者であり,さらに合意の基礎づけをコミュニケーション的合理性によって行おうとした人物であったと特徴づけられよう。
しかし,多様性の現実において,ロールズが〈公正としての正義〉を包括的教説の一つという格に落とさざるをえなかったのと同様に,ハーバーマスも次第に「合意」の可能性を狭めざるをえなくなっていった。
ハーバーマスは,多様性の現実においてもはや基本的な価値観を共通感覚として持つことはできないと認めており,制限されないコミュニケーションの自由や紛争収拾のための民主的なプロセスといった手続き的な合意にその有効性を限定している。それでもそうした合意に基づく政治統合は,自由で平等な諸個人にとって欠かせないものであるというのである。
ロールズもハーバーマスも,「世界観において多元的でありながらその多元性を抑圧しない社会統合の基盤を制度はいかにして築くことができるか,という根本的な問いを共有している」(齋藤,2020)のであり,『正義論』でも『コミュニケイション的行為の理論』でも多様性のなかで同意や合意を得るための理論提起が確かに為されていた。特に,社会契約説の系譜にあったロールズも,「同意」のみならず「合意」による正当化を理論に含んでおり,多様性のなかで構想される社会制度には,市民の自発的な合意の契機が不可欠であった。しかし,多様性の状況のなかで合意の可能性に対してますます疑いがかけられるようになり,両者は理論的な修正を迫られていった。リオタールは『ポスト・モダンの条件』(1979)で,合意の原理そのものに疑問を付していく。リオタールによれば,「コンセンサスというのは地平であって,けっして獲得されるものではない」(Lyotard, 1979=1986: 150)のであり,不安定なものでしかない。したがって,「ハーバーマスが行っているように,正当化の問題を,普遍的コンセンサスの追求,彼が言うところの《論議》(Diskurs)すなわち論証間の対話という手段によるその追求という方向に練り上げることは可能ではないし,また慎重さを欠くように思われる」のである(Lyotard, 1979=1986: 160)。合意の理論には,ポスト・モダンの批判への応答が求められている。
Ⅲ
本節では,共同体内の合意に関して言語の解釈に焦点を充てたフィッシュの理論,共同体間の合意に関してワイタンギ条約を事例検討したポーコックの議論を検討することで,カント/アレント的な「合意」とは異なる合意の像を模索する。
フィッシュは,複数人とのあいだで言葉の意味がどのように確定するのかということ,とりわけ自己と他者,書き手と読み手のあいだで言葉の解釈についての合意がなぜなされうるのかということを明らかにしようとした。彼によれば,意味というものは,「固定し安定したテクストの属性ではなく,また自由で独立した読者の属性でもなく,読者の活動の形およびその活動が産出するテクストの双方に責任を持つ解釈共同体の属性である」(Fish, 1980=1992: 105)。テクスト解釈の合意が可能であるのは,お互いに個々の単語や文法構造を了解し理性を働かせるからでも——この場合,「正しい」意味が模索される——,「他のあらゆるひとの立場に自分を置き換え」て独りよがりな解釈から脱するからでも——この場合,「共通感覚」としての意味が模索される——なく,そこが状態,思考法,生の形式といったものが共有される「解釈共同体」の内部であるからだという。
ここには,カント/アレント的な間主観的態度の要請は存在しない。むしろ,テクストが確定的意味を持たないにも関わらず,発語の意味が直ちに,個人的な視座から明らかになること,そしてそれが「合意」に繋がるのである。フィッシュによれば,この合意の理論は,「(1) 独立した,文脈を離れた意味体系の不在にもかかわらず,伝達は生じる,(2) この伝達に参加する者は暫定的にではなく確信的にそうする(彼らは相対論者ではない),(3) 彼らの確信は一連の信念から発生するが,その信念は個人に特定されるものでも個人に特有のものでもなく,共同体的かつ慣習的なものである(彼らは唯我論者ではない)」の三つに整理される(Fish, 1980=1992: 103)。フィッシュは(2)で人々の積極的な主観的態度を認めておきながら,(3)でそれこそが共有される態度であり,合意を与えるものなのであるとして,カント/アレント的な「合意」とは距離を取る。解釈共同体を「共同体」や「慣習」として,外在的な制度というよりは持続的な,しかし場のようなものとして,ハーバーマス的な生活世界よりも緩やかな措定に留めておきながら,リオタール的な合意の解体は志向しない態度が(1)に示されている。つまり,共同体内での合意は日常において負荷なく行われており,しかしそこには共同体内という限定と,共同体外でそのような合意を得ることは困難であるということが強く示唆されているのである。
それでは,共同体間の「合意」とはどのようなものなのだろうか。この点に関してポーコックは,法と歴史の関係について議論するなかで興味深い事例検討を行っている。彼が取りあげるのは,19世紀にニュージーランドにおいてブリテン王権が主権を確立するプロセスの一環として,多くのマオリ人の独立したイウィ(諸部族)の首長とのあいだに1840年に締結されたワイタンギ条約をめぐる歴史である。彼はここに現在の視座からパケハ(ブリテン人入植者)とタガタ・フェヌア(マオリ人)の二つの共同体のあいだの論争可能性をみる。ポーコックは,この条約は両者の合意によって結ばれたものとして権威を認めつつ,その解釈をめぐる争いに焦点を絞っていく。一つは,ブリテンの王権に対して譲渡されたものを定めた部分であり,「マオリ側文書ではカワナタガkawanatagaという語で表現され,英語版では「主権」と表現された」。もう一つは,首長たちとイウィが保持するものを定めた部分であり,「マオリ版ではラガツィラタガrangatiratangaと表現され,英語では『彼らの土地と不動産についての,完全で排他的で干渉を受けない占有』」とされた(Pocock, 2005=2013: 307)。ポーコックによれば,前者のカワナタガは,英語の「統治」という語を宣教師が訳したものであり,その言葉がどのように理解されていたかは不透明であるものの,後者のラガツィラタガには「土地に対する究極的な権限」が含まれていた。ラガツィラタガは,「『土地の占有』のみならず,『マオリの流儀に従った所有,イウィの社会に内在する権威や価値の構造に従った所有』」を意味するものであるから(Pocock, 2005=2013: 309),マオリ側の署名者はそこに土地の占有とはっきりと結びついた権威を思い描いており,しかしパケハの側は「自然が与え,そのままにしておいた状態から彼が取り出したものは何であっても,彼はそこで労働をそれに加え,彼自身のものを付け加えて,それへの彼の所有権が発生する」(Locke, 1690=1997: Ⅱ#27)というロック的な所有権の観念から,土地の私的所有権と主権を可分なものと捉えていたために,その合意は結ばれた時点でずれを含むものであった。
それでも,ポーコックはワイタンギ条約の棄却を求めない。ポーコックは,パケハの歴史におけるワイタンギ条約と,タガタ・フェヌアの歴史におけるワイタンギ条約はそれぞれ異なる意味を持つものであるという立場をとりながら,その条約に二者の根本的に異なる主権観念を媒介するものとしての地位を与え,パケハとタガタ・フェヌアの相互に対して各々の歴史を批判と再解釈に開くことで論争の地平をひらくべきだと主張する(Pocock, 2005=2013: 318; 326)。ポーコックによれば,そのような歴史は自己の共同体の語りのナラティヴであり,それはいつでも偶然的で問題含みなものである(Pocock, 2005=2013: 392)。そこから得られた合意も,どこかに齟齬があり問題含みであるかもしれないが,それは合意の正統性を揺るがすのではなく,むしろ論争の継続性を担保し,自己の歴史を語る「主権」の行使の継続性を支えるものとなる。
ここでも,カント/アレント的な脱コンテクストを求める合意とも異なりながら,リオタール的な合意に対する冷笑的な態度に陥ることもなく,むしろフィッシュと整合的な合意論をみてとることができる。つまり,フィッシュの解釈共同体内の合意において解釈共同体の存在が自覚的に捉えられることはないが,それはポーコックの歴史においても同様である。むしろ,解釈共同体,ないし自己の歴史というものは絶えず潜在的に内部を決定づけるものであり,異なる解釈の登場,ないし共同体間の「合意」——それは複数の主観においてなされる——が問題化したときに初めて顕在化する。その契機こそ,多様性,複数性の現実を認めることにあり,「合意」は,多様性から共通感覚を得ること,という意味を離れて,多様性と複数性の現実を,あくまで自己の立場から相互に尊重する形式で認める,という意味を持つようになる。ここに「合意」の理論の新たな形があるのではないだろうか。
参考文献
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ヘッダーの写真:渋谷、2021年3月11日14時30分ごろ、好きな写真