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自分で自分を引き受ける
山崎エマ監督の映画『小学校~それは小さな社会~』を観た。
映画を観た後に浮かんだ言葉は、
「最近のオトナはみんな、他責なんだよな」
だった。
ちょうど今、私は仕事柄、新しく出てきたSNS:Threads の使い心地を試しているのだが、農業ネタを書くとバズることが多くて、アルゴリズムで農業ネタばかり流れてきてる。
「JAが中抜きしてる」「農水省が悪い」「米国企業に支配されている」「自民党が悪い」「いや立憲民主党が悪い」「日本の野菜は農薬まみれ」「日本のタネが危ない」
・・とまぁ、陰謀論と相まっていろんな農業デマが繰り広げられている。
上記は農業の世界の話。
教育の世界も同じ。
「今の教育は画一的だ」「詰め込み教育が歪めた」「ゆとりが失敗だった」「文科省が悪い」「教育委員会がダメ」「そもそも先生がダメ」「今の学校給食もGHQが仕掛けた、日本人を骨抜きにする罠」
あっちこっちも「利権が」「支配層が」と言って、どこかに悪い奴らがいる、いるに違いないと思いたがっている。
いたらどうなの?
「ほらね、やっぱりね!」って袋叩きにする?
「怖い」って泣きごと言う?
これは全部「他責」に見える。
どうして自分で引き受けないんだろう?と思う。
映画では、いつか本当の社会に出ていく時のために、少しでもしなやかに生きる力をつけて欲しいと願う大人達がつくる〝空間〟の中に子どもたちがいた。
それを〝枠〟に嵌められていると感じる人もいる。
そこで育つのは
協調性?
同調圧力?
これはある一つの事象を本人がどう捉えるのか?にかかっているに過ぎない。
私の場合は、自分の心くらい誰にも支配されたくないので、「子どもの頃に同調圧力の下で育てられたとは認めない。私はあの頃、協調性を学んだのだ」と答える。
・右側を並んで歩く廊下
・揃えられた靴箱
・時間内に食べなきゃいけない給食
それは先生たちが考えたただのツールに過ぎない。
こんなものに支配されなきゃ、私たちはまだオトナに信用されないんだ。なら信用されてやろうじゃないの、って子どもの私は思っていたから、アホらしいと思いながらもちゃんと守った。(給食はなかなか食べられなくてしんどかったけど笑)
主張するのはそのあと。
いちいち反応しないし、大人になってまで引きずらない。
でもね、守ってみると、そこにはちゃんと理由や誰かの想いがあって始まったことなんだと理解できることも多かった。
それなのに、いちいち反応して破る人がいるから、また私たちが引き受けなくちゃいけなくなる。
そうやって、益々 理不尽な校則や法令を思いつく人も出てきて、余計なことが増えていくんだよ。
「正直者がバカを見る」は、こうやって生まれてるんじゃない?
人のせいにはしない。
自分で引き受けて生きる。
映画の中には、フォーカスされていない〝引き受けている〟子もたくさん映っていた。
我が子にも、私が知り合った子どもたちにも、誰のためでもなく、自分のために、自分で幸せになってもらいたい。
というか、子どもは既にそうしようと思って生きている。
それなのに、他責で育ったオトナたちが、自分が子どもだった時にされたことの恨み節を今の日本の学校教育に重ねて石を投げている。見ていて苦しくなる。子どもまで巻き込んで自分のコピーを作っているように見える。
いつも「アメリカは」「フィンランドは」「フランスは」「イギリスは」と、外国と比較ばかりして、日本の教育をあまりにもネガティブに言う人が多いこの国で、「そんなに悪くないよ」とエマ監督は言いたかったのだろう。
私も昨秋アメリカへ行ってみて、「日本って悪くないじゃん」って思ったもの。
「絶賛」じゃなくて、「そんなに悪くないよ」程度に控えめに言おうとしているあたり、ナレーションを入れないスタイルからもそう感じた。もしナレーションが入っていたら、もっと視聴者を誘導できていたはずだもの。
他責でいるということは、自己否定しているということ。
それじゃいつまで経っても自己肯定感は持てない。
成功体験を積む=自己肯定感っていう方程式じゃないんだと、子どもたちの変わっていく姿を見続けてだんだんわかってきていたところだったので、そのメガネで私は作品を観た。
映画に出てくるフォーカスされている子もいない子も、自分で自分を引き受けることで、成長していた。
自立するために、自律する。
先生方はそれをちゃんと観切っていた。
そして、エマ監督チームはそこに絞って作品に仕上げていた。
学校は小さな社会。本当にそう思う。
【追記】
当日は、山崎エマ監督が舞台挨拶にいらして、生のエマ監督を見た。声のトーンや佇まい等、ネットで見るだけではわからない空気感を肌で感じた。
そして、これは何となくの私の想像にすぎないのだけれど、おそらくエマ監督は、日本の小学生時代、相当つらい思いをしていたのでは‥という気がする。ハーフだったことでの気苦労も絶えなかったのでは。
もしそうだとすれば、このような作品は撮らなかったのではないか。
それでも撮った。
そのこと自体に、エマ監督のはかり知れない〝想い〟があるのかもしれない。
質疑応答の時間をとってくださったのだけれど、聞いてみたくて時間切れで聞けなかったこと。
「エマさんが好きだった先生と、嫌いだった先生はいますか?」