なでしこ (全文無料)
彼女は高校時代から、なでしこのような人でした。秋の七草に数えられるなでしこ。「可憐で貞淑」。簡単に手折れそうな肩と柔らかい頬の線を、私は愛しました。綺麗に結い上げた髪の、うなじに落ちる遅れ毛が愛しく、私はよく指先でふわふわと遊んだものです。
彼女はその美しい見た目のせいで、いつも嫌な目に合っていました。男の人に言い寄られたり、不躾な目で見られたり。都電の中でふしだらなことをされたと、目に涙を浮かべて私の制服にしがみつき、唇を震わせたことも一度や二度ではありません。
私はその度に、彼女の家まで迎えに行き、登下校に付き添いました。男子生徒の告白を断ったこともあります。麗しい瞳で私を抱き締め、本当にありがとうと可愛らしく呟いてくれる彼女。その度に私は、ふっくらとした丸みと私の少し固い膨らみとが、ひたりと押し合い包み合うのを感じたものです。
女学校を卒業した後、彼女はすぐにお嫁に行きました。旦那様となる方はお金持ちで彼女に甘く、御式も盛大でございました。私は彼女の幸せを祝うと同時に、もう二度と、夕暮れの日差しの中で白い指に触れることはできないのだと、静かな悲しみに浸りました。
彼女が嫁いでからも、私達は良き友人でした。彼女はたくさん話してくれました。プレゼントで頂いたという真珠は彼女によく似合いましたし、様々なところへ旅行に行った話も、彼女は楽しそうでした。
ですが彼女の顔は、結婚して1年ほどで曇りがちになりました。可憐な顔が憂いに沈むのは、見ていて心が苦しいものです。私は彼女に、悩みごとがあるなら話すように説得しました。私は今も変わらず彼女の親友であり、何があっても守ってみせると固く誓っていましたから。
驚くことに、彼女の旦那様の嫉妬深さは異様なものだったのです。私は彼女の受けている仕打ちに戦慄しました。怖気を振るうようなことでした。実は、彼女は旦那様と一緒でなければ外出もできず、箸の上げ下げまで旦那様に指示されるような日々に耐えていたのです。その辺りは彼女にお聞きになってくださいませ。私の口からはとても。
旦那様がお仕事に行っている間に、まるで刑務所から逃げ出すように、彼女は私に会いに来ておりました。
彼女の頬に流れる露のような涙のために。そのためだけに、私は皆様ご存知のようなことを仕出かしたのでございます。遥か下、波涛が砕ける岩の上にぐにゃりと横たわった旦那様の姿を見た後、私は戻ってまいりました。
秋の雨は冷たくて、肩をしとどに濡らしておりました。
駅前でした。学校や仕事から帰る人々が、水音高く私の横をどんどん通り過ぎていきます。日が落ちておりました。すっかり暗く、駅の入口だけが滲んだ光を放っていました。
彼女を迎えに来たはずなのに、私は立ち尽くしておりました。本当にわからなかったのです。自分は何をしたのか。教えてくれるはずの人は、行ってしまいました。つい先ほど。
あれは、夢だったのでしょうか。西洋ナデシコの花言葉が「大胆」であることを、私は思い出しました。あの瞬間。彼女が見たこともない生き生きとした笑顔で、誰だか知らない男性と腕を組んで駅に入っていったのを見た時に。私はフラフラと改札に近づき、ホームを見通して彼女と男性が入る線を見ておりました。
私の目の前で、彼女の乗った特急列車は、雨を貫き私の知らないところへと去っていきました。
思えば女学校時代、彼女の代わりに私が断りに行った男子生徒や教師は何と言っていたでしょう? 飽きたのか? 確かそんなことを。私には何を言っていたのかわかりません。最初から彼らと彼女はお付き合いなど正式にしてはいなかったと思います。
これからどうすればよいのでしょう。
いえ、答は決まっています。私はこれから近くの喫茶店へ入るのです。そしてそこで、雨に濡れて震える手で、この手紙を書くのです。それからポストに入れ、どこへ行くかもわからぬ特急列車に飛び込むのです。可憐で貞淑な私の、遠い遠い思い出と共に。
(初出 ネップリ創作文芸同人誌『鯨骨生物群集』vol.3 2021年秋号)
紅茶が飲みたいです。↓
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?