新生活 (全文無料)
さて、こうして俺は桜の樹の下に座っているわけだ。
桜の樹の下には死体が埋まっている、なんて気取ったことを言ったのはどの作家だったか、俺はてんで思い出せない。ただ、花びらがヒラヒラ落ちてくるたびに、その色の薄さにどきんとするだけだ。
花が群れているときには色はちゃんと見えているのに、花びら一枚一枚のこの儚くて弱い感じは不思議だ。頭の上に広がる狂ったような可憐さは、地面に落ちるとただの汚れたシーツになってしまう。夜は官能に咲いていた体を朝に包む、みじめに白い、鑑識待ちのシーツ。
ごつごつした幹に寄りかかって、俺は風にざわめく桜を見ていた。
誰も、いない。
青い空の下、桜を見ているのは俺だけだ。
「あのぅ」
小さな小さな声がした。
女の声だった。自分が呼ばれるとは思っていなかったから、俺はそれを聞き流した。
「ちょっと……」
おずおずとした声だった。それは俺の右下から聞こえている。
面倒だったが、俺は顔を向けた。小さな、そうだな、せいぜい十センチぐらいの女が立っていた。
「え」
俺は固まった。普通におかしいだろ。なんだこのちっちゃい女。そいつは桜色のワンピースを着て、ちっちゃいバッグを持ち、途方に暮れた顔をしていた。髪は長く、彼女の腰まである。
「あのぅ、そこに座られると、困るんだけど……」
「はぁ」
女は俺を見上げると、ほんのり赤くなった。
「その、玄関先で寝られると、入れないんだけど」
玄関先?
女は意を決したように一歩踏み出し、俺の尻の下を指差した。俺は尻を浮かせ、わけがわからないまま場所をずれた。
緊張感を漂わせたまま、女は俺の尻のそばへ来ると、横目で俺が動かないのを確認して、桜の根元、ごつごつした幹の隙間へ入っていった。
今のは何だ?
ファンタジーの始まりだろうか。
でもあの困ったような眉には見覚えがある。あぁ……そうだ。俺はその女の顔を思い出した。
ここは俺の家の玄関先だ。春になると見事に咲く桜は、父の代からここにいる。俺の悪事を見通して、桜はずっと立っていた。
俺は目をつぶった。尻の下から音がする。肉をついばむ虫の音だ。
桜の樹の下には、死体が埋まっている。それは真理だ。女は──かつて俺の妻を名乗っていたその女は、俺を埋めた時に真理を知っていたのだろうか。自分が浮気女と罵ったオンナに自分自身が埋められた時に、理解したんだろうか。
大丈夫。その真理は今、見事に咲いている。思った通りになっただろう? 俺は永遠にお前と共に桜の下にいるんだから。二度と浮気なんてしないで。
目を開けると、巨大な花びらがシーツのように降ってきた。
俺は立ち上がり、女が消えた玄関へ入っていった。呪われた春の家で、新婚生活を取り戻すために。
(初出 ネップリ創作文芸同人誌『鯨骨生物群集』 vol.1 2021年春号)
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